前回、「適正寿命」を考えいくなかでの課題を整理したいと述べた。今回は、筆者なりの仮説を提示する形で、課題を整理し、この連載にピリオドを打ちたいと思う。
これまで「適正寿命」、実はこれも筆者の造語だが、それには医科学の進歩との折り合いをどうつけるか、死の受容という考え方の社会的標識の必要があるのかどうか、そしてインテリ高齢者を中心に、「高齢者の退場論」の台頭がどのような影響を与えているか、またそうした思潮が性急な国民的コンセンサスに傾いていくことは、実は危惧すべきではないかとの懸念も示してきた。
折も折だが、最近、歴史ある月刊誌に高名な女性脚本家のエッセイが掲載され、その人生観が語られるなかで、自らは「安楽死」を求めることが明らかにされている。むろん、彼女はその選択には、現状では国内の法的環境、それを支える思潮がまだ道半ばであることを認識していることを前提にしている。しかし、雑誌、脚本家の知名度をあわせ考えると、筆者にはついに「安楽死」のパブリックな論議のスタートを宣しているように思えた。また彼女のエッセイは、何度か個人的な考え方であることも強調されているが、本人の意思とは関係なく、早晩、それを求める「世論」への影響は無視できるものではない。
●日本社会の個別性に着目すれば
ここではそこへ行く前に、論議すべき課題がいくつかあることを整理してみる。第一は高齢化社会という社会科学的素因に対して、自然科学からのアプローチである医科学が、あまりに乖離した論議が進められていないかということを考える。
周知のように、団塊の世代の登場、いわゆるベビーブームは第2次大戦の終了直後から起こった全世界的な動きである。日本でも米国での欧州でもその動きはほとんど同じである。日本では1947年から1950年にかけての出生数があまりにも過激な伸長をみせたことが、日本の社会科学、あるいは世論の認識に日本だけが急速な高齢化に見舞われているというふわりとした錯覚に陥らせている。とくに日本の高齢化は、高学歴化、晩婚化などを背景に出生率の低下、少子化がそこに輪をかけ、相対的に高齢者人口が急速に拡大し、ウエイトを増したという事情がある。
社会学的には、1950年代には知的爆発とよばれる教育機会の増大、文盲率の低下という状況がベビーブームとともに拡大した。もともと文盲率の低かった日本では、知的爆発、教育爆発は階級意識の薄さもあって、欧米より確かな「爆発」であったといえる。欧米の場合には、知的爆発、教育爆発は人種間、家柄などの階層性意識が高く、そこが壁となって、例えばほとんどの子どもが大学までの進学を人生設計に入れるなどということはあり得ない。日本でのこうした教育爆発と「中流」に代表される、単一的な方向性成長が日本の歴史にはなかった超高速の高齢化社会を現出させたのである。
米国では1790年に2%だった65歳以上人口は現在15%程度になった。欧米の高齢化率は米国よりも高いが、速度的、高齢化に至る感覚的なものは日本とは違う。また日本における知的爆発は、教育の充実とともに日本人の文化的な刺激に対する鋭敏さ、あるいはモラルの向上などという形に結び付き、また一定の「常識」の熟成、安定志向の強固さにも結び付いている。そのため、IT社会を象徴として起こった「情報爆発」と「グローバル化」には欧米ほどの「爆発感」が生まれていない。
今や、欧米では情報爆発は、人々の瞬間的な考え方の変化に力を貸し、過激思想や原理的思想のネットワークを支えている。英国のEU離脱、ドナルド・トランプの勝利、止まないテロがそれを映している。また、欧米では、高齢者から若者への技術、価値観などの伝承が、ソーシャルメディアの出現で破壊されている状況も進行している。それに関しては、日本でも一部に似たようなことはあるかもしれないが、欧米ほどの認識は行きわたっていない。
そこを整理すると日本では安定的思考と、認識の統一化が情報爆発をカルチャーの一種としてのみ捉えている側面がありはしないか。
●なぜ「健康」観が医学と社会は違うか
述べてきたことは、日本では階層差が小さく、その認識の落差が少ない。安定志向であり、「常識」はある程度統一化されている。現状では若者の貧しさという社会的要因を忘れるわけではないが、それでも欧米の若者の失業率などと比較すると、同様に語るべき水準ではないと思える。そして、それはこれから述べる仮説で、あり程度解消できるレベルではないかとも思える。そうした日本の社会学的素因を日本の医科学はあまり考慮しないで進行してきたことは、実は大きな課題である。
まず、「健康」の考え方を医科学と国民認識ではズレが生じてしまっている。医科学が思う「健康」は「病気にならない」ことだが、国民の認識は「元気」である。大した違いはないようにみえ、非常に説明しにくいが、学校に行きたくない、外出したくないだけでも国民認識は「健康」とは考えていない。
高齢化すると、身体的にも精神的にもどこか不具合が生まれてくる可能性は相対的に高くなり、加齢とともにそれは相乗して増える。いわゆる「老化」だが、この老化のメカニズムを医科学は「科学的に」説明できても、社会的素因(集団の老化)のひとつとして認識した情報を発信しない。偉人たちの人生をみると、例外はあるとしても、1950年代以前の人々の生涯は短い。
これは、現在のようながん、認知症などの慢性的疾患にかかる以前に、ほとんどの人々が亡くなったからだ。しかし、現在では、医学の進歩でがんは慢性疾患になったが、がん患者の「健康」は確保されるわけではない。成人病といういくつかの疾患も「健康」になるわけではない。老化は「若返り」などとは無縁で、結局は死に至るプロセスの自然の摂理だ。まず、医科学がそのことを認め、老化のメカニズムのなかに、いかに健康を当てはめるかという新しい医科学にアプローチしなければならない。
1950年代以前の人々の生涯が概して短いのは、老化に至るなかで「健康」という状況から、あまり時を経ないで、急激な下り坂を一気に降り下りていったからであり、現在の状況は老化が始まっても、そこに階段が設けられ、徐々にその階段を降りるような仕組みになっていまいか。医学の進歩は、その階段をひとつずつつくってきた。降りきる前の階段には胃ろうがあり、経管栄養がある。
しかし、考え方を変えてみれば、医学の進歩で老化のメカニズムのなかで「健康」をつくり、そのうえで階段は外してもよいのではないかということだ。仮説は、「老化メカニズムのなかでの健康」をつくり出す「老年医科学」の構築である。健康を取り戻せなくなった「老化」はもう、医学や医療の手を放しても構わない。
つまり、新たな「老年医科学」は、自分で歩ける時間を延ばす医学であり、心臓を止めない医学ではない。胃ろうも、経管栄養も社会復帰し、生産行為に参加が可能な「取り戻せる健康」に使われる医療技術でしかなくなる。新たな「老年医科学」を構築し、それをプライマリまで広げることで、健康な高齢化社会を構築できるのではあるまいか。そして、それは、日本では前述したような社会学的素因があるなかで、合意可能な認識であると考えるのである。
それにはまず、「老年医科学」「老年医療」の独立性の確保と投資、社会的合意の形成を同時に進めなければならない。
「高齢者退場論」「安楽死への希求」などという課題は、前述の仮説に対する国民的合意を得る作業のなかで、包摂して語られる話である。また、医療コスト面でも論議をステップさせる材料は小さくはない。筆者は、有能な「老年医科学者」「老年医療医師」が、どこからもプレッシャーをかけられることなく独立することが、現状の解決可能な処方箋ではないか、そうした仮説を立ててみたのである。(終)