(1)本朝三美女のひとり


 当然、本名はあったのだが、その本名がさっぱりわからない。平安時代は、男でも女でも本名を呼び合うことは、極めて無礼なこととされていた。理由は、本名はその人物の人格と結合しており、本名を呼ぶことでその人物を支配できると信じていたからである。だから、通常、官職名などで呼び合った。本名は、家族しか知らないのが普通だった。


 現代風に言えば、プライバシー保護ということかな。


とりあえず、藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)の輪郭を箇条書きで記します。


➀936年(?)〜995年、平安時代中期の人。紫式部(978〜1016年)よりも一世代前の人である。


②下級貴族(藤原倫寧)の娘。


③藤原兼家(929〜990年)の妻のひとりとなる。そして、兼家との間に一子、道綱をもうける。当時は一夫多妻の時代である。兼家の正室は、藤原時姫である。結婚の時間的順番からすると、時姫が第1夫人で、藤原道綱母は第2夫人である。兼家は他に7人の妻がいた。


 兼家は藤原北家の御曹司で、当時、藤原北家の支配体制はほぼ確立していた。兼家は権謀術数によって、兼家体制を築いた。兼家と時姫の子が、藤原道長(966〜1027年)で、摂関政治の黄金時代となる。


 蛇足ながら、有名な武将(昔は漫画のヒーロー)である源頼光(948〜1021年)は兼家、道長に仕えた。ついでに、頼光四天王とは、渡辺綱、坂田金時、碓井貞光、卜部季武をいう。


④一子である藤原道綱は、異母兄弟の道長らに比べて出世が遅れたが、それなりに出世して大納言にまでなった。各種才能は並で、おっとり型のおぼっちゃま。弓だけは名人だった。


⑤『尊卑分脈』に、藤原道綱母は「本朝第一美人三人内也」(本朝で最も美しい女性3人のうちのひとりである)とある。『尊卑分脈』は南北朝時代から室町時代初期に完成した姓氏の系図大全集で、紛失した部分や間違った部分もあるが、一級史料である。


 古来、本朝三美女をめぐっては、「藤原道綱母以外の2人は誰か」が賑やかに推理されている。私の推理では、『古事記』に登場する悲恋物語のヒロイン衣通姫(そとおりひめ)は間違いなしで、あとひとりがわからない。一般的にノミネートされているのが、額田王、光明皇后(聖武天皇の皇后)、小野小町の3人みたい。しかし、常盤御前を忘れちゃ困る。なんと言っても、日本初のミスコン女王ですから。


 余談ながら、世界3大美女は、ヘレネ、クレオパトラ、楊貴妃です。ヘレネの代わりに小野小町を入れたのは明治時代の講釈師らしい。なお、ヘレネはギリシャ神話に登場し、トロイア戦争の原因は、ヘレネ争奪戦である。


⑥『蜻蛉日記』(かげろうにっき)の作者である。「日記」とあるが、「〇年〇月〇日、こんなことがありました」という日記ではなく、いわば「実録自伝・女の一生」である。構成は、上巻が15年間、中巻が3年間、下巻も3年間が記されている。


⑦歌人である。勅撰和歌集は『古今和歌集』(913〜914年成立)から『新続古今和歌集』(1439年成立)まで、21集あり、総称して「二十一代集」というが、藤原道綱母の歌は『拾遺和歌集』(1005〜1007年成立)などの勅撰和歌集に36首ある。歌人としてのランキングには、六歌仙、三十六歌仙、中古三十六歌仙(三十六歌仙以後の人)、女房三十六歌仙、小倉百人一首があるが、中古三十六歌仙・女房三十六歌仙・小倉百人一首に選ばれている。だから、一流歌人である。


⑧『更級日記』の作者・菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ、1008〜1059年)は、姪にあたる。 


