今年7月26日、神奈川県相模原市にある県立養護施設「津久井やまゆり園」で、無差別殺人事件が起きた。元職員の植松聖容疑者が19人の入所者を殺害、さらに27人にも重軽傷を負わせた事件だ。


 その知的障害者施設には当時、入所者149人、短期入所者8人が在園していた。


 植松容疑者が衆議院議長にあてた手紙には「障害者は人間としてではなく、動物として生活を過ごしております」「私の目標は重複障害者の方が家庭内での生活、及び社会活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界です」と記されていた。


 憲法が保障している基本的人権、国連の障害者権利条約を持ち出すまでもなく、犯行がヘイトクライム(差別と憎悪に基づく犯罪)であることは説明するまでもない。


 このニュースに激しい怒りを覚えたのと同時に、149人もの人たちがJR中央線相模湖駅から数キロ離れた施設に暮らしていたという現実にも驚かされた。


 週刊誌の記者をしていた頃、障害者や障害者施設を取材した。


 04年のアテネパラリンピック、車椅子マラソンの金メダリストの畑中和。彼女は小学校6年生の時に交通事故で脊髄を損傷した。中学2年生から養護学校で生活することになった。いちばん近いスーパーマーケットまで6キロ離れていた。「車椅子でどんなに急いでも1時間かかった」と畑中は当時のことを語っている。


 社会福祉関連の施設の多くは、地域社会から離れた場所に建設されていた。


 そうした施設の入所者の話に耳を傾けてきた。90年代には入所者同士のデートが禁止されたり、散歩コースが決められたりしていた施設も珍しくはなかった。


 生理介護が困難という理由で、子宮を摘出された入所者もいた。


「入浴時間が怖い」と伝えてきた障害者がいた。その施設の風呂場を見せてもらった。大きな浴槽にタイヤのチューブがいくつも浮かんでいた。そのチューブを浮き袋代わりにして手足に障害をかかえた入所者を入浴させていたのだ。ある入所者は浮き袋から落ちまいと必死になって首をチューブにひっかけていた。


 その施設の職員は、そのことを指摘されるまでまったく問題ないと考えていた。


 1950年代、デンマークからノーマライゼーションという理念が生まれ、世界に広がっていった。これまでの入所型の福祉施設では、人権侵害が生じる可能性があり、社会からの隔絶を招く結果になる。簡単に言ってしまえば、そうした従来のやり方をやめて、地域社会の中で障害者が普通に暮らせるようにしていこうという考え方だ。 


 日本の障害者福祉に対する考え方もノーマライゼーションの方向に舵を切ったはずだ。しかし、今回の事件でそれが後退してしまったような気さえする。


 ノーマライゼーションの理念が簡単に流布し、実践されていったとはもちろん思わない。


 脳性マヒ者で組織された「青い芝の会」が、あるテレビ番組に抗議する集会にオブザーバーとして参加させてもらったことがある。


 テレビ番組はアメリカの障害者の状況をレポートするものだった。障害者のケアを訓練されたサルがするというものだった。障害者がサルに指示すると冷蔵庫の水や電話を持ってくる。すぐれた番組ということで、何かの賞を受賞していた。この番組を放送した局の関係者は、番組が広く社会に受け入れられ、感動を呼んだと説明していた。


 正直に言えば、当時の私は何が問題なのかよくわからなかった。器用に家の中を飛び回り、障害者のためにドアを開けたり閉めたりするサルは障害者の役に立っているのではないか。そう思った。


 しかし、「青い芝の会」のメンバーはそう受け止めてはいなかった。抗議集会で、会員のひとりが質問をした。


「介護するサルは紙オムツをしてましたよね」


 確かにサルには、オムツがあてがわれていた。


「そのオムツ交換は誰がするんですか」


 当然、サルの世話をするスタッフがいる。


「サルの世話を健常者がして、そのサルが障害者のためにケアをする。何かおかしくないですか。だってサルの世話をしている人が障害者のケアをすればいいではありませんか」


 担当者が口ごもったのを覚えている。が、それは私自身の姿でもあった。


「障害者はサルにでも面倒みさせておけばいいって、それって差別につながるとは思いませんか」


「ベンチレーター使用者ネットワーク」代表の佐藤喜美代は、進行性筋萎縮症で、12歳の時からベンチレーター(人工呼吸器)を24時間使用する生活を送っている。


「あなたは一生涯病院で生活しなければならない」「夢を持ってはいけない」と言われ続けてきた。90年に施設を出て、自立生活を開始した。


 それまでは窓の外の景色を見るのにも手鏡が必要だった。手鏡に切り取られた世界しか知らなかった。


「3日で死んでもいい」と施設を出て自立した生活をめざした。あれから26年が経過した。


 現在、彼女はフィリピンから養子を迎え、母親でもある。施設について、佐藤はこう語る。


「私は、どんなに障害が重くても、地域の中で当たり前に生きられる社会をと願い、呼吸器を付けた人たちの会『ベンチレーター使用者ネットワーク』を立ち上げました。障害者が地域で暮らすことにこだわり続け、車椅子の仲間と24時間の介助保障を求め市長室で座り込みしたり、ホテルやデパートのバリアフリー化を求めて何度も話し合いを重ねたりしてきました」


 デパートにスロープができたとき、それまでの経緯を知っていた老人から、「ありがとう。あなたたちのおかげだ」と言葉をかけられた。


 彼女は寝たきりで、車椅子も寝台式のものだ。その車椅子で、彼女はレストランや映画館に足を運ぶ。積極的に地域社会に出ていく姿勢を今も貫いている。そうすることによって、障害者への偏見を少しでも減らせると思っているからだ。


「ずっと言い続けてきた私の言葉に、ようやく少しずつ、人々の理解が深まってきたと感じています」


 新聞報道によると、外部からの侵入を防ぐため、「津久井やまゆり園」の建て替えが検討されているようだ。しかし、いくらそこに予算をかけても、ヘイトクライムそのものの抑止力にはつながらないのではないか。それよりも、グループホームを地域社会に多く設けて、彼らが彼らなりに普通な暮らしができるような環境を整えることのほうがはるかに重要な気がする。


 だが、相模原の事件を境に、ノーマライゼーション、共生という理念が昔に逆戻りしつつあるような印象さえ受けるのだ。


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高橋幸春(たかはしゆきはる) 1950年埼玉県生まれ。早稲田大学卒業後、ブラジルへ移住。サンパウロで発行されている日系紙パウリスタ新聞(現ニッケイ新聞)勤務を経て、78年帰国。以後、フリーライター。高橋幸春のペンネームでノンフィクションを執筆。87年、『カリブ海の“楽園”』(潮出版)で第六回潮ノンフィクション賞、91年に『蒼氓の大地』(講談社)で第13回講談社ノンフィクション賞受賞、『誰が修復腎移植をつぶすのか』(東洋経済新報社)など多数。2000年に初の小説『天皇の船』(文藝春秋)を麻野涼のペンネームで上梓、移植をテーマにしたミステリー『死の臓器』『死の臓器2』などがある。