北朝鮮の独裁者・金正恩の異母兄・金正男がマレーシアで暗殺された。国際空港という衆人環視の環境で、女性ふたりが抱き着くようにして決行した驚愕すべき犯行は、テレビのニュースや情報番組でも連日報道されている。今週の各誌関連報道にさほどインパクトのある記事はなかったが、週刊新潮の特集は、『「金正男』暗殺は「金正恩の指令」に疑義あり』という“逆張りの新説”で異彩を放っていた。
素人じみた犯行の手口や、北朝鮮にいま彼を殺害するメリットが見られないことなどから、“金正男の側近”の話として、黒幕は北朝鮮当局でなく韓国の情報機関・国家情報院ではないか、という謀略説を取り上げている。
朴槿恵政権に代わる韓国の次の政権は、“親北”の左派政権となる可能性が高いとされ、緊張緩和による地位低下に怯える国情院が、“蜜月化”に水を差すために仕組んだのではないか、という話だ。あくまでも、“こんな説もある”というだけの記事であり、真剣味は感じられないが、とにかく見出しで目を引こうとする作戦である。
個人的には、同じ特集にある『東京新聞編集委員の「独白本」に正男が抱いた「恨」の念』という記事が気になった。5年前、東京新聞の五味洋治編集委員は、金正男とのメールのやりとりやインタビューをまとめた『父・金正日と私 金正男独占告白』という著書を刊行し、本人による北朝鮮批判の言葉も取り上げている。
今回の暗殺の背景に、この本の記述が影響したか否かは定かではないが、金正男本人は書籍化にあたって「タイミングが悪い」とその延期を求め、それを押し切って本が出たことに「恨み」を抱いたという。
事件直後、各社の取材要請を受け、五味氏は記者会見を開いた。新潮のこの記事では「金正男の死と私の本を関連付けて批判する声が多くあるのは知っていますし、それは仕方がないと思っています」と述べ、いずれ自分なりに事件の背景を取材する意思を語っている。
この本の版元の週刊誌・週刊文春には、『金正男と私の13年』と題して五味氏自身の手記が載った。著書刊行をめぐる軋轢には触れず、北京空港で偶然遭遇したときから始まった金正男との日々を回想し、「常識的な話」しかしなかった彼を無残にも殺害した犯行を厳しく糾弾する。結びの文章では、金正男の穏やかな人柄に改めて触れたうえで、彼が遺した言葉をより多くの人に知ってもらいたい、という思いを綴っている。
五味氏とはかつて、ほんの少しだが面識があり、著書刊行をめぐる葛藤についても、間接的に耳にしたことがあった。だが、彼と金正男との関係の奥深いところは、当事者同士しかわからない話だし、暗殺事件の真相も未だ定かでない以上、軽々に部外者の私がモノを言うわけにはいかない。
いずれにせよ、今回の金正男の死で、日本で最も衝撃を受けているひとりが彼であることは想像に難くない。時にスクープを放つために求められる決断と、その波紋がもたらす結果への責任。綱渡りのような際どいネタであればあるほどに、そこには大きな精神的負荷がのしかかる。これは取材をし、文章を書く職業に就く人間の、業のようなモノとしか言いようがない。自戒の念も込め、改めてそう思った。
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三山喬(みやまたかし) 1961 年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。1998年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取 材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。2007年に帰国後はテーマを 広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って」 (ともに東海教育研究所刊)など。