医療を中心に現代を俯瞰すると、やたらと「超」や「多」が付くことに気付かされる。超高齢化、超少子化は、現状では常識的な時代反映であり、人口問題からいえば、すでに日本は多死社会に入っている。2040年には年間100万人の単位で人口が減っていくと予想されている。すでに東京などの大都市部では、葬儀の順番待ちが始まっているとの報道も目につくようになってきた。


 当然のことだが、こうした状況は単に医療、介護を含めた「ケア」の世界にとどまらず、社会の変革を促すエネルギーを持つようになっているし、特に見逃せないのは、長寿=文化国家という認識の崩壊を招き始めていることだ。尊厳死、ピンピンコロリといった言葉が、いつの間にか人々の常識として、浸透していることに気付いたと言っても異論はないだろう。


 高齢者医療で一般的な教科書的な療養スタイル、あるいは治療スタイルには疑問が示され、多くの高齢者医療の現場では混乱や戸惑いが起こっている。高齢者が重度の脳梗塞などで病院に運ばれると、「延命治療しますか」と訊かれたという家族の話も伝えられている。その報告の頻度も増え、一部の医療機関では、そうした患者、家族への質問がマニュアル化している状況も推測できる。


 単に、医療や介護の技術的な変革が進んでいるだけではなく、死に対する概念の変化、死生観への教養としての衣裳をまとった意識改革の涵養が、ある意味「強要」的に進んでいる印象すら持つようなエピソードも増えている。


●科学的、哲学的アプローチは十分か


 こうした意識の流れ、流動化している「社会秩序」や、「社会生活」に対する概念の変化を突き動かしているものへの実態をクリアにしておく必要があるように思える。


 ここでは「適正寿命」という造語をキーワードにしながら、こうした意識改革を進めていこうとしている本質を眺めていくことにする。「適正寿命」とは、従来の平均寿命という「長生き」の物差しが崩れ、寝たきり期間を削って算定する「健康寿命」の重視の展開を横にみながら、実は、「健康寿命」重視の合意形成が、長生きする高齢者へのプレッシャーになっている状況を踏まえながら、個々に存在する「死に方」あるいは、「死に時」を無意識のうちに醸成する言葉として使いたい。それをよしとするか、否とするかはこのレポートでは問題ではない。


 しかし、じわりと社会に張り付きだした、こうした「適正寿命」に対する考え方の伝播、浸透、そして常識化という流れはもはや止めにくいように思える。しかし一気に、そうした風景が変わっていくことに科学的評価や哲学的アプローチのシステムが働いているかどうかは微妙だ。高齢化、少子化、多死社会というキーワードに翻弄され、主観が客観化される場面に立たされているようにもみえる。そのうえで、あえて言ってしまえば、「適正寿命」は、なし崩しに社会常識化される「危うさ」も包含するニュアンスがあることも伝えておこう。


 今回のシリーズでは、高齢化、少子化、多死社会という現実の流れの中で、地域包括ケア政策にみられる財政対策を本質とした制度的改革、医療・介護の現場の疲弊、環境の劣悪さと雇用の課題、寝たきりを否定する「健康寿命」への傾斜をみつめながら、多死社会に至る構造的要因を羅列することで終わる予定だ。なにしろ、こうしたテーマが、「適正寿命」という思潮の普遍化を急がせている。時間はあまりない。問題を早く整理し、次のアプローチに進まなければならない状況だという問題意識を改めて突き付けておく。


●個々のアイデンティティを規範化するベクトル


 このシリーズでは、2015年問題、2025年問題、2040年問題を切り口にして、社会保障政策、特に財政論から見た地域包括ケアに代表される、医療・介護のシステムの変革の動向と影響を第1にみていきたい。


 第2は、高齢者を軸にした生活の問題。下流老人という言葉に代表される、高齢者全体に対する問題と、その横にある少子化、老親介護と子の生活も支える板挟みの状況、高齢者間の資産格差の拡大などをみる。むろん、その構造を語る中では、地域の格差、医療・介護サービスの供給の偏差なども入るし、経済問題としての「食えるか、食えないか」の課題と、身体的・生理的問題としての「食えるか、食えないか」の問題に言及しなければならないだろう。


 第3は、「適正寿命」という大雑把な括りで言いたい最大の問題である、「生きる」ことと、「死ぬ」ことに対する、社会的合意形成の急ぎ過ぎの問題。かつて、「いかに生くべきか」がこの国の個々のアイデンティティの柱であった。しかし、昨今「いかに逝くべきか」が語られ始め、それはかなり大きな声になりつつある。こうした、生死に関する観念の変遷が、社会構造や時代の流れでドラスティックに変わっていく要因は何か。それはいったい何を生み出していくのかという問題に触ってみたい。


 その3点をプロットとして、このシリーズを展開したいが、最も大きな通底するテーマは「適正寿命」という、個々のアイデンティティに預けておきたい問題が、規範となっていくことの是非である。


●適切な医療を選び受けることの意味


 医療者や、人口の専門家からは、治癒したり延命する医療より苦しみを除く医療を選ぶという選択、いわゆる「安らかな死」を与えるのが最善の医療という認識の共有を国民に求める意見が大きくなりつつある。どこか、言いたいけれど言い出せなかったが、「無駄な医療が存在する」ということを明確化する動きも目立っている。14年の「医療介護総合推進法」は、国民の役割を「適切な医療を選び、適切な医療を受ける」とする。この言葉に含まれる、棘のようなもの、そこへの疑いは適切な医療の選択と受け入れが、規範として存在していく前兆をみる感覚である。


 こうした、ある種、財政論的見地からは都合のいい目的意識が規範や制度として確立する状況を前にしながら、一方では極端で都合のいい解釈運用で進められる個人情報保護によって、独居や高齢者世帯の情報を遮断し、孤立を深めている実態はまるで改善されるそぶりもない。地域包括ケアで進められる「在宅医療」は、家族介護の圧力を強めることはあっても小さくすることはない。前述した老親介護と子どもへの生活支援という板挟み高齢者の心身への思いやりをみることはできない。


 生に執着しないで、早く若い人に座を明け渡せという論理が成立するには、前向きに最期を生きられる、「自由な」人生観が傍らに保証されていなければならないはずだが、そこをスポイルした規範やルール、モラル観の醸成が「適正寿命」の中に宿ることに対しては、課題を整理し、そのうえで行われる論議を尽くす必要がある。


 次回からは、前述したプロットに沿って、課題の整理をしていく。(幸)