文学者などを中心に、高齢社会の「甘え」、とりわけ若い人たちへの「負担」に鈍感な状況に否定的な言論世界の流れは、どうしても今の高齢者に「自律的な退場論」への傾斜を促さざるを得ない。こうした言説が次第に大きな声となっていくことは日増しに実感する。


 高齢者が、現代の日本社会の中で、自らの立ち位置を自覚し、自立、自律、自助といったキーワードを心中に収めなければならないのは当然の成り行きのようにみえる。しかし、高齢者個々はみな同じではない。90歳を超えても矍鑠として日々の生活を、それこそ自立して立てている人もいれば、後期高齢者にならない前に介護施設で日々を過ごす人もいるのが現実だ。みんなが同じ方向に目を向けろというのは失礼な話だし、むろん、前回取り上げた文化人の人たちの主張もそこまで踏み込んでいるわけではない。「高齢者の権利」を振りかざし、若い世代へのつけ回しに知らんぷりする態度を戒めているにすぎない。


 しかし、そうした感情が水沫のように同心円的に拡大していくとき、大きくなった水の輪は高く、大きく、そして長生きすることへのためらいや、後ろめたさにつながり、その情緒を醸成することが果たして、幸福なことなのかどうかはもう一度立ち止まって考えなければならないことのように思える。


 恐れるのは、高齢者に対するヘイト気運が醸成されないかということだ。若い人に鬱積し始めている、将来の生活設計の見通しの悪さの要因が、現在の高齢者にあるという「若い世代への負担」論が、水沫の最後の大きな輪となって岸辺にたどり着くとき、岸辺に凝然とたたずむ若い世代の感情的な嫌悪感はいや増すであろう。このままでは対立をあおる結果がみえるのだ。


●「手術なんか必要ない」という居酒屋談義の普遍化


 そうした風潮を背景に、内発的に高齢者の言葉からは、「いかに生きるか」より、「いかに逝くか」が論じられ始めている。象徴的なのは、不要な医療、介護は拒否する姿勢が倍々ゲームのように増え、それを後押しする図書も加速度的に増えている。また、平穏死、尊厳死という言葉の常識化は、その先に安楽死を望む思潮の拡大の助走にしかみえない。


 最近、都市部では昼間から店を開ける居酒屋が増えた。需要は3交代勤務の労働者にあるのではない。多くの客がリタイアしたとみえる高齢者だ。彼らの話題は野球と競馬だけではない。多くの居酒屋談義のテーマが「いかに逝くべきか」に割かれ始めている。


 実際に筆者は、その輪の外で、胃がんが見つかったという後期高齢者が、「医師からは手術してとりましょう」と言われ、悩んでいるという話から、長生き論に展開する状況を盗み聞きしたことがある。3人の仲間だったが、3人ともに「手術は必要ない」というところで一致していた。


 これが一昔前ならどうだったのだろうか。「そいつは大変だ。すぐに手術しろ」とほかの2人は言ったに違いない。しかし現代の居酒屋では「この齢だ。今さら腹を切る必要なんかない」「年寄りのがんはあんまり早く悪くはならない。放っておいても10年は生きられる」というのが“激励”と化した。言い出した本人も「医師に訊いたら、そのがんは10年くらいかけて育ったと言われた」と笑い飛ばす。彼らの関心は、その後、手術を求めるその男性の妻をいかに説得するかに重心が移った。


 こうした会話の背景には、どんなことをしても、現代の最高の医療を求めても長生きしたいという「常識」が、すでに転覆してしまっている印象を強くするものだ。高齢になってからの病気との闘いへの忌避感、医療介護の費用に対する不安と、それを公費も含めて使ってしまう後ろめたさ、家族への心身の負担の大きさなどが一挙に、彼らの胸に去来している。そうした物思いをつくってきたのは、「若い世代に席を譲りなさい」というメッセージの横溢であることは言うまでもない。電車の席は高齢者に譲らなければならないが、社会の座席は、いい加減なところで若い世代に譲るという思想が、これほどまでに社会を覆い尽くすのは日本という特殊な国柄もあるが、少し疑いを持ってもいいかもしれない。