(2)兼家の求婚、結婚、道綱の出産


『蜻蛉日記』は、前述したように藤原道綱母の実録自伝である。


 上巻の冒頭には、執筆の動機が書かれてある。


 世間では、いいかげんな作り話でも人気がある。だったら、自分のような上流貴族が、赤裸々に実録自伝を発表すれば、大評判間違いなし。


 週刊誌的に言えば、「本朝トップ美女、スーパーセレブ、愛と性を大胆に公開!」って感じかな……。つまり、他人に読まれることが前提に書かれてある。ということは、事実関係に誤謬はないにしろ、それなりの脚色があるものと想像する。


 上巻の最初の部分は兼家の求婚と二人の結婚が、歌物語の形態で書かれてある。この部分は読むと楽しいですよ。


 当時の求婚は、男の手紙・短歌を仲介人が女に渡す。女がOKならば、女性の手紙・短歌を仲介人が男に渡す。そして、吉日の夜、男が女の部屋へ忍び込んでセックスする。それを3日連続すると結婚成立と相成る。


 乙女チックに、男から来る手紙の紙は美しく凝ったもので、一言一句気配りした文章と短歌を綺麗な文字で来るものと思っていた。むろん、仲介人が丁寧に持ってくる。


 ところが、兼家は無作法で仲介人をたてず乙女の父親に直接、冗談のように求婚の意思を伝える。手紙・短歌も気配りゼロ。いかに男がトップ貴族の御曹司で、女が下級貴族の娘であっても、乙女には乙女の意地がある、私はそう簡単には落ちませんわよ。本心なのか、恋の駆け引きなのか、それが微妙なところ。しかし、男の「一押し二押し三に押し」で、乙女城は落城したのであります。


 乙女は100%幸せな結婚生活を望んでいる。『蜻蛉日記』には、なんか、新婚生活の不安ばかりが書き綴られている。理屈をつければ、一夫多妻制への本能的抗議かな、と思ってしまう。まぁ、幸せと不安の同居状態ということかな。そうしたなか、父が陸奥守となって赴任となった。父は兼家に「娘を頼む」の和歌、兼家も「任せなさい」と力強い和歌。いいシーンですね。不安ほぼ解消、そして、出産。名無しの乙女は、藤原道綱母になりました。不作法・強引で完璧な男ではないが、いいところもある。百点満点ではないが、これが幸せな結婚生活かも知れないと思うようになりました。 


(3)町の小路の女との恋の戦争


 ところが、兼家に新しい女ができる。一夫多妻だから当たり前と言うのは、女心がわからぬ輩の言草で、藤原道綱母の心は傷つき乱れる。この新しい女は「町の小路の女」と呼ばれる。


 どうも新しい女ができたみたいだ。夕方、私の家から「宮中に急な用事があるので」と出て行くので、不信に思い、兼家の牛車のあとをつけさせたら、町の小路の女の所へ行ったと報告がきた。2〜3日すると、夜明け前に門をたたく音がした。兼家が来たらしいのだが、やりきれない気分なので、開けさせないでいると、町の小路の女の方へ行ってしまった。


 翌朝、このまま黙っておられず、ここは勝負所。才を傾けて和歌を詠んだ。これは小倉百人一首にも選ばれた歌で、「右大将道綱母」の歌となっている。 


なげきつつ ひとり寝る夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る 


 嘆きつつ独り寝をする夜が明けるまで、どんなに長くつらいものか、あなたはおわかりでしょうか(門を開ける間さえ待ちきれぬあなたでは、おわかりにはならないでしょうね)。


 さらに和歌の解釈を付け加えるならば、私は、マヒナと田代美代子の『愛して愛して愛しちゃったのよ』(浜口庫之助作詞作曲)を思い出す。「なげきつつ……」とピッタシの歌詞ですよ。 


 道綱母は、勝負の一手だから、いつもより丁寧にこの歌を筆で書き、さらに、しおれた菊を添えて兼家のもとへ届けさせた。歌もスゴイが、しおれた菊を添えて、というのがまたスゴイですね。悲しくてつらくて、この菊のようにしおれてしまいました。


