前回、米国の外科医、アトゥール・ガワンデは、国内では訳書が今年6月に刊行された著書『死すべき定め』で、「病者や老人の治療において私たちが犯すもっとも残酷な過ちとは、単なる安全や寿命以上に大切なことが人にはあることを無視してしまうことである」と述べ、そのうえで「誰であっても人生の最終章を書き変えられるチャンスに恵まれるように、今の施設や文化、会話を再構築できる可能性が今の私たちにある」と述べていることを紹介した。
今回は、死や生に対する文化の再構築を医師が発言し始めたのは注目すべきだとの観点から、ガワンデの著作や、英国の脳外科医、ヘンリー・マーシュの考察から、高齢化社会における終末期医療、延命治療に対する本質的な「文化」の構築をながめてみたい。ただし、マーシュの著作は少し散文的であり、延命医療自体を目的に語ったものではない。重い病態の患者を診る医師の臨床現場からの主観的な「物思い」であることは断っておきたい。
●自然の摂理は「負け」か
ガワンデやマーシュよりも先輩になる故人のシャーウィン・ヌーランドは90年代に『人間らしい死に方——人生の最終章』という本を出し、死に関する医師からのメッセージを発信した外科医だが、そのなかで、「我々の先達は、自然による最終的な勝利の必要性を期待し、受け入れてもいた。医師は負けのサインを今の我々よりも積極的に認め、それを否定するような傲慢さを我々ほどには持たなかった」と記している。
思い出すのは、こうしたヌーランドのような考え方が新しく思えるのは、医師は治療をする人で、「臨終」を言い渡す人ではなくなったということである。筆者は1950年代の生まれだが、強く印象に残っている医師は、祖父母が亡くなる(いずれも自宅での看取り)ときに、白衣を着た医師が現れ、かなり沈痛に「ご臨終です」と言う人だったということだ。まさにヌーランドが言う「自然による最終的な勝利の必要を期待し、受け入れていた」のである。周囲もそのことに何の疑念も持たなかった。よくドラマなどで、「先生、もう少し何とかならないでしょうか」「何とか頑張ってみます」などというやり取りそのものは、昔はなかったのだ。
医師が、死と闘う、患者が死んでしまえば「負け」という価値世界が生まれたのは、ヌーランドのほぼ直近の「先達」であり、ヌーランド以後の後輩医師たちは、高齢化、いや死ななくなった高齢者の前で「負ける」経験が増えるなかで呆然としていることが増えているのではないかと言える。それでも、医師の多くが目の前で患者が死ぬことを「負け」と認識している。そもそも今の医師には、「天寿」という生きて死ぬことの「自然」が勝ち負けではないことが理解できていないようにみえる。
そのことを側面で補強しているのが医学医療の長足の進歩、ないしはその進歩に対する思い込みの深さではないか。そして、そのことが実は患者およびその家族にも浸透し、医師以上に期待の深さにつながり、延命医療の現状を放置しているようにみえる。
筆者は延命医療が不必要だと断言しているわけではない。後述するが必要な場合もある。しかし、延命医療の現場でヌーランドの語る「自然による最終的な勝利」が非常識化していることを、本質的な、ある意味で文化的な思潮として常識として、もう一度転換する必要はあるのではないかと考える。しかし、そのことと、不要な人間は「席を譲れ」という考え方とは与することはできない。不必要な延命医療と、不要な人間とは根本的に異なる考え方である。それを混同しない議論が必要なのである。
ガワンデはこうしたいつの間にか入れ替わった常識と非常識について、医学者、医師の立場からこう述べる。「現代の科学技術の能力は人の一生の根本を変えてしまった。人類史上、人はもっとも長く、よく生きるようになっている。しかし、科学の進歩は老化と死のプロセスを医学的経験に変え、医療の専門家によって管理されることがらにしてしまった。そして、医療関係者はこのことがらを扱う準備を驚くほどまったくしていない」。さらに自らに言及して、「死はもちろん失敗ではない。死は正常である。死は敵かもしれないが物事の自然な秩序である。私はこの事実を抽象的には知っていたが、具体的には知らなかった」。
さらに、自分は治せる能力ゆえに成功している専門職についているが、「治せる問題ならば、医師はそれに対して何をすればよいのかを知っている。治せないということに対して十分な答えを医師が持ち合わせていないことがトラブルや無神経さ、非人間的な扱い、言語を絶する苦しみの原因になっている」。筆者が前述した、「負ける」現実の前で呆然としている医師の姿は、まさにこのことであり、現在の医師にはその準備ができていないとうことなのである。医学教育で、「死は自然」ということがどれほど重視されているのか。
●高度医療は寝たきり期間延長の道具?
