A)武人ではなく科学者のタイプ


 榎本武揚(1836〜1908年)を思うと、「最後まで明治新政府に反抗した幕臣の姿」と「明治政府の高官を歴任した姿」のギャップに戸惑ってしまう。戸惑いつつも、その生涯を追いかけてみよう。


1836年、旗本榎本円兵衛の次男として、江戸下谷御徒町に生まれる。旗本と言っても、円兵衛は備後国の庄屋の子で、千両で御家人株を買って旗本榎本家の婿養子になったものである。円兵衛は、『大日本沿海與地全図』を作成した伊能忠敬の弟子として忠敬の測量の旅に従った人物で、忠敬の死後は幕府天文方で暦の研究をした。したがって、円兵衛は「旗本=武人」タイプではなく、「近代科学者」タイプとイメージされる。


 そして、武揚もその血を明らかに受け継いでいる。そのためであろうか、武揚は儒教教育の昌平黌(幕府の学校)では落第点に近い成績で、かろうじて卒業できた(1853年)。その年は、ペリーが初めて浦賀へ来航した年である。時代が回り始めた。学問も、儒教中心から洋学へ回り始めた。


 その頃、アメリカ生活10年の漂流民であった中浜(ジョン)万次郎が江戸で内々の英語塾を開いた。武揚は、そこへ通い英語とアメリカの知識を得る。そこの同窓には、箱館戦争の戦友・大鳥圭介(1833〜1911年)がいた。


 なお、「箱館」の文字は明治2年に「函館」に変えられた。理由は「箱」は「蓋」と「はこ本体」が分離可能、「函」は「蓋」と「はこ本体」が一体である。明治新政府は、「箱」の字だから、「北海道分離独立の動きが発生した」「縁起が悪い文字」とみなしたためである。


1854年、幕命で堀利熈(としひろ)が北蝦夷(樺太)調査に出発した。武揚はそれに随行した。この年の3月3日、日米和親条約が調印され、下田と箱館が開港された。堀の調査隊が津軽へ到着するとペリー艦隊が箱館に入港したと知らされ、北海道の松前(福山)でペリー艦隊の詳細を聞く。


 堀の調査隊は、北蝦夷(樺太)の北緯51度まで調査し、8月に箱館へ戻った。その時は、ロシアのプチャーチン艦隊が入港していた。時代は進行していた。


 後世の我々は、すでに武揚の運命が、北海道、樺太、ロシアと運命づけられていると知る。


1855年、幕府は海軍士官を養成するためオランダの援助で長崎に海軍伝習所を創設した。この年の第1期伝習生に勝海舟がいる。


 1856年、第2期伝習生募集に武揚は応募したが、昌平黌の成績が不良のため不合格となった。しかし、武揚はあきらめず、あれこれ工作し、合格した友人の付人という名目で伝習館入りを許可される。


 ここでの武揚の成績はトップで、オランダ人教官カッテンディーケは、彼の『長崎海軍伝習所の日々』で、武揚を褒めちぎっている。


 伝習生は、単に航海・戦術・造船・語学・数学・地理・蒸気学などを学んだのではなかった。化学の教官であるオランダ人医師ポンぺは、次のように述べている。


「この学校の最大重要性は、青年たちがそこで受けた苦しい教育にあるのではなく、むしろ4年間、オランダ海軍の士官と接触し交際することによって、これらの日本青年学徒が完全に生まれ変わったことにある、というのが私の意見である。毎日、聞くこと見ること、ことごとくが、徐々に彼らのものの見方を変えさせていった。それで彼らは、もし日本が自国の独立と自主とを、年月をかけてかち得たいならば、それには多くの変革と改善を行わねばならないということを、喜んで理解するようになった」


 1859年、長崎海軍伝習所は、江戸築地に軍艦教授所が設置されたために、閉鎖された。武揚は軍艦教授所の操練教授に任命された。


1862年、幕府は武揚ら15人をオランダへ留学させた。西周もそのひとりである。


 途中のジャワ海で難破して無人島へ、やっとのことでバタビア(ジャカルタ)にたどり着いた。バタビアは東洋におけるオランダの最大拠点で、留学生たちは東洋の中のヨーロッパに驚き、ホテルで大量の氷を出され驚嘆する。江戸では夏の氷は、加賀前田家が将軍へ献上する品で、それこそ夢の品である。


 オランダに到着した和服の留学生たちは大歓迎された。長崎伝習所の教官カッテンディーケが、オランダ海軍大臣に出世していたことも、留学生たちに幸いした。


 3年余の留学中、武揚は大いに知識を広め、そして深めた。それを列記してみる。


・船舶運用法、砲術、蒸気機関学


・化学を学ぶ(武揚は西欧繁栄の基礎学問を化学と考え、自分が日本の近代化学の先駆者にならんと意気込んだ)