 兼家の返事は、門が開くまで待つ気持ちだったが、急な使者が来て立ち去った。あなたの言われることはもっともだ。そして、兼家の和歌は、 


げにやげに 冬の夜ならぬ 真木の戸も おそくあくるは わびしかるけり 


 まことに言われるとおりです。冬の夜はなかなか明けず(つらいものです。冬の夜でもない)真木の戸も、なかなか開けてもらえないのは、つらいものです。 


 かくして、この時点での勝負は道綱母が完全勝利を収めた。和歌の力ってスゴイですね。しかし、その勝利は、その時だけ。


 兼家は、最初の頃は、もっともらしい弁解をしていたが、その後、平然と町の小路の女のもとへ通うようになってしまう。町の小路の女も、これみよがしに、牛車で道綱母の屋敷の前を通る。そして、町の小路の女も男子出産。道綱母、恋の戦争に敗北か、と思いきや、ところが、何が原因か、町の小路の女は兼家の寵を失う。推理するに、やはり本朝三美女かつ和歌などの芸術的才能抜群、才色兼備の偉力かな……。勝利の余裕か、町の小路の女を憎ったらしいと思っていたが、その心は思いやりを欠いていたなぁ、なんて綴っている。さらに、その子も死去すると、なんて気の毒な、としみじみ思うのでありました。


 さて、女性の心理は深遠で、兼家が町の小路の女に通うようになった直後から、藤原道綱母(第2夫人)は、藤原時姫(正室、第1夫人)との歌の贈答という交流が始まる。道綱母は時姫へ、「兼家はどこに居ついているのかしら」といった内容の和歌を贈ったら、時姫から「そちらさん(道綱母)じゃないの」といった和歌が返ってきた。道綱母は何と思ったことやら……。また、「時姫さんのところへは兼家はまったく立ち寄らないみたいね」といった和歌を贈ったら、「兼家もそのうち心がわりするかもね」なんて和歌が返ってきた。要するに、振られつつ(現在進行形)ある道綱母が、振られた(過去形)時姫に和歌を贈って兼家の情報を得ようとしたが、成果なし、ということか。  


(4)異常な快感もあったが


 兼家は町の小路の女に通った時期も、時々は、道綱母のもとへも通っていた。喧嘩したり和解したり、って感じだった。


 町の小路の女の一件が終わってから、母が亡くなり、また姉が離京した。そしたら今度は、兼家が道綱母の邸で病に倒れる。急遽、兼家は自宅へ運ばれる。道綱母は自分が看病したいと嘆く。病が回復に向かってから、兼家から夜こっそりと来てくれと手紙が来る。当時は男が女の邸へ通うのであって、女が男の邸へ忍び通うということは、異常な行動である。世間に知られれば大スキャンダルである。真っ暗な邸へ入って兼家のもとへ到着すると、加持祈祷の僧たちは気をきかせて立ち去った。真っ暗な中、2人だけになったから、やはりなにやらイチャイチャしたのかな。


 夜が明けても兼家は道綱母を帰そうとしない。そうこうしていたら昼になってしまった。読者にしてみれば、ラブラブの「おのろけ話」である。


 しかし、病の時は道綱母とラブラブだったのに、元気になると、あまり訪れない。たまに来ても口喧嘩、2人の仲はどうなるのか、道綱母は毎日不安で不安でたまらない。


 そして、上巻の最後は、年月は経っていくけれど、思うようにならぬ身の上を嘆き続けている。「あるかなきかのここちするかげろうの日記といふべし」で終わっている。 


(5)死のうか、尼になろうか


 中巻になると、兼家の足はますます遠のく。もう死んでしまいたいと願うが、やはり我が子道綱を思うと死ねない。一人前にして、安心できる妻と結婚させるまでは死ねない。


 我が子に、「尼になって執着を断ち切れるか、ためしてみようと思う」と語ると、おいおい泣いて「私も法師になります」とますます泣く。母は驚いて冗談話にするため、「法師になると鷹が飼えなくなる」と言うと、走って行って、つないであった鷹を放してしまった。侍女も涙をこらえきれない、まして私はいたたまれぬ思いでした。 


