(1)昭和初期、小説・芝居・歌謡曲で超大ヒット


 明治44年(1911年)、「都新聞」(現在の東京新聞)が『洋妾(らしゃめん※)物語』の連載を掲載した。これが、お吉を取り上げた最初であった。この記事を書いた記者は、加筆補正して大正2年(1913年)に『薔薇娘』という小説単行本を発行した。どんな内容の唐人お吉なのか、読んだことがないので、知りません。


 大正14年(1925年)、医師の村松春水が、下田の郷土誌『黒船』で、開国の犠牲になった悲運の女性の研究成果を発表した。村松の研究発表が、「唐人お吉物語」のベースになった。


 そして、昭和3年(1928年)、作家十一谷吉三郎が『黒船』をもとにして、「唐人お吉」を中央公論に発表、単行本としても出版した。さらに、昭和4年(1929年)には、東京朝日新聞で「時の敗者・唐人お吉」を連載した。


 昭和5年(1930年)、劇作家真山青果が新橋第一劇場で上演、そして、歌舞伎座でも上演された。どちらも、「唐人お吉」は爆発的人気を博した。


 それ以後も、舟橋聖一、山本有三らが小説にした。芝居、映画になった。


 歌謡曲にもなった。


 昭和5年に発表された『唐人お吉小唄』(西条八十作詞、佐々紅華)の「駕籠で行くのは お吉じゃないか」の歌詞は誰でも知っていた。戦後になっても小唄勝太郎が紅白歌合戦(昭和31年=1956年、第7回)で歌った。小唄勝太郎は芸者出身歌手で戦前ではトップ人気の歌手であった。


 台詞で有名な『お吉物語』(藤田まさと作詞、陸奥明作曲)は、中村美津子、青江三奈、藤圭子、森昌子、石川さゆりらが歌った。涙腺が弱い人は涙が出る歌と台詞である。


らしゃめん(羅紗緬または羅紗綿)は、本来は綿羊のことである。ところが、外国人相手の遊女、外国人の妾となった女性を侮蔑する意味で使用されるようになった。洋妾、外妾とも言われる。今なら放送禁止用語である。


(2)「唐人お吉物語」の概略


 前段で述べたように、「唐人お吉物語」は、医師の村松春水が『黒船』に発表した原稿がベースになっている。その概略は以下のような内容である。


➀天保12年(1841年)、下田坂下町、斉藤市兵衛の次女として誕生。


②安政元年(1854年)、14歳のお吉は芸妓になる。この年の11月4日、下田は大津波で大被害を受ける。下田の復興事業で下田は賑わう。お吉は一流芸妓となった。幼なじみの鶴松とお吉の仲は街の評判になった。 


嘉永6年(1853年)7月、ペリー艦隊が浦賀沖に来航。安政元年(1854年)2月、ペリー艦隊、浦賀沖へ再来航。3月、日米和親条約締結(箱田と下田を開港)。6月ペリー艦隊は下田へ到着し、米和親条約の細則(下田条約)を締結する。同月、ペリー艦隊、下田を去る。


③安政3年(1856年)8月21日(7月21日)、ハリスが下田へ到着した。ハリスは体調不良のため看護婦を求めていた。他方、下田奉行所役人はハリスとの交渉で、原則論のハリスに手を焼いていて、ハリス懐柔策として妾斡旋を考えた。奉行所役人はハリスが同伴してきた通訳兼秘書ヒュースケンに妾斡旋を持ちかけた。ヒュースケンは、ハリスにはお吉を、自分にはおふくを、と言うのであった。


④奉行所とハリスの間で、お吉への支度金20両・年手当120両、おふくへの支度金20両・年手当90両が決められた。お吉とおふくは奉行所へ呼び出され、2人にアメリカ領事館へのご奉公が申しつけられた。おふくは権力の前に恐れ入るばかりだが、お吉は権力の前でも「いやでござんす」と拒否した。お芝居の見せ場である。


⑤奉行所役人は困ってしまい、ハリスに「お吉の代わりに別の女性を」と申し入れると、ハリスは怒って、「日米の交渉はやり直す」と言い出す。そして、奉行所支配組頭・伊佐新次郎が解決に乗り出す。日本で最強の道徳律「お国のため」が持ち出されたのだ。具体的には王昭君の故事が話された。お吉は王昭君の話にとても感動した。お吉と鶴松の関係は、名字帯刀を許し、侍の身分にするということで別れさせた。ということで、お吉はハリスへの妾奉公を承諾した。


年手当120両…月額10両であるが、当時の大工は月2両くらいであったから、かなりの高給与になる。しかし、ドル換算にすると10両は13ドルで、ハリスが中国から連れてきた召使頭は月給15ドルである。だから、そんな高給でもない。お金の交換比率のマジックである。


