「適正寿命」の時代が来た、という連載をこのBEHOLDERの欄を借りて12回にわたって書いてきた。前回で一応のピリオドを打ったつもりだが、まだ何か物足りない思いが残る。連載の中で筆者は「寿命」に対する患者教育、家族教育の中では、「死」に対する基本的な教育が必要なのではないかと述べた。物足りなさは、その周縁にあるような気がしてならない。くどいかもしれないが、「死」に対する現代の思潮の変化が、あまりにもネガティブな動機から出発していないかということが気になるのである。


 前回のシリーズの最初に筆者は、以下の3点をポイントに挙げた。第一は、2015年問題、2025年問題、2040年問題を切り口にして、社会保障政策、とくに財政論から見た地域包括ケアに代表される、医療・介護のシステムの変革の動向と影響だ。これは、地域包括ケアの発想が、そもそも財政論から出発しているもので、福祉政策としては一定の破たんを示すものであり、さらにその政策を国民に訴える、説得の材料となるとき、このままでは国が亡びるかもしれないなどといったプレッシャーをあまり隠さないでいることの危惧である。


 第二は、高齢者を軸にした生活の問題。下流老人という言葉に代表される、高齢者全体に対する問題と、その横にある少子化、老親介護と子の生活も支える板挟みの状況、高齢者間の資産格差の拡大などをみた。その構造を語る中では、地域の格差、医療・介護サービスの供給の偏差なども入るし、経済問題としての「食えるか、食えないか」の課題と、身体的・生理的問題としての「食えるか、食えないか」の問題に言及したかったが、これは論考としてはたいそう不十分だったという反省は率直にある。


とくに、こうしたテーマを表すデータはそこそこにあるのに、その検証は足りていない。だが、言い訳すれば、データとして客観的な処理はされていないが、「介護殺人」といったテレビのドキュメンタリー番組に象徴されるように、「介護」をめぐるさまざまな課題が、この国では国民の多くをすでに直撃しているということが、すでに常識化されている。国民の心情の根底に、「早く死んでくれればいいのに」や、「家族に迷惑をかけるなら早く殺してほしい」といった観念が、すでに情念ではなく、平べったい常識として広がり始めているのではないか。


 第三は、第二に濃厚に影響されているが、「適正寿命」という大雑把な括りで言いたい最大の問題である、「生きる」ことと「死ぬ」ことに対する、社会的合意形成の急ぎ過ぎの問題を述べてみた。かつて、「いかに生くべきか」がこの国の個々のアイデンティティの柱であった。しかし、昨今「いかに逝くべきか」が語られ始め、それはかなり大きな声になりつつある。こうした、生死に関する観念の変遷が、社会構造や時代の流れでドラスティックに変わっていく要因は何か。それはいったい何を生み出していくのかという問題に触れてみるトライアルであった。


 筆者はとくに、「適正寿命」に関する、「若い世代に席を譲る」という発想、思潮の醸成は邪魔になるだけだと述べてきた。とりわけ高齢文学者の、あえていうなら訳知り顔の言論世界の流れは、高齢社会の「甘え」への厳しすぎる批判であり、その根拠を「若い人たちの負担」とされると、高齢者はうなだれて肯定するしかないようにみえる。それが「自律的な退場論」をも肯定させる原動力となるのが、はたして健康な社会なのだろうかという疑問を筆者は拭えない。


●十分に生きた証を持つこと


 述べ足りないことは何か。その何点かを、これから数回、シリーズの「余録」として書いていきたい。今回からは、寝たきりの問題と、延命医療に関して、いくつかの医療者の図書や、発言から考えていく。筆者は前回シリーズの最後に「天寿」を傷病名にしてはどうかという、少々乱暴な提案をした。乱暴だが、最近の医療者の臨床における経験や、QOLに関する発言などをみていると、「天寿」という考え方はそれほど奇妙ではないとも思える。


 こうした書き方をしてくると、「若い世代に席を譲る」論への疑問と、天寿を全うすることを科学的な装いにして、死へのステップを考え直すことを論じていくのは矛盾があるのではないかとの批判もありそうだ。しかし、若い世代に席を譲るのは、高齢者が「負担」になっているというネガティブな認識、割り切っていえば「肩身の狭さ」に依拠した議論だ。筆者が述べたいのは、「十分に生きた」という証を、人々が持つこと、持ってもらうことがこれからの高齢社会のあるべき姿、観念ではないかということである。