・『海律全書』(海の国際法規と外交)を学ぶ


・モールス電信の実習


・プロシア・オーストリアとデンマークとの戦争に観戦武官として従軍


・パリに出張してフランス海軍との交渉


・イギリスへ旅して炭鉱見学


・オランダ語、英語、ドイツ語を完全に習得


・正しい社交術を身につける。ポンぺは彼らが上流階級と交際して正しいマナーを身につけることが、彼ら自身と日本に大いに意義があると考え、熱心に上流階級にディナーやお茶に招かれるよう斡旋した。


・幕府がオランダに発注した「開陽丸」が完成。当時の日本で最大最強の軍艦である。


 オランダ留学を終えて、武揚らは開陽丸に乗って、1867年3月26日に横浜港へ到着した。帰国とほぼ同時に、軍艦奉行および開陽丸の艦長に任じられる。また、私的には、オランダ留学生仲間の医師林研海の娘と結婚する。


 ここまでの榎本武揚は、幕末の動乱と遠い距離にあった。ひたすら勉強三昧であった。だが、帰国した1867年の10月14日には大政奉還がなされ、幕府は土壇場。武揚は、突然、最終局面の渦中に、放り込まれた。


B)箱館戦争と蝦夷共和国


 国内政治の現場に不在だったため、武揚は「幕府と薩長の抗争」程度の認識しか持っていなかった。そして、幕府海軍は薩長の海軍よりも圧倒的である。最大最強の新鋭軍艦たる開陽丸の威力、そして無傷の幕府海軍、制海権を握るものが戦争に勝つ……そう信じていた。


 通常、戊辰戦争は1868年1月3日の鳥羽伏見の戦いで開始されたとされるが、実は、すでに海上では4日前の大晦日に始まっていた。榎本武揚が指揮する開陽丸は薩長の軍艦を兵庫沖で撃沈・駆逐した。武揚は幕府海軍の勝利に自信を深めたのだが、陸上での鳥羽伏見の戦いでは幕府軍は敗走する。


 武揚は開陽丸から下船して大阪城に出向いたが、その時、徳川慶喜は逆に大阪城から開陽丸に逃げてきて、そのまま武揚を置き去りにして江戸へ帰ってしまう。


 大阪城内で、榎本武揚は新選組の近藤勇、土方歳三ら陸上戦の幹部と出会った。


「戦争は海軍が強いほうが絶対に勝つ。イギリスが大ナポレオン軍に勝ったのは制海権を握っていたから」


「幕府と薩長は、徳川党と薩長党で、西洋の与党と野党のようなものだ。政権を交互に取り合うのが西洋のシステムで……」


「西洋では分離独立という手もある」


「合戦に敗れた大将が体制を立て直すため、安全な所へ逃げるのは西洋では常識」


「江戸での決戦は、海軍力でまさるわが軍の勝利間違いなし」


 おそらく、榎本武揚は悠然と、そんなことを言っていたのだろう。聞かされた方は、現場を知らない新人類が訳のわからないことをしゃべっている、と当惑しながらも、武揚の絶対的自信に意を強くした。


 榎本武揚は敗残兵を江戸へ向かわせるため陸路組と海路組に分けて、海路組と大阪城内の18万両を幕府艦隊に乗せて江戸へ向かった。


 ところが、江戸の事態は武揚の思惑とは別の方向へ動いていた。徳川慶喜は徹底恭順である。3月には勝海舟と西郷隆盛のトップ会談で江戸城無血開城となってしまう。


 官軍は榎本武揚に対して、幕府海軍の引き渡しを当然要求した。武揚は拒否して、品川沖から軍艦8隻を率いて館山沖まで退去する。勝海舟は『海舟日記』で「すこぶる児戯に等しい」と嘆いた。海舟は単身、館山沖の開陽丸の榎本武揚を訪れ説得を試みた。その結果、幕府海軍は品川沖へ戻り、老朽軍艦4隻のみを新政府に引き渡した。


 榎本武揚は、悩んでいたのだろう。どうすればいいのかわからない。


 結局のところ、榎本武揚は8月19日に、開陽丸を含む軍艦4隻と運搬船4隻の計8隻を率いて品川沖から北へ脱走する。榎本艦隊は銚子沖で暴風雨に遭遇し各艦は離散したが、8月末頃から順次仙台に到着した。


 軍略的にみると榎本武揚の脱走決断は遅すぎた。奥羽の敗残兵を救出する役割を果たしたに過ぎなかった。


 武揚は何を悩んでいたのか?


