三寒四温の気温の上下と、春の嵐とも言われる前線性の降雨に、桜の開花状況を重ねて一喜一憂しつつ、年度末の慌ただしさと新年度の準備が同居する、独特の雰囲気がある時期である。寒緋桜や河津桜の色濃い花に始まって、早咲きの里桜(サトザクラ)、枝垂れ桜、オオシマザクラなどが先に咲き始めて、ソメイヨシノの開花が始まる。
ソメイヨシノ
ソメイヨシノ
桜前線は南の暖地から北上するはずだが、近年は緯度的に南にある九州地方より東京の方が満開を迎えるのが早いようである。標準木と言われる観察対象がどこに植栽されているかという局地的な差異はあるにせよ、東京はなんでも一番先なんだなあと思ったりするわけである。京都はというと、底冷えが緩むのに少々時間が必要なせいか、東京で開花宣言が出されても、まだまだつぼみ堅し、の状態である。
日本でサクラといえば多くの場合ソメイヨシノを指しているが、ぼんぼりさんのように花が丸く集まってつき、葉が全く出ないで花だけで満開を迎え、萼が赤いので満開になると全体がぼうっと桜色になる、この観賞用に最適な品種は、すべてが挿し木で増やされた、遺伝的に全く同一の木ばかりであるという話はご存知の方も多いだろう。世界的に見ても、有名かつ珍しい花木のひとつである。
他方、ひと眼千本と言われる奈良県吉野のサクラは、ほとんどがヤマザクラである。ソメイヨシノは交配で作出された園芸品種であるが、ヤマザクラは昔からある野生種のひとつである。ひとつひとつの花の形は両者でよく似ているが、花のつき方が違うのと、花が咲く時にヤマザクラは赤い新葉が一緒に出てくるのとで見分けがつく。
ヤマザクラ
公園などに植栽されるサクラには、ソメイヨシノ、ヤマザクラの他にオオシマザクラもよく使われる。オオシマザクラは他のサクラより花が大ぶりで色が白く、花が咲き始めると同時に緑色の新葉が出る。ソメイヨシノが若々しくて華やかな舞妓のような印象だとすれば、オオシマザクラははんなりと落ち着いた芸妓はん、凛としたヤマザクラはお母はんの趣、と思ってしまうのは筆者だけだろうか。
オオシマサクラ
薬用植物のコラムであるはずのここになぜサクラなど、と思われたかもしれないが、それはサクラがれっきとした生薬の基原となる植物だからである。使われるのはヤマザクラと、近年の植物分類学ではヤマザクラの変種とされているカスミザクラである。では使用部位はどこか。桜餅を包む塩漬けの桜の葉から連想して、生薬にするのは葉、と答えられるかもしれないが、そうではなく、正解は樹皮である。再度脱線するが、桜餅の塩漬けの葉は多くがオオシマザクラの葉で、あの特有のにおいは、葉に含まれる化合物が塩漬けの過程で変化してできたクマリンという化合物のにおいである。
ヤマザクラの樹皮由来の生薬はオウヒ(桜皮)といって、鎮咳・去痰作用が期待され、漢方処方としては十味敗毒湯(または十味敗毒散)などに配合される。しかし、オウヒが原材料として使用される医薬品は漢方薬だけではなく、いわゆる西洋薬として使われてきた医薬品にも存在する。いや、存在していた、という方が正確かもしれない。それは、ブロチン、あるいはブロチンシロップなどと称されたオウヒエキスである。スーッとした強いにおいのある濃い茶色の液体で、小児用の風邪薬の処方に咳止めの効果を期待してよく処方された医薬品である。
このブロチンは、残念ながら十分な量の原料供給が見込めないため、現在では製造がストップしてしまっているらしい。ヤマザクラの皮を生薬として供給するためには、それなりの数のヤマザクラを栽培する必要があるし、樹皮を収穫するためには数年から数十年の栽培期間が必要である。しかしながら、これはヤマザクラに限った問題ではないが、現在の日本では、気長に山で栽培管理して収穫した樹木の樹皮の生産コストと、それ由来の生薬の価格とがうまく釣り合っていない。加えて、近年は野生の鹿による食害が深刻で、栽培意欲が湧く原因がまったく見当たらない状況が続いている。
年に一度の満開のサクラを眺めながら、ヤマザクラの樹皮が生薬になることなど、お花見の余興に話題提供してみられてはいかがだろうか。子供の頃に風邪をひいてクリニックに連れて行かれ、ブロチンシロップ入りの茶色い水薬を処方された経験のある人は少なからずおられると思うのである。
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伊藤美千穂(いとうみちほ) 1969年大阪生まれ。京都大学大学院薬学研究科准教授。専門は生薬学・薬用植物学。18歳で京都大学に入学して以来、1年弱の米国留学期間を除けばずっと京都大学にいるが、研究手法のひとつにフィールドワークをとりいれており、途上国から先進国まで海外経験は豊富。大学での教育・研究の傍ら厚生労働省、内閣府やPMDAの各種委員、日本学術会議連携会員としての活動、WHOやISOの国際会議出席なども多い。