(1)絵師、幇間、島流し、その名は英一蝶
英一蝶(1652〜1724年)の「英」を「はなぶさ」と読むことを、私は知らなかった。調べると、姓のひとつに「英」があることは間違いないが、有名人として登場するのは、英一蝶だけである。私自身は「花房」さんは知っているが、未だかつて「英」さんに出会ったことがない。
有名人と言っても、英一蝶を大半の人は知らない。元禄時代(1688〜1704年)に活躍した文化人を、高校の日本史教科書で探しても、英一蝶は見当たらない。忠臣蔵(吉良邸討ち入りは元禄15年12月14日=西暦1703年1月30日)のドラマの脇役で登場しているくらいのようだ。でも、知れば、この人物はとても興味をそそる。
とりあえず、概略を述べる。絵師である。俳諧、書道にも親しんだ。吉原遊びが大好きで、自ら幇間(ほうかん)、すなわち「太鼓持ち」「男芸者」として、大いに活躍する。しかし、幇間として活躍し過ぎて、三宅島へ流罪となる。流罪中も絵を描き続けた。5代将軍徳川綱吉(在位1680〜1709年)の死去による将軍代替わりの大赦で江戸へ戻り、絵師として幇間として復活する。
なお、「英一蝶」と名乗るのは、三宅島から江戸へ戻った直後である。それ以前の名は面倒なので省略した。
(2)若き頃
江戸の絵師の話なので、日本の絵画の大雑把な流れを述べておきます。
大きく分けて「大和絵」と「漢画」(唐絵)の2つの大潮流がある。
その区別は、ぼんやりしているが、「大和絵」は『源氏物語絵巻』のように日本の故事・人物・事物・風景を主題とした、いわば日本の伝統絵画である。これに反して、「漢画」(唐絵)は、中国からの輸入絵画である。鎌倉時代に禅僧が水墨画をもたらしたのが「漢画」(唐絵)の始まりと言える。当然、描かれるテーマは中国の故事・人物・事物・風景が多い。
英一蝶が入門した狩野派は、「漢画」(唐絵)の流れにある。狩野派絵画は金箔・銀箔を張り付けた総天然色の豪華絢爛な絵画である。一見すると、水墨画とは違い過ぎる、と思ってしまうが、強引に言えば、水墨画を総天然色にしたのが狩野派絵画である。狩野派は、室町時代中期から江戸時代末期の約400年間、日本の職業絵師の世界に君臨した。狩野派の当主は将軍や大名の御用絵師として、数十人の弟子を引き連れて、城郭や大寺院の屏風・ふすま・壁に大作を描いた。そのため組織がしっかりしていて、今日的に言えば、絵画専門学校のような弟子養成体制が整備されていた。
一方の「大和絵」は、大和絵諸流派の中では、土佐派が主流であった。念のため、土佐派と言っても、高知の土佐とは無関係である。室町時代末期に後継者が戦死したため衰退したが、17世紀中葉に復活した。江戸時代を通じて、「漢画(唐絵)の狩野派」と「大和絵の土佐派」が、日本画壇の双璧であった。スポンサー的に区別すれば、狩野派は武家大名、土佐派は公家宮中ということになる。
なお、土佐派からは「住吉派」が生まれ、江戸で活躍する。
狩野派、土佐派、住吉派は、いわば「家元」のしっかりした組織であるが、江戸初期に発生した、いわゆる「琳派」は家元でも組織でもない。尾形光琳(1658〜1716年)を代表とする作風を言う。その作風は、「漢画」(唐絵)と「大和絵」を自由に混合し独自のデザインを求めたということである。スポンサー的に言えば、町人(豪商)である。
江戸時代の絵画解説では「浮世絵」を述べなければならない。
「浮世絵」は、その名のとおり「浮世を描いた絵」つまり風俗画である。狩野派、土佐派出身の絵師も浮世絵を描いた。初期は、肉筆画(一点画)であったが、17世紀後半から木版画が発展していく。一応、菱川師宣(推定1630〜1698年)が「浮世絵の祖」と言われている。なお、菱川師宣の『見返り美人図』は肉筆画である。人物画は肖像画のように正面からの絵ばかりにあって、チラリと振り向く一瞬のポーズに美を見出したわけで、その絵を見た人をワクワクさせた。
さて、本題に戻って。
英一蝶の出身地は、生まれは山城国京都で、親は亀山藩と関係があったようだ。子供の頃、江戸へ来て、狩野宗家の狩野安信に入門した。ただし、2〜3年で破門される。
その原因は不明である。その後の一蝶の行動から推理するに、原因は「自由」であるように思う。狩野派画風の基礎をしっかり学んだから、もはや狩野派組織に縛られたくない、自由に絵を書きたい、ということではなかろうか。
一蝶は晩年に、若い頃を思い出して「若かりし時、あだしあだ浪のよるべに迷い、しぐれ朝帰りのまばゆきをいとはざるころおい、岩佐菱川が上にたゝんことをおもいて……」と書いている。若い頃、朝帰りを気にもしていない頃、岩佐又兵衛(1578〜1650年)や菱川師宣よりも上に立つという大志があったのだ。