 なぜ、脱走の決断が遅れたのか?


 主家たる徳川家の徹底恭順に直面し、官軍との戦争に迷いが発生したのかもしれない。徳川家および徳川家臣団の処分の行く末を見定める気持ちがあったのかもしれない。


 この時、榎本の胸中に、壮大な夢のごときビジョンがあらわれた。「徳川家臣団による蝦夷開拓」である。6月の新政府への嘆願書でも、8月19日の脱出に際しての檄文『徳川家臣大挙告文』でも、そのことが述べられている。


 榎本は、次のように夢を見たに違いない。


——若き日、蝦夷および樺太を踏破し、広大な未開の原野を知った。


 列強は世界の未開の原野へ移民を送り出している。強国アメリカは、未開の原野を開拓した国だ。


 未開原野の開拓と移民、これこそが近代強国への道。


 徳川家臣団、それは大量の失業者、でもそれは開拓移民団、これこそが……


 しかも、官軍を上回る海軍がある。蝦夷は島であるから、こちらが占拠してしまえば、後から官軍が上陸しようとしても海上で撃破できる。そうなれば、官軍側は蝦夷を自治領(植民地)として認めるだろう。


 列強はことごとく「本国と自治領(植民地)」の体制になっている。蝦夷だけでなく、さらに樺太も自治領(植民地)となし……「本国と自治領(植民地)」の体制こそが、近代強国への道……。 


 榎本武揚の心理は「徳川・薩長の抗争」よりも「蝦夷を独立的な自治領として開拓」の意識が強まった。かくして、榎本艦隊は品川沖を脱走し、仙台で幕府側の敗残兵を収容し、総勢3000〜4000人で蝦夷をめざした。仙台では大鳥圭介、土方歳三も加わった。 


 蝦夷の状況は、4月に新政府は箱館府を設置して、幕府最後の箱館奉行より円滑に職務を受け継いでいた。警護には松前藩などが当たっている。


 榎本艦隊は10月20日、箱館入港は外国との摩擦が心配されるので箱館港を避け、内浦湾の鷲ノ木を上陸拠点とした。上陸隊は2隊に分かれ箱館五稜郭へ進軍した。途中で新政府軍を撃退し箱館五稜郭へ到着した。すでに、公家出身の府知事は青森へ避難した後で五稜郭は無人であった。


 ついで、松前藩兵を福山、館城、江差で打ち破り、蝦夷を平定した。しかし、江差攻撃の際、暴風雨で開陽丸が座礁沈没した。開陽丸の存在は、榎本の夢の必要条件であった。あっけなく榎本艦隊の優位性は崩れ去った。


 ともかくも、12月15日、蝦夷平定を祝し101発の祝砲を打ち、ついで選挙によって榎本武揚は「蝦夷共和国」総裁に選ばれた。箱館の各国領事は榎本政権を「事実上の(デ・ファクト)政府」とみなした。


 この榎本政権をめぐって、「東洋初の共和国」と称賛する者から「戊辰戦争のただの局地戦」とみなす者まで、いろいろある。ただ、「蝦夷共和国」と呼ぶと、なんとなくロマンを感じてしまう。


 さて、開陽丸を失った榎本武揚は、大胆不敵な「甲鉄艦分捕り作戦」に出る。甲鉄艦は幕府がアメリカへ注文した戦艦で、武揚が品川沖にいる時に入港した。この艦は、開陽丸が木造なのに比べ鋼鉄覆装、しかもガットリングガン(1分間に180発の機関砲)を装備しており、戦闘能力は開陽丸よりも完全に上である。品川沖に榎本がいた頃は、榎本武揚も新政府も、ともにアメリカに引き渡しを交渉したが、アメリカは内乱に局外中立の方針を取り、双方に甲鉄艦を渡さなかった。しかし、榎本政権が発足した頃には、アメリカは中立方針を放棄して新政府に引き渡した。その甲鉄艦を中心にした新政府艦隊が三陸の宮古湾に集結している。


 海軍力で優位を確保せねば、たちどころに新政府軍の大陸軍部隊の上陸で、蝦夷共和国は崩壊する。それを阻止するのが、劇画的奇策が「甲鉄艦分捕り作戦」であった。1868年3月に決行するが、これまた暴風雨のため失敗する。