 その道程を早期に作るに際しては、やはり「寝たきり」について考える必要がある。すでに寝たきりに関しては多くのデータがあり、ここではそれぞれを列挙しない。しかし、寝たきりの平均期間は女性ではすでに10年を超え、男性でも8年程度である。これが健康寿命が重視される根拠であることは論を俟たない。


 寝たきりが増えた要因のひとつは脳卒中の死亡率が下がったことである。アルツハイマー病認知症(AD)の増加も要介護者を増加させている有力な原因だが、それは高齢化に伴う自然増ともいえるものと捉えると、脳卒中予後患者の寝たきり要介護、要治療とは一線を画して考えねばならないだろう。ただ、ADが寝たきり期間を延長させている要因になっているかどうかは疑問がある。確かにADは介護度の高い疾病ではあるが、治療の現場からは遠いという状況がある。在宅や高齢者施設での看取りがADの場合にかなり受け入れやすい環境づくりが行われているのはなぜか。これも議論がいるだろうが、少なくともADを寝たきりと区分する状況が存在することは否定できない。


 脳卒中は1970年代後半までは、日本における死亡原因の1位だった。それが80年代にかけて死因の順位を下げ、現在は肺炎よりも少なくなった。しかし、脳卒中という疾病自体が抱える課題は死因よりも実は増えているという認識を社会に与える必要が大きい。確かに、脳卒中による死亡が減っているのは、その原因となる血圧管理や塩分摂取など健康教育の成果が大きいことは否定できない。一方で脳卒中そのものの病態をみると、死亡原因1位の頃にみえていた脳出血は減り、脳梗塞が全体に占める割合は高くなっている。虚血性が増加していることは、現在死因第2位の心疾患と同様の傾向が脳卒中にもあてはまることになる。


 ある専門紙の報道では、厚生労働省の元医系幹部がセミナーで、80年代初めからの脳卒中の死亡減少は血圧管理の浸透もあるが、公的保険の適用が浸透への役割を果たしたCTの影響が大きいと語ったとされている。つまり、虚血性か、出血性かの診断速度が早まり、治療指針を早期に決めることができるようになったため、死に至る状況を回避する治療能力が高まったことも原因なのである。そのため、脳卒中は誤解を恐れずにいえば、発症してすぐに死ぬ病ではなくなったが、長期間の治療、リハビリを必要とする人が増えたことを意味する。一定の割合で、「寝たきり」は脳卒中で死ななくなった人がかなりを占める。そしてそれがなぜか、寝たきりで病院のベッドを占めている。


 ここで気が付くべきは、寝たきりを回避するには、脳卒中患者のQOLに早期から介入することの必然だ。そうした必要が自明な研究進度が、死なせなくなった医療技術の進歩に追いついていないという状況にある。不自由な体で、「生かされる」患者にとって、「生かされ過ぎ」という感情を生み出す素地を打ち消す治療技術、医療技術が遅れをとっていることに社会は関心が薄い。脳卒中死亡が減ったことは単純に喜ぶべきことなのかどうか、と。


 こうした、ベッドにいる寝たきり患者に対して、医療者の側からの発言も増えてきた。米国の外科医、アトゥール・ガワンデは、国内では訳書が今年6月に刊行された著書「死すべき定め」で、「病者や老人の治療において私たちが犯すもっとも残酷な過ちとは、単なる安全や寿命以上に大切なことが人にはあることを無視してしまうことである」と述べ、そのうえで「誰であっても人生の最終章を書き変えられるチャンスに恵まれるように、今の施設や文化、会話を再構築できる可能性が今の私たちにある」と語っている。


 今の文化、とくに死や生に対する文化の再構築を医師が発言し始めたのは、注目すべきことである。次回はガワンデや、英国の脳外科医、ヘンリー・マーシュの考察から、高齢化社会における終末期医療、延命治療に対する本質的な「文化」の構築をながめてみる。(幸)