あらそへば 思いにわぶる あまぐもに まづそる鷹ぞ 悲しかりける 


(夫婦で)争うのが悲しい、雨雲に(雨と尼の掛詞)(子供が)鷹を空に放って(逸ると頭を剃るの掛詞)(法師になる)覚悟を示すとは、なんと悲しいことだ。 


 そんな女心に無頓着な兼家は、次々に新しい女をつくる。道綱母は、気晴らしに、石山詣(大津市の石山寺参拝)に出かける。これは、紀行文のように綴られている。 


(6)西山寺の決戦


 道綱母は苦悩の末、家出を決意する。といっても、永久家出ではなく、何と言うか、兼家への大々的抗議のデモンストレーションといった感じである。


 具体的には、西山寺に我が子とともに籠った。もちろん侍女たちと一緒である。この西山寺は京都市右京区鳴海にあった般若寺で、平安時代に栄えた寺である。貴族のサロン的ホテルのような場所であったようだ。決して寂れた山寺ではない。現在は小さな祠があるだけである。


 兼家にとっては、非常に格好悪いことであったようだ。ここに、連れ戻そうとする兼家とそうはいきませんよの道綱母の1ヵ月間にわたる恋の決戦(大々的夫婦喧嘩)がなされる。中に立つのは道綱で、母と父の間を伝令として行ったり来たりで、おろおろ……、てんやわんやの大騒ぎ、結局、道綱母は連れ戻される。


 寺の大門を出たら、道綱母の乗っている牛車に兼家が乗り込んできた。車中、兼家は猿楽言(お笑い話)を連発し、道綱母は「夢路か物ぞ言はれぬ」の恍惚に浸るのであった。大々的夫婦喧嘩の後は、おのろけか。


 想像力旺盛の方は、車中で、何やらイチャイチャがあったとする。


 兼家の女好きのエピソードに、『大鏡』の「打ち伏しの巫女」がある。占い名人の巫女がいて、その占い方法がうつ伏したままするという変わったやり方をする。しかし、とにかく当たると評判だった。兼家も評判を聞いて邸に呼んで、占わせるとことごとく的中するので、お気に入りになった。それで、兼家は正装して御冠をつけ胡坐を組んで座る。巫女を膝の上にのせて、しかも巫女は裸である。たぶん美女巫女だったのでしょうね。何と申しましょうか、エロいですね。そして、巫女の言いなりに行動したとされる。


 そもそも、巫女の元祖は、天の岩戸のストリップショーで名高いアメノウズメですから、巫女の秘伝奥義はエロっぽいものだった。和泉式部(978〜?)も、貴船神社(京都市左京区)で、それに関して顔を赤らめてびっくりした話があるくらいだ(『沙石集』)。ついでに言えば、『和泉式部日記』は『蜻蛉日記』よりもエロい。そして、とてつもなくエロいのは『とはずがたり』である。『とはずがたり』は昭和初期までは禁断の書で存在自体が極秘であった。


 少々横道にそれたので、本筋に戻すと、ひとときの和解・恍惚はあったものの、基本的に道綱母は悲しみ涙に明け暮れる。 


悲しくも 思ひたゆるか 石上(いそのかみ) さはらぬものと ならひしものを 


(あなたが来ないとあきらめるのは)悲しいものです。(古今集の)石上の歌のように、雨にもかかわらずいらっしゃったのに。 


おほばこの 神のたすけや なかりけむ 契りしことを 思ひかへるは 


 道綱母は西山寺事件の後、「尼帰る」=「雨蛙」というあだ名がつけられていた。(死んだ蛙を生き返らせるという)オオバコの神も、助けてくれない。(暮れにはいらっしゃる)約束を思い出して(約束が破られ死ぬ思いです)。 


 そして、今年も暮れる。「年の終はりには、なにごとにつけても、思ひ残さざりけむかし」(年の終わりは、何事につけても、あらゆる思いを残さず思い尽くした)ということで、中巻は終わる。 