 かくして4月、圧倒的な新政府陸海軍の総攻撃が開始された。いかんせん、多勢に無勢、5月16日には五稜郭に立てこもるのみとなった。


 新政府軍は榎本武揚に降伏勧告を行うが、武揚は玉砕の決意を告げる。ただ、愛蔵の『海津全書』は新日本に極めて有益な図書であるとして、新政府軍参謀黒田清隆へ贈呈した。


 5月17日、武揚は切腹しようとした。側近の大塚が阻止するため、武揚の短刀を取り上げようとした。そしたら、大塚は武揚の短刀で自分に指3本に深傷を負って血だらけとなった。人間の心理は不可解なもので、そのことによって、榎本武揚に憑りついた死神は去り、武揚は降伏した。


C)ニュー榎本誕生


➀獄中でも勉強熱心


 榎本武揚は東京の牢獄に入れられた。入牢の時、牢名主に「箱館戦争の榎本じゃ」と名のったら、牢名主にまつり上げられた。


 戊辰戦争初期においては敗残者は厳罰に処せられたが、後半は新政府側のゆとりのためか処罰は寛大になっていた。榎本に関して言えば、新政府側にも榎本の類まれな才能は知られており、とりわけ黒田清隆の頭を丸めての助命嘆願によって死罪の可能性は薄くなっていった。


 獄中では、洋書の読書、翻訳、あるいは各種の機械の模型制作など、ひたすら勉強三昧。姉への手紙で「自分は日本人最高レベルの化学者である」と自負している。榎本武揚は元来は科学者タイプの人物である。それが、突然、動乱の中心点にはまってしまって、武人の役割を演じなければならなかった。獄中で本来の榎本武揚が復活した。


②北海道開拓官僚


 1872年(明治5年)、榎本武揚は赦免になって、すぐに黒田清隆によって北海道開拓官僚に採用された。


 調査道具の中に、晴雨計(気圧計)があった。箱館戦争では暴風雨によって三度も苦杯をなめた。その体験から、函館(←箱館)に到着して真っ先に気象観測所を設けた。日本初の気象観測所である。


 武揚は北海道各地の石炭、砂鉄、硫黄などの鉱物調査を行った。幌内(石狩)炭山の発見は、外国人顧問ケプロンの手柄にされてしまったが、空知炭山の発見はまさに榎本ひとりの功績であった。


 武揚の北海道開拓の思いは、自由な移民による開拓であったが、新政府は明治5年に移民募集を廃止し、明治6年に屯田兵開拓に切り替えた。それに、北海道開発は黒田清隆の「10年間1000万円」という巨費を投資する「開拓使10年計画」が進行し、汚職利権が渦巻く北海道になってしまった。そんなことで、榎本の仕事は随分ギクシャクしたようだ。しかし、開拓にかける情熱は、小樽近郊や江別の原野に大農場を開かせた。


③駐露特命全権公使


 1874年(明治7年)、榎本武揚は黒田の推薦で駐露特命全権公使に起用された。日露の国境問題を確定する任務である。人材不足の維新政府のピンチヒッターである。榎本武揚の『海津全書』の知識、堪能な語学力、オランダ時代に習得した社交マナー、おそらく維新政府の中では最高の外交官資質を有していた。そして、1875年(明治8年)千島樺太交換条約が妥結した。


 条約締結後も露土戦争(1877〜78年)が世界の焦点になったので、露都ペテルスブルクに滞在した。


 なお、露土戦争は300〜400年間に十数回あって、日本では狭義の露土戦争とは、この時の戦争を言う。200%余談ながら、世界史の駄洒落暗記法に「嫌な名前の露土ざんす」がある。1877年、露土戦争、サン・ステファノ条約で講和、を暗記したのだが、「おそ松くん」の「イヤミ」を思い出して暗記しやすかった。赤塚不二夫も学生時代、駄洒落暗記法が好きだったのかも知れない。


④シベリア日記


 ロシアでの公務を終えた榎本武揚は帰路をシベリア横断とした。まだ、シベリア鉄道は一部開通のみの時代だった。1878年(明治11年)7月23日〜10月2日まで79日間、ペテルスブルク〜ウラジオストックまでを丹念に綴った『シベリア日記』は第一級の旅行記でもあり、ロシアを実証的の見聞した仮想敵国偵察記でもある。


 シベリア横断と言えば、1892年(明治25年)の福島安正少佐の単騎シベリア横断だけが有名だが、武揚の横断から15年も後のことで、福島は出発前に武揚から詳細な助言を得ている。


⑤ボルネオ・ニューギニア買収計画


 ロシアから帰国して、外務官僚、地学協会の設立、海軍卿、皇居造営副総裁などを歴任した。地学協会で、ボルネオ・ニューギニア買収計画を発案する。「未開原野の開拓と移民」が榎本の基本ポリシーなのである。むろん実現せず。