王昭君の故事…前漢の元帝の時代、北方の匈奴は前漢の最大の脅威であった。匈奴の王が漢の女性を妻にしたいと元帝に依頼した。元帝から匈奴の王へ持ちかけたという説もある。いずれにしても、王昭君は、長安の都から見ればモンゴル砂漠の文化果てる地、匈奴の王の妻となった。漢の平和を女性の一身で守るために、である。後世、さまざまな物語が付加され壮大な悲劇のヒロインとなった。楊貴妃、西施、貂蝉と並ぶ古代中国四大美女のひとりである。


 なお、西施は春秋時代末期、呉と越の争いに登場する。越王は呉王に西施ら超美女を献上する。呉王は超美女に現を抜かし国力を低下させ、ついに越に滅ぼされる。貂蝉は『三国志演義』に登場する。後漢末期、漢王朝では董卓(とうたく)が暴虐をつくす。見かねた王允は養女貂蝉を使う策に出る。董卓とその養子呂布の間に貂蝉を置く(美人計)、貂蝉を巡って2人の関係は悪化し、そこを攻撃する(離間計)。2つ合わせて「連環の計」という。楊貴妃については、言わずもがな。


⑥お吉はハリスに誠心誠意つくす。ハリスのために牛乳を確保するため苦労する。しかし、お吉に対して、「ラシャメンになったお吉」とか「夜は四つ這になる」など誹謗中傷・悪口雑言が蔓延した。お吉は次第に酒におぼれていく。


⑦安政6年(1859年)、ハリスは公使となって江戸へ行く。そのためお吉は奉公をやめる。秘書兼通訳ヒュースケンが江戸で攘夷派の薩摩藩士に暗殺される。そのこともあって、江戸のハリスはお吉を呼び、お吉は江戸でハリスに約1年間仕える。


ヒュースケン暗殺は1861年1月14日(万延元年12月4日)の出来事。28歳だった。ヒュースケンは、女好きのスケベ傾向が濃かった。当時の日本の銭湯は混浴で、ヒュースケンはたびたび見物に行って、日本人から嫌がられた。


⑧文久2年(1862年)4月、ハリス帰国。お吉は下田で再び芸妓となった。しかし、酒乱のため客が減り、慶応元年(1865年)下田を去り放浪の旅に出る。


⑨明治元年(1868)、横浜でお吉は鶴松に再会する。鶴松は、横浜で船大工をしていた。鶴松は、伊佐新次郎の斡旋で江戸に行ったが、名字帯刀は許されず、そのため横浜で船大工をしていたのだ。2人は横浜で所帯をもつ。物語がこれで終われば、「いろいろあったが、よかった、めでたい」ということなのだが、そうはならなかった。


⑩明治4年(1871年)、2人は故郷下田へ帰った。お吉31歳、鶴松35歳である。お吉は髪結い業を始めた。鶴松は河合又五郎と名を改め、船大工の仕事をした。幸せは長く続かなかった。アル中は恐ろしい。一旦は、断酒したものの、再び酒を飲むようになった。アル中は夫婦喧嘩を引き起こす。夫婦仲は決裂し、明治7年(1874年)別居と相成る。その後、一時期、お吉は三島へ行き、料理屋金本楼で働いたが、下田へ戻り、女髪結と三味線の師匠を業とした。そして、やはり、酒浸りの日々であった。


⑬明治15年(1882年)、船頭卯吉(お吉と遠縁)が下田で安直楼という妓院(遊女屋)を開業し、お吉を楼主にした。妓院は一時期繁盛したが、4年目の明治19年(1886年)に破産した。酒浸りの日々が続く。


⑭明治20年(1887年)、吉奈温泉(伊豆半島の真ん中にある)へ湯治に行く。明治23年(1890年)、50歳の時、杖なくしては歩けない状態になっていた。下田に流れる稲生沢川にて溺死体で発見された。事故死なのか自殺なのか、それはわからない。


 小説家や脚本家は、これにさまざまな味付けをして、「唐人お吉物語」を盛り上げた。⑧の部分では、ハリス帰国後、お吉は祇園の芸妓となり、ハリスの意思をくんで、「開国日本—倒幕」のため大活躍というのもある。


 いずれにしても、「唐人お吉物語」は、事実とフィクションが入り交じった物語である。


(3)事実は……


A)お吉は拒否しなかった


 下田の町役人の文書や下田奉行からの老中への報告書が残っているが、お吉の説得に手間取ったということはなかったようだ。幼なじみの恋人鶴松も存在しない、説得のため鶴松に名字帯刀を約束も虚構である。