(7)道綱の恋、養女をめぐるドタバタ劇


 下巻の初めの部分に、兼家の大納言昇進がある。律令官僚制度は、太政大臣(正一位、従一位)、左大臣・右大臣・内大臣(正二位、従二位)に次ぐのが大納言(正三位)である。大臣まで、あと一歩の大出世である。

 兼家の出世は、普通に考えると喜ぶべきことである。多くの人がお祝いに来たりして大騒ぎだが、大出世は兼家の身を多忙にさせる。となると、兼家が道綱母の邸へ通う頻度が減少する。私(道綱母)にとっては、大納言出世はうれしくないのである。とはいうものの、道綱母の邸から大納言兼家が出発する光景を「こ憎たらしい」ほど恰好がいい、と思うのであります。道綱母は自分の心に、実に正直な人なんですね。


 仕事と家庭の関係のアンケートで、昨今は「家庭での時間を大切にしたい、もっと家庭で過ごす時間を増やしたい」とする比率が顕著な増加傾向を示している。30年前は仕事第一主義、仕事人間が当たり前で、家庭第一主義は「軟弱、情けない奴」と思い込まされていた。だから、30年前は道妻母の評価は「夫の出世を喜ばない悪妻」というようにボロボロだった。しかし、今は違ってきたように思う。

 さて、下巻の頃の道綱母の脳にしめる兼家の割合は、比較的低下した。それに反比例して、我が子道綱の存在が大きな割合を占めるようになった。これは万人同じ法則であろう。


 むろん、我が子道綱は上巻、中巻の各所に登場しているが、下巻では「道綱の恋」がさかんに綴られている。母は我が子の恋に大いに関心を持つものらしい。道綱は、彼女の牛車を追いかけたり、恋文(和歌)を頻繁に贈り続けるが、まるで効果なし。つれない返信はまだしも、返信が代筆だったり、白紙の返信すらあった。見かねた母はラブレターの指導をする。道綱母はすでに和歌の名人と有名になっている。


但馬(たぢま)のや 鵠(くぐい)のあとを 今日みれば 雪の白浜 しろくては見じ 


 この和歌の意味を知るためには『日本書記』の知識が不可欠。『日本書記』第11代垂仁天皇の部分。垂仁天皇の皇子は30歳になっても言葉を発しない。ある日、鵠(くぐい、たぶん白鳥)がいて、それを見た皇子は「これは何?」と生まれて初めて言葉を発した。垂仁天皇は喜び、「この鳥を捕えよ」と命じる。家来が飛んでいる鳥を追いかけ、いろんな国を渡る。最後は出雲国で捕獲した。ある人によると但馬国で捕獲したとも言われる。


 但馬でやっと捕まえた鵠の足跡を見れば、但馬の白い雪の上に白い鵠がいるように見えます(あなたからやっときた手紙をみれば、白い鵠のように真っ白です。私は、あなたを、どこまでも追いかけます)。 


 しかし、彼女の返信は「古めかしい」の一言。たぶん、母親のアドバイスによる和歌であることも見抜いたことであろう。努力はしたが道綱の恋は実らなかった。


 それから、道綱母は養女をもらう。その女子の父は兼家で母は8番目の妻である。第8夫人と兼家の関係は長く続かなかったようで、母子は滋賀の田舎でひっそり暮らしていた。その女子を養女にしたのだ。養女をめぐって、いささか変態貴族が登場して喜劇的ドタバタ劇が展開されるが、委細省略。


 そして、『蜻蛉日記』最終場面に近づく。道綱が賀茂の臨時祭で舞人に召される。晴れ舞台なのだ。牛車のラッシュで大勢の見物客がいる。兼家も見物に来ている。わたしの父も来ている。「ただその片時ばかりや、ゆく心(満足感)もありけむ」。


 下巻も中巻と同じく大晦日で終わっている。 


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太田哲二(おおたてつじ) 

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。