週刊新潮が巻頭特集で沖縄の高江ヘリパッド問題を取り上げた。『なぜ「土人」発言だけが報道されるのか? 沖縄ヘリパッド「反対派」の「無法地帯」現場レポート』。例によって、頭から沖縄の反基地運動を叩くスタンスで、一方的に書かれた記事である。


 私はこの6月からすでに約5ヵ月、沖縄に滞在し、高江にも20〜30回は足を運んでいる。取材というものはすればするほどに、対立する双方に“あら”が見えてくるものだ。一方の側の“あら”だけを恣意的にピックアップしてつなぎ合わせれば、同じ現場のレポートでも、180度違った印象の記事を作ることができる。


 本来、“真っ当なレポート”というものは、こうした恣意性を取り除き、できるだけ正確な“全体像”を描こうとするものだ。一方の側にべったり立つほうが記事作りは簡単だし、少なくとも寄り添った側からは大歓迎される。独立性を保とうとする取材者は、双方の当事者から煙たがられ、割に合わないものなのだが、それでも、まともな取材者であろうとするならば、後世の検証に耐えるものを書きたいと思うはずだ。


 で、今回の新潮記事だが、ひどいものである。ネットに飛び交う沖縄叩きの大半は、あからさまなデマや事実誤認に溢れている。今回の記事ではさすがに注意深く、“明白なデマ”は避けているものの、有名な“デマ発信者”のコメントを垂れ流しで使ったり、あるいは警察当局や右派有名人に期待通りのコメントをもらったりして記事は書かれている。


 新潮や産経新聞が、こうした“お決まりの顔ぶれ”に頼らず、フラットな状態で取材したならば、現在のような記事作りは相当に困難になるだろう。それほどに彼らの報道は、ごくごく限られた特異なスタンスの“現地関係者”を繰り返し登場させ、沖縄を描いている。


 記事中の個々の描写でも“不都合な真実”には徹底して目をつぶる。例えば、逮捕歴のある「筋金入りの活動家」と形容された人物の前科は何なのかと言えば、辺野古での抗議活動中、基地と公道の境界を示す黄色い線を踏み越えたか超えないか、というスポーツのビデオ判定のような話でしかない。逮捕すること自体、呆れかえるような微罪なのである。


 今回、高江で彼が逮捕されたのは、訓練場に張られた鉄条網を2本、切断した容疑だ。この“事件”のあと、防衛局側が設置した鉄条網は軍事用の特殊なもので、もし切断しようものなら、その人物にカミソリの歯のついた鉄線が叩きつけられ、大けがを負うようになっている。新潮の記事では、そんな地雷原のような鉄条網を張る国側の異常さには言及しない。


「土人発言」をした機動隊員に関しては、大阪から高江に乗り込んだヘイト団体幹部と旧知の間柄なのか、「〇〇さん」と機動隊員のほうから名前を呼び、親しげに歓談する様子が映像に記録されている。あの発言は本当に「売り言葉に買い言葉」だったのか、それともこの機動隊自身、もともとヘイト思想の持ち主だったのか。現地では、そんな疑念も浮上しているが、新潮記事はもちろん、そんなことは触れない。


 とまぁ、4ページの記述に一つひとつ“伏せられたデータ”を重ねていけば、記事全体の印象もだいぶ違ってくるのである。善良な地元民のように描かれている人物の唖然とするような所業の数々など、ドロドロした話はまだまだあるのだが、そういった個人攻撃も本意ではないのでやめておく。


 それよりもなぜ、こんな対立が現地に生まれたのか、という問題の根本にまで遡れば、最後には、沖縄の訴えに耳を塞いだまま、自らの地元に「公平な基地負担」を分かち合おうとしない本土の身勝手さに行き当たる。つまり本土の取材記者、本土の週刊誌が、沖縄での「抗議運動のやり方・マナー」を云々する、それ自体が「恥知らずな行為」に他ならない。そのことに気づいたなら、あんな記事は到底、書けるはずはない。 


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三山喬(みやまたかし) 1961 年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。1998年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取 材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。2007年に帰国後はテーマを 広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って」 (ともに東海教育研究所刊)など。