菱川師宣は「浮世絵の祖」であるが、岩佐又兵衛は師宣よりも以前の天才浮世絵師で、大活躍していた。一蝶は狩野派絵師ではなく浮世絵師として名を成そうと思っていたのだ。しかも、岩佐又兵衛、菱川師宣の上をいく浮世絵を目指した。風俗画(浮世絵)を超える「新しい浮世絵」を構想していたのだろう。
しかしながら、若き一蝶の作品は数少ない。
若き一蝶は、絵師よりも、むしろ俳諧の世界で売り出していた。俳諧の世界では、そこそこの存在感、を示していたようで、いろんな句集に一蝶の句が掲載されている。そして、松尾芭蕉(1644〜1694年)、宝井其角(1661〜1701年)、服部嵐雪(1654〜1707年)らと交流する。芭蕉の弟子で、とりわけ優秀な弟子を、釈迦の「十大弟子」にあやかって、「芭門十哲」と称するが、其角も嵐雪も芭門十哲に数えられている。2人は芭門十哲というよりは、芭蕉の高弟の双璧である。一蝶は、とりわけ其角との交流は深いものがあった。其角が選んだ句集には、一蝶の句がいくつも見られる。
(3)三宅島へ流される
そして若き一蝶の第3の顔、それは幇間(太鼓持ち)である。幇間として、大名・旗本・豪商の家に出入りし、言葉巧みにその家の主を吉原で誘い出し、話術と芸で心地よく散財させていた。40歳の頃には、仏師民部、村田半兵衛、英一蝶は幇間として人気三人衆であった。無理やり今日的イメージを求めるなら、人気お笑い芸人ということかな……。
しかし、大名・旗本を散財させる幇間三人衆は、幕閣にとってはケシカラン人物であった。そして、事件発生。一蝶は、旗本の本庄資俊と茗荷屋の遊女大蔵の恋を取り結び、身請けさせる。身請け料900両、ご祝儀として100両をばらまかせた。それだけならケシカランだけの話なのだが、本庄資俊は将軍綱吉の生母桂昌院の甥であった。ケシカラン、懲らしめてやれ、ということで、逮捕され小伝馬町に入牢となる。正式逮捕理由ははっきりしないが、贅沢禁止令違反、生類憐みの令違反、幕政批判風刺ではなかろうか。一説には、一蝶は日蓮宗不受不施派とみなされての弾圧というのがある。
贅沢禁止令は江戸時代、頻繁に出されるが、出された直後だけ取り締まるという代物だったようだ。一応、1693年(元禄6年)には「大名旗本は吉原遊郭に出入り禁止」が出されている。偽名で遊ぶようになっただけに終わった。
生類憐みの令違反の嫌疑は、当時、無宿人浪人筑紫園右衛門が書いた風刺話「馬の物言う」(内容は馬や犬が集まって人間を馬鹿にする)を幇間芸を通じて流行させたというもの。
幕政批判風刺は、柳沢吉保や将軍綱吉などを絵画で風刺したというもの。古今東西、権力には、露骨な批判ではなく、遠回し、他人にかこつけてそれとなく批判することが流行るものだ。それは、芸術、娯楽の重要な分野である。一蝶の話術や絵画には、当然、風刺の側面があると思う。
日蓮宗不受不施派は、法華経を信仰しない者から布施を受けない、法施をしないという宗派である。相手が絶対権力者であっても、布施を受けない、法施をしない。キリシタンと同様に弾圧された。一蝶の絵の中に、群衆の中に旅姿の僧がしばしば描かれてあり、それが不受不施派の僧だと疑われた。
幕閣にとっては、いずれも「お上」に逆らうケシカラン輩である。西欧思想的に言えば、一蝶は「自由」「反絶対権力」を無意識に内包していたのである。
入牢したが、有力者の釈放運動で2ヵ月後に釈放となる。
釈放後、まったく反省なしで、幇間として活動再開。
人間の縁は不思議なもので、桂昌院から絵の注文が来た。ということは、40歳頃には一流絵師と世間から認識されていた。さらに、絵の弟子もいたことは確かである。
さて、当時の恋について。上流階級は「家」と「家」との結婚である。偶然、恋が生まれラブラブ夫婦もあり得るが、基本的に「家」と「家」の結婚である。家長(男)にとって、「家」と「家」が決めた「恋なき主婦」以外に、「恋しい妾」(セックスワーカー)が必然的となる。元禄時代は、近松門左衛門、井原西鶴を思い出せば、「恋」の価値がかつてない高まりをみせ、「命をかけて恋をする」ことに至高の感動を振るわせる。「恋」の手助けをすることは、これまた至高の感動なのだ。
幇間の「幇」の字は、助けるという意味であり、「間」は人と人との間である。幇間とは、人間関係を助ける、ということだ。宴会で、接待する側と接待される側を助ける、宴会で客と芸者の間をとりなす。そして、人間関係至高の「美」は「恋」である。幇間の感動とは、「恋」を成就させることである。英一蝶は、そう思っていたと思う。
