超高齢化社会を迎えて、「寿命」に対する微妙な社会観の変化、そしてそれが新たな思潮となっていく過渡期のように筆者には思える。前回も触れたように、平均寿命が世界一ではなくなっても、メディアを軸に残念がるような、口惜しさを前面に滲み出すような空気はすでに醸成されない。世界の人類史上に例を見ない「長高齢化」が持つ、きわめて険しい将来予測に向けて、立ちすくんでいる景色が日本国内を覆い始めている。


 社会の基本スタンスは、100歳以上の高齢者が6万人を超えたというニュースはもうめでたくもなんともないものとして受け取るようになった。贈られる金杯が財政難でメッキになったというニュースのほうに、人々の関心の重心は移っている。


 こうした空気感、社会観が醸成される中で、当然のことながらその推進力となる主張、言説、論議が前面に押し出されようになってきた。いや、それが前面に出ることによって、この国の「そこにある危機」といったような気分が横溢する。高齢化は少子化を背景に、この国の「危機」になり始めているという影を濃くしている。その危機は、たぶん亡霊ではない、怪物でも架空のものでもないという言説は、さらに一層の重量感を増すだろうことは当然の流れである。


 この流れは、3つのポイントで勢いを増している。第1は、社会保障費の財源をめぐる問題、特に年金に関する高齢者と若年層の敵対関係の構築を促す論議だ。高齢者に対する手厚い福祉政策の見直し、「自助」という言葉に代表されるリタイア後の自主的生活設計の勧めなどは、現在の高齢者の立ち位置を基本的に変えていく試みにつながっている。


 第2は、文化人の一部、それも同じ高齢者に属する文学者などの、自立できない高齢者にする「退場論」の増加だ。「老人はいいかげん若年者に席を譲りなさい」という逆シルバーシート論だ。こうした文化人のエッセイなどが報道、出版ジャーナリズムでもてはやされる時代がやってきた。あからさまな「適正寿命」の勧め。


 第3は、過剰な医療や介護を受容すべきかどうか、胃ろうや経管栄養に対する「中止」の論議の活発化だ。不必要な延命、不要な治療という言葉は、どこまでが医療かどうかの論議をあまり尽くさないままに進んでいる。むろん、その先に尊厳死や平穏死という新たな常識づくりが生まれ始めている。そこが常識として成立すれば、安楽死に関する議論も時間を待たせないに違いない。


●孫のお年玉を取り上げる


 第1の問題に関する論考で、最もわかりやすい主張を発信しているのは経済学者で、経済財政諮問会議委員を務めた八代尚宏氏だろう。5月に発刊された同氏の『シルバー民主主義』(中公新書)には、高齢化に関するパラドックスが説明されている。少し長いが引用する。


「高齢者の寿命が伸びることは、それ自体、望ましいことである。日本の平均寿命が世界でトップレベルにあることは、人々が健康で安全に過ごせているという意味で、日本社旗の機能が優れていること意味している。他方で、高齢者の増加がもたらす年金や医療・介護費用の増大は、国民負担で賄いきれず、膨大な借金を生み、財政問題をもたらしている。なぜ、個人にとって望ましい長寿化が、社会全体にとって深刻な問題になるのだろうか。これが高齢社会のパラドックスである。


 それは、人々が長生きをする社会になっているにもかかわらず、長寿化社会を支える大きな柱となる社会保障制度や雇用慣行が十分に対応していないためである。民間保険と比べて政府が運営する社会保険では、加入者の社会保険負担増や受給者の給付削減への反発が大きい。そして、それを口実として、改革を先送りする政治的な圧力がかかり、財政規律を維持しがたくなる」


 八代氏は、このことを同書の「おわりに」のなかでさらにわかりやすく述べる。


「日本の高齢者は、正月に孫にお年玉をあげることを楽しみにしている。逆に孫のお年玉を取り上げるような高齢者は、およそ考えられない存在である。しかし、家族の中では起こり得ないようなことが、現に日本の社会保障制度では生じている」


●高齢者に支持を頼る政治


 『シルバー民主主義』というタイトルはもちろん逆説だ。サブタイトルに「高齢者優遇をどう克服するか」とあり、主題は高齢者に対する財政規律に対する認識の醸成と、政府がそれに根差した政策のプレゼンテーションを急ぐことを促すものである。


 同氏は、経済財政諮問会議でも混合診療の是認論者でもあり、社会保障政策のドラスティックな改革と財政規律論でいわゆる「小さな政府」論的な主張をしてきた。経済学的にみれば、現実に起こっていることに関する同氏の主張は正鵠を射ていると言っていいように思う。また、同書の中で語られる高齢者の投票行動が政治世界に与える影響の大きさから、権力側が高齢者の気持ちを逆なでするような政策をとりにくいことを詳しく説明している。消費税増税先送りは、同氏が指摘する政治の高齢者離れができない象徴的な政策と言えるだろう。


 将来世代への負担のつけ回しがどのような結果をもたらすかは、迅速な議論と新たな政策プレゼンテーションが必要なことは言うまでもなく、消費税増税に関する政策をみるかぎり、その必然性に関して政治の鈍さは非難されても仕方がないように思える。


 本質的に、同氏は財政規律の側面を語る中で高齢者優遇政策からの脱却を主張しているのであり、本稿が危惧を示す「高齢者退場論」、あるいは「適正寿命」を促す見解が添えられているわけではない。しかし、高齢者優遇政策の克服は、ある程度、高齢者に対するきわめて厳しい現実を招来することは間違いない。優れている日本社会の機能を残したままで、高齢者優遇政策を克服することがきるのか、その処方箋も示してほしいと言わざるを得ない。


 もちろん、若年者を取り巻く雇用環境の改善などが付帯して政策につながることなどが、八代氏の主張の前提でもあるが、問題の指摘は明瞭でも、次なる着地点に関しては具体性が乏しいようにも思える。


●やはり荒業しか残らないのでは


 財政規律の側面から言えば、将来世代への負担のつけ回しという指摘はやはり重たいものだ。現実の状況をどう打開するかに関して、過去の問題をあげつらっても仕方がないという反論は承知で、国民皆保険、皆年金制度が生まれて以後、政府がとってきた政策は何も変わっていないことが、やはり最大の原因だと筆者は考える。


 率直に言えば、社会保障制度に関する本質的な国民教育が行われてこなかったことが、現状の歪さを生み出している。


 何度か触れたが、70年代の老人医療費の無料化は最大の愚策だが、国民に社会保障制度は享受できなければ損だという考え方を植え付けた。実を言えば、当時の高齢者がもっとも手厚く社会保障の恩恵にあずかった。当時の働き手であった、現代の高齢者がそれを自分たちの高齢化到来時に常識として持ち合わせても仕方がないのだ。教育に着手するには遅すぎる。高齢者優遇は将来世代を考えると見直すことは当然だが、あまりにも議論が遅すぎる。遅すぎたツケが現代の高齢者に向けられ、それを正解として克服するためには、やはり「適正寿命」という荒業しか残らないのではないか……どうしても結論はそこに行きつく。


 次回は、高齢文化人の「退場論」を眺めよう。(幸)