 なお、アメリカ合衆国がロシアからアラスカを買収したのは1867年であった。


⑥駐清特命全権公使


 1882年(明治15年)7月、朝鮮で壬午(じんご)事件が発生した。朝鮮問題には、日本と清国が大きく関わっている。清との交渉役にはロシア外交で手腕を発揮した榎本しか人材はいなかった。1882年8月、駐清特命全権公使となり家族とともに北京へ赴任した。そして、榎本武揚は清の李鴻章と信頼を築くことに成功する。


 1884年(明治17年)、朝鮮で甲申(こうしん)事件が発生した。その翌年、朝鮮をめぐる日清関係に決着をつけるため、全権大使として伊藤博文が北京へ乗り込んできた。そして、維新政府最大の外交的成功といわれる天津条約が妥結された。むろん、その裏方には榎本の縁の下の努力が深く寄与していた。黒田についで伊藤も、武揚の能力に惚れ込んだ。


⑦初代逓信大臣


 天津条約が調印され、榎本は帰国する。その年、すなわち1885年(明治18年)、伊藤博文構想の内閣制度が発足した。閣僚は、薩摩4人、長州4人、土佐1人、幕臣1人の薩長均衡内閣である。幕臣には榎本武揚が選ばれ、最少の権限しかない逓信大臣となった。榎本は科学者・技術者らしい実績を残し、次に文部大臣に就任するまで在任する。


⑧教育勅語で罷免


 1889年(明治22年)2月、文部大臣森有礼(薩摩出身)が暗殺される。後任人事は、密室の政治劇となり、結局、後藤象二郎(土佐出身)が通信大臣に入閣し、武揚が文部大臣に横すべりした。


 教育勅語と国定修身教科書の策定が議論になってきた。


 榎本は「特定の宗教によって、徳育の方針を定めるわけにはいかない」「実学教育が重要」などと述べるばかりであった。


 山縣有朋は「榎本は理化学には興味を有せしが、儒教のことは熱心ならず」と判断して、1890年5月、文部大臣を罷免した。


 榎本武揚の思想を判断するには、単に、儒教が云々、理化学が云々、という表面的なことではなく、西洋自由主義の影響が色濃いことを知るべきであろう。


⑨対露謝罪使


 1891年(明治24年)、来日中のロシア皇太子が日本人巡査に斬りつけられるという大津事件が発生した。報復のためロシア軍が襲来か……日本中は大パニックになった。政府は謝罪使として有栖川宮親王、副使として榎本武揚を決定した。外交のピンチヒッターは武揚というわけだ。


 幸いロシアから謝罪使節派遣は不必要と表明され、派遣は中止となった。


 しかし、時の外務大臣は辞職せざるを得ず、後任には、榎本武揚が就任した。1892年(明治25年)8月、陸奥宗光が外相に就任するまで務めた。いわば、ピンチヒッターが緊急リリーフとして登板したわけだ。


⑩中南米への移民


 外務大臣に就任するや移民課を設けた。榎本武揚の「未開原野の開拓と移民」の情熱が具体化した。植民協会が組織され、1897年、35人の「榎本植民団」がメキシコ最南部チアバス州に入植する。これは、日本の中南米移民使の最初の第一歩で、ブラジル移民が開始されたのは11年後のことである。


 榎本植民団の運命は、結果は失敗。しかし、想像を超える苦難に日本の若者は打ち勝ち……それこそ感動の長編小説に等しい。


⑪足尾鉱毒事件


 榎本最後の出番は、1894年1月〜1897年3月の農商務大臣である。在任中、科学者・技術者らしい実績も残しているが、なんと言っても、足尾鉱毒事件への対応だろう。誠意をもって陳情団と面会、現地調査団を派遣、自分も現地に出向いた。鉱物知識に明るい榎本武揚は、すぐさま調査委員会の設置と操業停止を命令した。そして、直後に辞職した。言葉どおり「職を賭して」決定したのだ。ただし、その後の明治政府の対応は、武揚の期待を裏切った。


⑫隕石から刀剣


 晩年、隕石から刀剣をつくったりしている。囲碁将棋、盆栽ではなく、いかにも榎本らしい趣味だ。


 福沢諭吉は榎本武揚を「瘦せ我慢」と批判したが、一般官吏からは「明治最良の官僚」と称された。幕末以後の日本史は、いわば薩長史観であるため、幕臣榎本武揚の評価は低すぎるように思う。 


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太田哲二(おおたてつじ) 

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。