東京都の豊洲市場問題で、今週も文春と新潮が正反対の論調で巻頭特集を作っている。文春は『豊洲の「戦犯」石原慎太郎とドン内田』と銘打って、石原知事時代、臨海副都心開発の一環として計画が動き出し、用地を売り渋る東京ガスを説き伏せるため、都側がさまざまに譲歩した土地取得の経緯や、旧民主党が第一党となった都議会対策で、自民党都連前幹事長・内田茂氏が暗躍したことなど、ことここに至る計画の裏面史を暴いている。


 片や新潮は『意味不明が多すぎる「豊洲のパンドラ」20の疑惑』として、そもそも主要建造物地下に盛り土をせず、空間を設けた判断を地震対策やコスト面において「合理的」と評価したうえで、現在わかっている程度の地下水汚染を問題視することを“空騒ぎ”だと皮肉っている。


 新潮は原発事故報道でも、似たようなスタンスで“空騒ぎ批判”を繰り広げ、“万が一”の環境被害を懸念する世論に冷ややかな態度だった。ある意味、一貫した姿勢である。この手の問題は実際、よほどの実害が現れない限り、あいまいな決着に終わる公算が大きいのだが、小池百合子・新知事の一挙手一投足が好意的に見られている現状では、文春報道のほうが読者受けはよさそうに思える。新潮はあくまで“逆張り”路線である。


 今週のポストで引っかかったのは、作家・曽野綾子氏の連載コラム「昼寝するお化け」の内容だ。クリスチャンとして世界各国の貧困・難民問題を支援する国際活動に関わった体験をさまざまに語る曽野氏のエッセイでは、国内問題では極端なほど「自己責任論」に固執する傾向が見られる。《弱者という言葉のいやさ》について論じた今週のコラムも、そんな“曽野節”で綴られていた。


《弱者という言葉のいやさは、弱者だと言われる人たちとは無関係に、そういう言葉や視線でものをいう人の臭気なのだ、とこのごろ思うようになった》


「このごろ」どころか昔から繰り返し、その手のことを書いてきた気がするが、そうした好悪の感覚は人それぞれだから、何も言うことはない。ただ、《自分が実は人道主義者だということを見せたいから、相手を「弱者」だとする。近来こういう嫌な姿勢を時々世間で見かける》という結びの文章にある認識は果たしてどうだろう。


 弱者の強調は本当に「近来」のことなのか。私の印象は逆である。近来、目立つようになったのはむしろ、「弱者」とされる個人を第三者が自己責任論によって袋叩きにする、ネットの普及とともに広まった現象だと思う。ヘイトスピーチをはじめ、先の“貧困女子高生”へのバッシング、生活保護受給者全体への猜疑的な眼差しなど、なぜそこまで敵意を燃やすのか、ゲンナリするような風潮である。


 もちろん「弱者」の範疇にも、共感できない相手は存在する。ただ、かつての日本ではもう少し、「建て前」が大事にされていた。部分的な不届き者をクローズアップして全体を非難することは、少なくとも公の場においてはたしなめられたものだ。


 知人にホームレス相手の炊き出しや衣類・毛布の支給、生活保護受給の手助けなどをするNPO関係者がいる。支援対象は必ずしも“無垢な弱者”だけではない。なかにはギャンブルやアルコールの依存者で、保護費を浪費して「カネを落とした」などとウソをつく“たちの悪い弱者”もいる。だが彼は「ダメな奴だから死んじゃってもいい、という話にはならないでしょう」と、ホームレスを選り好みしない。


 本当に同情すべき人もダメな人も混在する“弱者”という総体。個々の相手への好悪とは別に、“救うべき人々”というカテゴリー全体への“建て前”は堅持しなければ、社会はどんどん殺伐としてゆく。弱肉強食、適者生存、という“ホンネ”剥き出しの風潮がこれ以上エスカレートすれば、あの相模原の障害者大量殺人のようなヘイトクライムが、繰り返される世の中になってしまう。 


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三山喬(みやまたかし) 1961 年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。1998年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取 材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。2007年に帰国後はテーマを 広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って」 (ともに東海教育研究所刊)など。