今週は文春、新潮とも、トップであの丸山穂高議員を巡る騒動を扱った。文春は『丸山穂高衆議院議員 国後島で絶叫暴言「女を買いたい」 同行議員が怒りの告発』、新潮は『「ビザなし交流」で娼婦と交流したがった酔漢! 日ロ交渉史に刻まれる「丸山穂高」暴言録』。北方領土訪問団の一行から大顰蹙を買った丸山議員の問題が、新聞・テレビで報じられた「戦争するしかないんじゃないですか」という暴言にとどまらず、泥酔して「女を買いたい」と内規で禁じられた夜間外出をしようとし、政府随行職員に羽交い絞めにされるなど、およそ“選良”とは呼び難いその行動全般に及んでいたことを暴いている。週刊紙メディアならではの独自報道だ。
この丸山氏が所属した日本維新の会と言えば、参院選に公認予定だった元フジテレビアナ・長谷川豊氏の問題も勃発した。講演で江戸時代の被差別民について「犯罪のプロ」などと偏見をまき散らし、維新から「当面の公認停止」という処分を受けたのだ。この手の問題では昨年、自民の杉田水脈衆議院議員もLGBT差別の論文を発表し、その騒動が月刊誌『新潮45』の休刊にまでつながった。
相次ぐ不祥事はもはや「失言問題」などというカテゴリーに矮小化できるものではなく、極論や差別意識の信奉者が政治家になってしまっている、その事実を受け止めるべきだろう。幅広い国民が支持できる“公約数的な合意”を目指さずに、人々を敵味方に分断し、一方には絶対に許容不可能な暴言をまき散らす。そんな政治スタイルが横行するようになった結果なのである。数十年前にさかのぼれば、政敵への攻撃的言辞は少数派の左翼勢力に目立ち、多数派の保守勢力は「国民政党」を標榜し、鷹揚な懐の深さを見せたものだった。だが、昨今は保守の側の先鋭化が留まることを知らない。
文春の同じ号は、「THIS WEEK」という硬派記事の短信欄で『EU離脱で躍進 “英国のトランプ”反エリート放言録』と題し、イギリスの新党「ブレグジット党」党首ナイジェル・ファラージ氏を取り上げている。そういえば、南米でも昨年、「ブラジルのトランプ」と評される極右ボルソナロ大統領が大差で選ばれている。意見の異なる勢力が歩み寄り、合意を模索する政治スタイルは世界レベルでも、すでに風前の灯で、極論と敵意で岩盤支持層を結束・奮起させるという“敵意剥き出しの時代”になってしまっている。
今週はまた、ウィキペディアの引き写しだらけで批判されている百田尚樹氏のベストセラー『日本国紀』の問題で、その版元・幻冬舎で著作の文庫化を進めていた小説家・津原泰水氏が執拗に日本国紀批判のツイートをしたために、幻冬舎から突如文庫化を打ち切られ、そのことを、エッセイスト・能町みね子氏が文春コラム『言葉尻とらえ隊』で書いている。この問題で何よりも作家たちに猛反発を受けたのは、幻冬舎の見城徹社長が「これっぽっちしか売れていない」と言わんばかりに津原作品の実売部数を暴露したことだ。その勢いの前に、見城氏はほどなく謝罪に追い込まれた。
おそらくは百田ファンが多いのだろう、実売部数を隠すほうがおかしい、という見城氏擁護のコメントもネットには目立つ。だが、初版の刷り部数も価格も基本的に、出版社が一方的に決めるものだ。どの程度広告や営業に力を注ぐかも出版社次第である。作家としては印税の基礎となる刷り部数を1冊でも多く、と願うのが自然だが、そこは販売のプロである出版社が「この程度」と冷徹に線を引く。ダメだと思うなら、出版そのものを断る。つまり、こうした判断の権利や責任はすべて出版社側にあり、あとになって自らの“見込み違い”を棚に上げ、「売れない本を書きやがって」などと作家のせいにする発言は論外なのである。見城氏が謝罪するはめになったのは当然のことなのだ。
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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。