「負けたくない医療」の現実とその問題について、ガワンデはこう説明している。長いが引用する。
「わずかな間だけでも高齢者や終末期の患者と一緒に過ごせば、援助すべき相手に対して医学がどれだけ失敗を犯しているかがわかるだろう。命が尽きていく日々は治療によって乗っ取られてしまう。脳を混濁させられ、何かを得られたかもしれないごくわずかなチャンスを吸い取られてしまう。施設の中で人は死ぬまでの日々を過ごす。ナーシングホームやICUの中で。人の顔が見えないルーチン化された治療手順によって人生において大切なものをすべてから引き離される。老化と死という経験を率直に検討することを躊躇することで、私たちは患者の苦痛を増し、患者がもっとも求めている基本的な癒しを与えないようにしている。人生の最期の日までをどうすれば満ち足りていけるかを全体から見る視点が欠けているから、私たちは自分の運命を医学やテクノロジー、見知らぬ他人が命じるまま、コントロールするがままにしている」
医学やテクノロジーが人生のコントロール、いや「管理」と言ってもいいかもしれないが、それが牛耳っているというのが現実なら、これは現在の医療が間違った「常識」にとらわれてしまっていることを意味する。そして、QOLという言葉は、「何かを得られたかもしれないごくわずかなチャンス」も保証することを含めているはずだ。
寝たきりであっても、そのチャンスもQOLの一部であると思料すれば、先端的なテクノロジーで盛られた「治療手段、手順」は、その前段階で検討されるべき重大な過程だと思える。それを裏側からみれば、現代の医療の高度化は「寝たきり期間」延長の道具でしかみえなくなるのである。患者の主体をどこにおくか、その議論が尽くされているかの問題であると言える。
●患者に何を委ねるか
脳外科医ヘンリー・マーシュは著書『脳外科医マーシュの告白』で、脳外科医の「成功」の実感について、「患者さんが自宅に戻り、日常生活を取り戻し、二度と私たちのことを必要としたくなるときにこそ……」と述べる。また延命医療の難しさを語るなかでは、率直な告知を伝えることをしつつも、「医師があれこれ頭を悩ませたところで、(中略)患者さんは遅かれ早かれもう後戻りできないところに到達してしまう。もう終わりだという地点まで来てしまったことを認めるのは、医師にとっても患者にとってもきわめて難しい」。
マーシュの著作を読んで考えさせられるのは、実はこうした命題にすでに気づき、悩んでいる医師もかなりいるということだ。その意味で、「不必要な医療」もケースによっては患者のQOLの一部、言葉を換えれば「生きることの希望」のひとつにもなり得るということは言えるのである。そこから浮かび上がるのは、コントロール、管理が医師にのみ委ねられるのは見直さなければならないということだろう。
マーシュはまた、現在の患者がネットなどを活用して詳細に情報をつかみ、自らの予後について、ある程度知悉していることにも言及している。そういう環境下では、患者と医療者の関係の変化は、患者に「死ぬことの管理」を委ねることも含めて、重要な検討課題として浮上するのであろう。
一方で社会環境の変化も、適正寿命を考えていくなかで大きな変動要素がある。医師はそれについても、常識として持ち合わせる認識が必要になっている。ガワンデは親が著しく長命になることで、若い世代との間で新たな緊張関係が生まれており、それが高齢者の自らの老後にトラブルを増やし、また高齢者が自らの死について、以前にはなかった検討すべき課題が増えたことにも触れている。
次回は、医師の側からのこうした見方をもう少しみながら、適正寿命を考えていく際に現状では混とんとしている課題を拾い上げ、整理することにトライしてみたい。(幸)