 それらの文書では、次のようなことが窺い知れる。


 ヒュースケンの看護婦2人斡旋要求に対して、最初、下田奉行所は取り合わなかった。そりゃそうだろう、プライドの高い武士が売春婦斡旋などするわけがない。おそらく翻訳・通訳の微妙な言い回し方の誤差があったものと思われる。ハリスは純粋な看護婦斡旋を求めたのだが、ヒュースケンはこれに便乗して自分には売春OK娘の斡旋を求めた。だから、奉行所役人が看護婦=売春婦と思い込んでしまったのかも知れない。


 奉行所の拒否回答に、ヒュースケンは女性斡旋拒否ならば、これまでの交渉は決裂、と言い出した。奉行所は、しかたなく女性(お吉)をハリスの所へ行かした(お吉派遣の5日後にヒュースケンへおふく派遣)。


 ヒュースケンは、ヒューマニズム旺盛な青年ではあるが、時に自己欲求が強すぎる男でもあった。そのことはヒュースケン自身の日記で明らかだ。「日本にきて下男を雇った。こんどは馬持ちだ! この調子だと、自分の馬車を持って、皇帝の一人娘に結婚を申し込むことにもなりかねない。そうなると俺は植民地総督だ!」


 ヒュースケンは有頂天になっていたのだ。自分の要求は何でもかなう、と。


B)実は、腫物で3日間で解雇された


 安政4年(1857年)7月10日、お吉の母と姉婿から奉行所役人への嘆願書が存在している。それを要約すると、次のようになる。


 ——先般、きちに、アメリカ領事の部屋召使に差し出すようにお話がありましたとき、外国人に女性を差し出すことは初めてのことであり、本人も親類の者も、お許し願いたいと申しましたが、ぜひにとの仰せであり、それに、老母ときちは、定職もなく、入港船の衣類の洗濯などで生計をたてている状態なので、かなりの手当がいただけることでもあり、承知いたしました。


 ところが、きちは、腫物ができていたため三夜で自宅療養を言いつけられました。その後、全治した旨を届けましたが、ハリスが病気なので出仕を差し控えるよう申し渡されました。そしてこのたび解雇を申し渡されました。


 いったん異人と交わった以上、今までのように船頭相手の仕事もできません。老母とも生計の途がたたず、困っております。どうか格別なお慈悲のお沙汰を、偏にお願い申し上げます——


 この嘆願書に対して、ハリスから30両の解雇金が支給された。


 ヒロインは美女でないと面白くない。ということで、お吉は一流の売れっ子芸妓ということのなったのだろう。実も蓋もないが、本当は、下田港に出入りする船頭相手の洗濯女だった。船頭の衣類を洗濯する業であるが、衣類の洗濯だけでなく、少なからずの女性は酒のお酌もすれば売春もした。宿場に飯盛女という業があったが、純然たる仲居もいたが、少なからずの女性は売春も業とした。


 とにかく、ハリスは清廉潔白なクリスチャンで、生涯独身かつ童貞だった、と言われている。純粋な看護婦を求めたのに、看護婦の名目で来たのが、腫物がある紅とおしろいの女性であるから、3日間で解雇となった


(4)7人の女


 ハリスとヒュースケンに仕えた女性は、お吉とおふくだけではない。他の5人いるので、まとめてみよう。


[ハリスに仕えた女]

きち(17才)……安政4年(1858年)5月22日から3日間

さよ(17才)……安政5年7月16日〜12月4日、約5ヵ月間。

りん(18)才……江戸で。万延元年(1860年)12月21日〜翌年2月末、約2ヵ月。


[ヒュースケンに仕えた女]

ふく(15才)……安政4年5月27日〜10月4日、約5ヵ月間。

きよ     ……安政5年2月5日、すぐ解雇。

まつ(16才)……安政5年2月21日〜翌年2月29日、約1年1ヵ月。

つる(18才)……江戸で。安政6年8月6日〜万延元年12月5日(ヒュースケンの死まで)、約1年4ヵ月。なお、男子出産。


 冒頭に記載したように、明治時代末期になって唐人お吉が脚光を浴びるようになった。医師の村松春水が医業のかたわら古老から聞かされた話は、7人の女の誰かの話であったのだろう。


 庶民の歴史は記録に残らないから、あいまいな記憶だけが頼りになってしまう。その記憶すらいずれ消滅してしまう。悲惨な庶民の歴史は消え去り、権力者中心の歴史だけが歴史として残る。


 幕末開国という激動の時代、7人の庶民女性がたどった悲運の合体作が「唐人お吉物語」と思えば、なにかしら供養になるのではないか……。


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太田哲二(おおたてつじ) 

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。