●看取り期の患者がICUを占める


 朝日新聞は「にっぽんの負担」というシリーズ企画で8月に終末期医療をとりあげていた。断っておくが、この連載に示してきた高齢化社会における「適正寿命」という考え方は、社会に定着、浸透し始めた「長寿社会」に対する価値観のドラスティックな展開がどのような影響を与えていくかを考えていくものだ。終末期医療は、その断面の一部にしかすぎない。それでも、12年の内閣府調査で、治る見込みのないときに延命治療を望むかとの問いに9割を超える高齢者が「望まない」と答えたにもかかわらず、実際の医療現場では「看取りに近い患者でも懸命に治療する」実態が多いことが、朝日のシリーズ企画の土台になっている。


 筆者も、たまたま取材で訪れた中規模病院のICUのベッドが、半数以上、治る見込みがないと思える高齢者に占められている状況をみて、驚きを隠せなかったことがある。確かに高額な費用を必要とするICU医療が、天寿に近い人に供されることには、率直に言って違和感がある。ICUは社会復帰できる望みのある人に優先されるべきだとの意見も同感する。


 ただ、こうした高齢者は、すでにほとんどが自らに意思表示を行う機能も喪失していることが多い。その意味では、筆者は、終末期医療は単にシステムの整備で解決が図られるのではないかという思いも強い。天寿という最期を示す言葉を療養名にすればよいのではないかと思えるのだ。むろんケースによっては、家族が延命を強く望むことも少なくはないだろうが、医療担当者が「天寿」を医療システムの中での通常の「言語」として認識し、それを伝えることが一般化すればよいのではないかと思える。天寿が一定の「疾病名」的な要素とするには、科学的な装いが必要なことは間違いない。その科学的根拠を確立する努力が行われていないことが、今の終末期医療の現場の混乱を招いているとは言えないだろうか。


●寿命の物差しは一律ではない


「適正寿命」という考え方はネガティブにとらえかねないが、筆者は「若い世代に席を譲る」という考え方の浸透、定着が「適正寿命」論に拍車をかけることには違和感を感じる。あくまでも適正寿命は、個々によって違うのであり、例えば「健康寿命」の長さは人によって違う。筆者の母は、60代後半に脳梗塞で倒れ、4日目に永眠した。家族としては悲痛な思いもあったが、その寿命の短さより健康で長い時間があったとの認識が得られると、母は天寿を全うしたと思える。


 要は、こうした寿命に対する物差しは一律ではないということである。患者教育というより、家族を含めた「寿命教育」を健康なときから行うことが不可欠な時代だと思える。


 筆者のエピソードが増えるのを許してもらえれば、9月にたいへん恩になった知人が肺がんで亡くなった。直後には知らされず、家族で見送りをした後、その配偶者からの真情溢れる手紙で委細を知った。知人は末期の肺がんを告知されたとき、家族と話し合って一切の治癒的治療を受けず、緩和医療で最期を送った。死後のことまで不動産など一切の家庭事務作業に区切りをつけたという。家族は当人の意志を尊重した。すでに何年も前から家族でシミュレートしてきたことを全うできたと、配偶者は語った。知人は平均寿命には達していないが、これも健康寿命は長かったというべきかもしれない。


「適正寿命」は、このように個々の人々の意志を活かす言葉でなくてはならない。長い終末期医療を問題にするなら、「若い世代に席を譲る」という発想、思潮の醸成は邪魔になるだけだと筆者は思う。それはすなわち、やはり姥捨て山発想に近い思潮に思えるからだ。「適正寿命」は、最期をどうするかの個々の人々の意志を確立する装置として、理解される言葉として生かしたい。(終)