「盗みはすれども非道はせず」


 と、ミエをきったのは、ご存知、白浪五人男の日本駄右衛門。


 その意味はたぶん……鼠小僧次郎吉のように大名屋敷から千両箱を盗み出すのはよいが、親孝行な子が病気の親の薬代のため懸命に働いて蓄えた金銭は盗んじゃいけないよ。あるいは、スリは技術職だからよい、なぜなら本人は落としたと思ってしまうから、しかし、押し込み強盗はよくないよ……そんな感じですかね。


 善悪入り乱れた人の世だ。神様・仏様の身じゃないから、知らず知らずに少々の嘘もつけば悪もなす、さもなくば生きていけない。戦後の食糧難の時期、「ヤミの食品」は法律違反だからとして断固拒否して餓死した裁判官がいたが、時には、バレないように法律違反をしなければ生きていけないのが、この世というものだ。でも、できるだけ、嘘も悪も法律違反もしたくない。でもでも、仕方なくやってしまうこともあるだろうなぁ。


 時々、居直った気分になることもある。もしも、自分が悪に徹することができるなら……。もしも、自分が冷血漢になれるならば……。他人を騙して大儲けしてやる。地道な努力なんてクソ喰らえ。他人の不幸を肥やしにして、他人の財産をかすめとり短期間でボロ儲けしてやろうじゃないか。


 そんな悪魔・吸血鬼のささやきを時々耳にする。でもなー、やっぱり、それは間違っているから、やめよう。となると、短期間で大儲けする方法は宝くじに賭けるしかないかなぁ。善良なる庶民はぼんやり、そう思うのであります。


 しかし、世の中には、悪に徹することを決断し、そして実行し、その結果、大儲けした人物は、確かにいる。その代表選手が、江戸元禄期の豪商、4代目・奈良屋茂左座衛門(?〜1714年)である。 


(2)相場の半値で落札 


 奈良屋茂左座衛門は代々の屋号名称で、通称は「奈良茂」(ならも)である。


 初代〜2代目のことは不明。3代目は、材木の車力(運送業)をしていた。その子の4代目が、主役である。


 4代目奈良茂の前半生は、


「12、3歳の時、親にも似せず、生い立ち清く、堅く、手跡に相応に書きぬ。宇野という材木問屋へ出入りして、手代に馴染みて終に宇野に勤めけるに、才智にして28歳の時に引き込みぬ。すこしの丸太や竹などを置きて商事いたせしに……」


 と、記されている。


 親にも似ず、清く、堅く、字もうまく、28歳で独立した。独立開業直後は、少々の丸太や竹を扱うだけの商人に過ぎなかった。ここまでは、ちょっとだけ賢い商人というだけで、とりたてて目立つことは何もない。


 さて、時代は5代将軍綱吉(将軍職在位1680〜1709年)の治世である。綱吉という将軍は、アラビアンナイトやイソップ物語にピッタシの事件を次々にやらかした人物である。


 大奥の美女だけでは満足せず、家臣の妻や娘に手をつけるのが大好きで、家臣の中には妻女がお手付きになることが忠義と考える者も現われ、妻女を美しく着飾らせてラブハンターの目にとまるように喜々として工夫をこらすのでありました。みごと成功すれば、忠義が証されたことになり、大出世となるのでありました。


 また、世界史上画期的な動物愛護法を制定して、動物保護を実践したのでありました。実に、心やさしき将軍さまでした。


 さらに、勉強熱心なことは結構なのだが、それも度が過ぎると、それに付き合う家臣は、ひたすら「忍」の一文字という有様でした。


 そして、信仰心も篤く、ジャンジャン神社仏閣の修繕・建立をなした。


 この神社仏閣の修繕・建立の公共事業に、独立開業直後の奈良茂は目をつけた。


 1683年、地震で崩壊した日光東照宮の修復再建工事がなされることになった。奈良茂は、その用材の「檜無節物」に入札に参加した。節のない檜は超高級木材であり、しかも大量である。奈良茂は独立開業直後だから、さほどの資金を保有していない。常識的に奈良茂が扱える仕事ではない。しかし、奈良茂は、なんと、相場の半値で落札した。 


(3)水戸黄門現れず 


 同業者は「あんな値段で檜を買えるわけがない」と不審に思った。絶対不可能な金額なのだ。不可能を可能とするため、奈良茂はすでに悪魔に魂を譲っていた。


 当時、木曽檜の問屋は柏木屋だけだった。奈良茂は柏木屋で購入交渉をするが、相場の半値ではいかにネバっても商談が成立するわけがない。


 奈良茂は、おそれながらと奉行所へ訴え出た。


「柏木屋が檜の買い占めで価格の吊り上げを実行いたしております。御公儀の御用だと申しても売ってくれませぬ」


 奉行所と奈良茂は、すでに内々で結託しているから、即座に「適正価格で売るように」と柏木屋を行政指導する。適正価格とは、奈良茂の言い値であるから柏木屋は不承不承、ともかくも数十本を売った。しかし、そんな量では全然足りない。柏木屋は「もう在庫がない」と奈良茂に告げる。


 これにて、奈良茂の謀略は成功の条件が整った。


 奉行所の強制捜査で在庫の檜が山のように発見されて、柏木屋は全財産没収の取り潰し、柏木屋の主人と手代は三宅島へ流罪となった。柏木屋の全財産は無償で奈良茂へ渡った。奈良茂は、檜をタダで確保したのであった。この謀略で、2万両の利益を得た。むろん、お奉行様や幕府高官へ、それなりの金品が動いたであろう。


