前回は、経済学の世界から発信される「高齢化社会のパラドックス」について紹介したが、現状の高齢化に対する「高齢者退場論」で、多くの人々に認識されている議論は、高齢文化人による感情的、情緒的な「言葉」によるものではないかと思える。
誤解されたくないが、こうした文学者を中心にした「退場論」は、多くが高齢者の利己的な考え方を戒めることに重心があることを筆者も理解しているつもりである。「言葉」のほとんどは、その人々の主観が前提になっているものであり、彼らが公的なセクターないしは権力に向かって、制度論や政治的なアジテーションを試みているわけではない。しかし、インテリであり、その訴求力の強い達者な発言力、文章力、表現力は、経済学の世界から発信される言説とのインパクトの差は比較できない大きさ、影響力を持つ。
また、経済学的なアプローチに対する関心より、たぶんに情緒的な表現によるわかりやすさは、耳を傾向ける側のバリューが格段に違うことは容易に想像できる。第一、その表現の場は、多くがマスを対象としたメディアを介していることは当然だ。
これから取り上げていくいくつかの文学者の言葉は、ことさらにその個人的な見解、主張を非難するものではない。しかし、「適正寿命」というテーマから振り返って、これらの「言葉」が、これからさらに進む超高齢社会の世論に与えるインパクト、そして「いかに生くべきか」から、「いかに逝くべきか」への思潮の転換に与える影響は決して小さくはないと考える。
●我欲を戒め、若い世代の負担を説く
朝日新聞に月2回のペースで連載されている瀬戸内寂聴氏の「寂聴 残された日」は、その言葉の奥行きや、波乱の人生に裏打ちされた言葉の重さが多くの読者を獲得しているのではないかと想像する。
お盆をテーマにした最近のエッセイでは、二百十日と呼んでいた昔の季節感が、昔の人間には受容的な営みを示す言葉として生きていたことを、わかりやすい著者自身の子ども時代の記憶を重ねながら紹介している。しかし、いわゆる二百十日に訪れる「時化」(しけ)は、現在では恐ろしい暴風雨になり、それを今もって防ぎきれない人間の力の小ささを説く。そのうえで、「(人間は)万物の霊長などとうぬぼれている場合ではない。世の中で恐ろしいものは『地震、雷、火事、親父』と言ったものだが、現在、恐ろしい親父などめったにいなくなって、長生きすれば認知症になり、若い人たちの負担になっている」と書く。
そうした時代認識を示しながら、寂聴さんは「自然の猛威は恐ろしいが、人間の我欲はもっと恐ろしい」と展開し、「老齢のきざしの見えはじめた地球に、長命一途になる人間があふれんばかりに住んで、年々に自然災害にうちのめされている。これがこの世の地獄ではなくて、なんであろうか」と結ぶ。
長命一途になる人間があふれんばかりに住む、と寂聴さんは現在の地球規模での眺めを記しているのだが、「長命」という言葉の中に、強い印象を受けるのはたぶん、高齢者の人々ではないかと思える。彼女自身がすでに90歳を超える超高齢者であることを考え併せると、「生きる」ことを否定しているわけではない。しかし、若い人の負担、我欲、この世の地獄という言葉をつないでゆくと、長命を求めることへの後ろめたさが育ってくる。こうした読み方は、たぶん失礼な読み方であろうことは承知するが、高齢者自身がこのような物思いを伝えることの大きさは、寂聴さんの想像より大きいのではないかと思える。
●社会認識の下敷きが作られていく
寂聴さんは、かなり自由ではあるが高齢者一般の人々の鬱々とした物思いを代弁している風でもあるが、少し強いインパクトを持って、最近の高齢者を叱りまくっているのが、やはり作家の曽野綾子氏だ。
2010年に上梓された「老いの才覚」で、彼女は多様なエピソードを交えながら、高齢者の「わがまま」に自戒を求める。同書の例えば第1章のタイトルは「なぜ老人は才覚を失ってしまったのか」である。すでに老人、高齢者は「才覚を失った」と断じている。
曽野氏は1931年生まれだからすでに80歳を超える後期高齢者だが、同書では冒頭から自ら後期高齢者であることを宣言している。後期高齢者にも保険料の支払いが義務化され、年金から天引きされることが報道されたとき、テレビ番組で高齢者の一部が「我々を殺す気か」と言ったり、「私たちはごろつきですか」と語ったことについて、曽野氏は「いかにも嫌らしい言い方」「日本の年寄りは戦前と比べると毅然としたところがなくなった」と切って捨てる。
確かに、少ない年金から保険料を差し出すのはあまり愉快ではないが、戦前の年寄りと比較される方も少し過酷な気がしないでもない。曽野氏はそのうえで、後期高齢者は55年には総人口の26.5%を占め、現役世代の1.3人が後期高齢者1人を支えることが推測されているとして、「そうなると、できるだけ若い世代に負担をかけさせないようにしようと思うのが当然ではありませんか」と述べる。
寂聴さんと通底するのは、「若い人たちの負担」という言葉だ。むろん、目出度かるべき長寿が、日本経済の構造を歪めているとする前回の八代尚宏氏の「高齢化パラドックス」が無意識か意識的かは別として、こうした文学者の社会認識の下敷きにすでになっていることを象徴すると言っていいだろう。
●貧しさを知らないから長生きしたい?
曽野氏は、豊かになった日本社会が、高齢者にわがままに過ごすことの教育をしてしまったと嘆く。自分で何をし、どうすれば生きていけるのかを考えなくなった、人の助けを当然として権利として主張する最近の高齢者を叱る。
このエッセイにもパラドックスが述べられている。日本は経済大国なのになぜ豊かさを感じられないのか、という問いに、「答えは簡単です。貧しさを知らないから豊かさがわからないのです」という言葉だ。そのうえで、格差社会といわれるが日本ほど格差のない社会はないことにも言及する。曽野氏が言わんとすることは、「自立」「自律」の気概を取り戻せということだろうが、それを進めていくと、同書の第2章での言葉、「高齢者に与えられた権利は放棄した方がいい」にあるように、高度医療も自らの美学として「放棄」することを勧める。最終章で語られる「孤独と絶望は勇気ある老人に対する、『最後にもう一段階、立派な人間になって来いよ』と言われるに等しい、神の贈り物なのだと思います」との結びも、自らの選択と意志で、最期も過ごせと求めている。
曽野氏はその他の著作でも、現代の高齢者の社会に過度な優しさを求める甘えの精神に対する厳しい視点を何度も示している。また、高齢者施設の災厄に関連して、メディアが現代の姥捨て山などという表現を使うことにも同意しないことを述べている。高齢者になればもうすぐ死ぬのだということを理解しろ、と曽野氏は何度も語っている。
以上のように、その表現に強弱はあるが、高齢社会の「甘え」、とりわけ若い人たちへの「負担」に関する、こうした文学者をはじめとする言論世界の流れは、どうしても今の高齢者に「自律的な退場論」への傾斜を促さざるを得ない。
それは自然死、尊厳死といった自らの生へのピリオドに対する具体的な流れを本流に変えようとしているのである。(幸)