第1回入牢事件から4年後、今度は旗本六角広治と菱屋の遊女小わたの身請けの仲を取り持った。人間の縁はまったく不思議なもので、六角広治も桂昌院の親族であった。幕閣は、1回は許したが、再犯はもう許さない、となった。それで、1698年(元禄11年)に第2回入牢、そして、一蝶は三宅島へ、仏師民部と村田半兵衛は八丈島へ流された。
英一蝶、15年間の流人生活が始まる。
(4)三宅島で絵を描く
大半の流人の生活は悲惨なものである。そもそも島民でさえ貧困状態である。基本的に、流人はそれ以下である。しかしながら、当時、流人は一定の範囲内で金銭や物資を持っていけた。金なら20両、米なら20俵持っていけた。さらに、「見届物」といって本土からの仕送りが認められた。その結果、床もない流人小屋で絶対的貧困状態の「小屋流人」に対して、「家持流人」が発生した。見届物が多い流人は、島民の家を借りて引っ越し、水汲み女を雇うこともでき、島民と対等になれた。
一蝶は「家持流人」となった。三宅島の阿古村で雑貨商となった。現在でも阿古地区は三宅島の中心地である。
江戸の一流絵師が流されたという話は、三宅島周辺の島に伝わり、隣島の御蔵島の神社から絵馬の注文が来た。商売上の都合、絵馬には幕府御用達絵師狩野派の門人であることが記載されている。三宅島や周辺の島の有力者からドンドン注文が来た。
江戸では、人気お笑いタレント兼一流絵師が三宅島へ流され、三宅島で描いた絵は大変な評判となった。注文がドンドン三宅島へ届く。一蝶も画材を注文したり代金を請求したりしている。絵を描くときは、必ず、江戸の方向、すなわち北を向いて描いた。俳諧の仲間もいない、幇間の仕事もない、江戸を思い出してひたすら絵を描くしかなかった。
江戸での一蝶の絵は、ドンドンと人気が出た。江戸商人の中には、三宅島まで来て、島民所有の一蝶の絵を買い漁った。だから、三宅島には一蝶の絵は数点しか残っていない。
ということで、三宅島での流人生活は、島民の平均的生活水準よりは裕福であった。しかし、島の生活水準はそもそも低いから、江戸に比べれば貧しい。其角との句の応答に、それがわかる。
一蝶配流の後、其角の許へ送りし発句に
初松魚(はつがつお) からしもなくて 涙かな
其角、返して
其(その)からし きいて涙の 松魚かな
(5)58歳、江戸へ戻る
1709年(宝永6年)、将軍綱吉の死去にともなう将軍代替の大赦により、赦免され江戸へ帰った。島から帰って、名を「英一蝶」と改名した。心機一転の決意であろう。英一蝶は、この時期、58歳から亡くなる73歳まで、大作も含めて数多くの絵を描いた。
なお、幇間同僚で村田半兵衛は八丈島へ流されたが、翌年には許されて江戸へ帰っている。親が高名な医師で、なんらかのコネクションの成果かもしれない。
また、仏師民部は八丈島へ流され、島で多くの仏像を制作した。英一蝶と同じく大赦で赦免され江戸へ戻る。そして江戸城内紅葉山の御用仏師となった。
英一蝶は、しばらくは江東区白川の臨済宗宜雲寺(ぎうんじ)に住んだ。そして寺の襖、屏風、軸物を描いた。そのため「一蝶寺」として有名になったが、関東大震災で一蝶の作品は焼失してしまった。
その後は、深川の霊巌寺の門前の家に住んだ。そこで、創作活動に励んだ。一蝶の作風は、次のように言われている。狩野派を学んだが浮世絵に憧れ、浮世絵に古典パロディや俳諧をプラスさせ、新しい浮世絵をめざした。
晩年、英一蝶は、「英派」の形成に精力をついやした。弟子の一舟は、一蝶の養子となり、英家2代目となった。流人時代に水汲み女(島での妻)に産ませた子を江戸に連れて帰り絵を学ばせたが、どうやら、勝手に2代目を名乗ったため不和になった。本能的に自由と反権力を有している一蝶には、強固な家元組織形成の才能はなかった。
さて、一蝶は幇間としても完全復活した。ただし、大名・旗本はさすがに懲りたらしく、客は豪商中心で、樽谷新右衛門、奈良屋茂左衛門、紀伊国屋文左衛門らに取り入っている。
波乱万丈の絵師人生だった。辞世の歌は、しみじみとする。
まぎらわず 浮世の業の 色どりも 有とて月の 薄墨の空
まぎれもなく浮世は色もあるなぁ〜。しかし、月は色なしの薄墨の空にあるなぁ〜。浮世は、色即是空であると、悟ったみたい。
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太田哲二(おおたてつじ)
中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。