 もう、なんと申しましょうか、「水戸黄門はなぜ登場しないのか」と言いたくなってしまいます。テレビドラマ水戸黄門が100%フィクションとわかっていても、ぼやいてしまう。こうした場合、柏木屋には美人の娘がいて、あわや落花狼藉の寸前、風車が飛んできて……奈良茂と奉行の悪事が露見して、黄門様の高笑いとなるのだが、現実はドラマと違い、悪事はトントントンと見事に成功してしまった。


 柏木屋に娘がいたかどうか不明だが、7年後、柏木屋は御赦免となり江戸へ戻る。かつての自分の店を訪ね、そこで見たものは……、巨大な店、そして奈良屋のノレン、豪商となった奈良茂の姿であった。


 柏木屋は「こんな悪事が罷り通るとは、この世には神も仏もない」と悲憤激怒する。「この恨み、死んで祟ってやる」と断食を決行して18日後に命を絶った。


 しかし、怨霊も必殺仕置人も現われなかった。


 ともかくも、奈良茂は日光東照宮修復工事以後、幕府高官に食い込み官営事業を請け負った。その手法は、柏木屋でみせた謀略ではなく、オーソドックスな吉原接待と賄賂であった。ライバルの紀伊国屋文左衛門と吉原遊興合戦を競い、またたく間に豪商となった。尾張藩への大名貸すら行うようになった。 


(4)遺言は「商売するな」 


 奈良茂が成功したのは、思うに、謀略の大悪事は1回だけ、ということかも知れない。1回ならOKということでは断じてありませんが、同じ手口の悪事・謀略を2回、3回と繰り返すと発覚して身を滅ぼすことが多いようだ。


 それにしても、奈良茂の謀略の前には、白浪五人男の前作といわれる「三人吉三」なんかの悪人は、もう超可愛い。お坊吉三は「押しのきかねえ悪党」、お嬢吉三は「凄みのない悪党」、和尚吉三は「非道な悪事をしねえゆえ」と名乗りをあげるんだから、もしも奈良茂のような人物が見たら、笑うだろうな。


 さて、豪商になった奈良茂の、その後の運命だが、将軍綱吉の死去により、幕府の政策と人事は大転換され、官営公共事業の請負は不可能となった。ライバルの紀文と同じく店をたたむ。


 その4年後に亡くなるが、死ぬ数ヵ月前から奇病にかかり、食事も喉に通らず、胸をかきむしって苦しみ死んだ。断食で死んだ柏木屋の怨霊が、かろうじて祟ったということかな。


 4代目奈良屋茂左衛門が亡くなった時の遺産は、家屋敷30ヵ所(約4万4千両)、現金4万8千両(40万両の説もある)、大名貸の債権4万両という大資産である。


 遺言状には、「公儀商いは言うに及ばず、いかなる商売もやるな。以後は不動産の賃貸による収益で家を存続させ、その収益にふさわしい生活をせよ」である。まぁ、すばらしく堅実なことでしょう。 


(5)5代目奈良茂の恋 


 遺言状の内容は堅実そのものだが、目の前に自由になる莫大なお金がある。若い5代目奈良茂(1695〜1725年)に「贅沢するな、遊ぶな」と言ったところで、そりゃ無理というものだ。


 5代目は、莫大な遺産で放蕩の限りを尽くす。とりわけ、吉原の太夫玉菊(1702〜1726年)をこよなく愛した。玉菊は才色兼備で、茶の湯、生け花、俳諧、琴曲など諸芸に通じ、とりわけ、河東節三味線と拳の妙手であった。


 蛇足ですが、「拳」といっても武術ではなく「拳遊び」である。大別して2種あり、ひとつは「三すくみ拳」である。グー・チョキ・パーの三すくみジャンケンは明治になって考案された。古代から存在した三すくみ拳は、虫拳で、ヘビ(人差し指)、カエル(親指)、ナメクジ(小指)である。なぜ、ナメクジがヘビに勝つのか、ナメクジのヌルヌルはヘビを溶かすと信じられていた。もうひとつは「数拳」である。1ケタの暗算の練習になる。玉菊は、「数拳」の妙手だったと推理する。


 玉菊は大酒飲みのため若くして亡くなった。5代目は「いと早く うつろひそむる 菊よりも 心しほるる 秋の夕ぐれ」と詠んだ。一周忌に、河東節の作詞作曲をつくらせ供養した。それは『水調子』と名付けられた。その年の盂蘭盆会に、吉原の茶屋の軒ごとに燈籠をかかげて玉菊の精霊をまつった。これが、吉原の景色になった。いつの頃か、吉原で『水調子』をひくと玉菊の霊があらわれるようになった。


 5代目にとって、玉菊なき吉原なんか未練なし、ということで、使用人20数名を引き連れて全国の遊郭巡りを決行する。「江戸のお大尽さま」の遊びっぷりに、京、大坂のお金持ちもビックリするやら呆れるやら、伝説的放蕩がなされた。7ヵ月間の放蕩旅行の末、江戸へ帰った5代目は病にたおれ、そのまま亡くなった(31歳)。


 歌舞伎や講談で、どう脚色されているのか知りませんが、玉菊が柏木屋の娘だったりすれば、素晴らしい恋物語になる。


 なお、その後の奈良屋は、中程度の商店として生き残っていたようだ。 


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太田哲二(おおたてつじ) 

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。