「これから遺伝子治療がくるよ」——。
一昨年、ある製薬会社の元トップに、これからの医療・医薬のトレンドを尋ねたところ、そんな答えが返ってきた。
実際、昨年の後半に入って、動植物の遺伝情報を書き換える「ゲノム編集」を扱う書籍の刊行が相次いでいる。一般向けの本も増えていて、なかでも『ヒトの遺伝子改変はどこまで許されるのか』は、人間にゲノム編集を適用する上で、議論しておくべき、さまざまな論点を取り上げた一冊だ。
ゲノム編集が注目される背景には、以前も紹介した「クリスパー・キャス9」と呼ばれるゲノム編集ツールの登場がある。〈近い将来にノーベル賞というかたちで一般の方々の耳目を引きつける可能性もきわめて高い〉というこの技術により〈これまでとは比較にならないほど、圧倒的な高効率での遺伝子改変が可能になった〉。
第1章では、ゲノム編集についてわかりやすく解説されるが、ヒトの遺伝子改変という点で期待されるのは、何といっても第2章で扱う「遺伝子治療」だろう。〈人類の病気には少なからず遺伝子がかかわっており、そのメカニズムが解明されていけば、将来的には多くの病気についてゲノム編集技術による治療が行われると考えられる〉からだ。
もっとも、遺伝子治療は従来型の医療とは別のリスクもはらんでいるという。
実は「遺伝子組み換え技術」を使った臨床試験は90年代から行われているが、遺伝子治療から3〜5年後にがんを発症した事例が報告されている。遺伝子治療は〈一度の遺伝子導入で完治をめざす医療だ。しかし、人体に悪影響を及ぼすような遺伝子導入となってしまった場合、その悪影響もまた長期間におよんでしまう〉。つまり、くり返し投与して効果を発揮する既存の薬とは違った安全性評価の基準や期間を設ける必要がある。
また、コストの問題も大きい。欧州で初の承認となった生体内遺伝子治療剤は1人の患者に使われたが、治療費は90万ユーロ(約1億800万円)にものぼったという。難治性がんの治療が期待されているCART細胞の治療コストは50万ドル(約5600万円)と見られている。
技術開発でいずれはコストが下がるだろうが、昨今話題の抗がん剤「オプジーボ」やC型肝炎治療薬「ハーボニー」を超える値段の治療が出てくるのかもしれない。ゲノム編集の技術は驚くべきスピードで進歩している。〈どのように社会で受け入れるのか冷静に考え始める必要がある。つまり革新的な医療の社会導入モデルが必要〉なのである。
■判別不能な「遺伝子ドーピング」
ゲノム編集は現在の病気だけでなく、不妊治療(生殖補助医療)とも密接にかかわってくる。第3章は生殖補助医療にゲノム編集を用いることで起きる問題に焦点を当てる。
例えば、家系的に遺伝子疾患の子が生まれることがわかっているケース。生殖細胞の遺伝子改変で「発症を食い止める医療は許される」という賛成派がいる一方で、遺伝子の変異が修復できない場合のリスクを訴える反対派もいる(前述のように、がんになるケースも起こり得る)。
また、〈生殖細胞や受精卵に対するゲノム編集がもし開始された場合、自在な遺伝子改変技術を利用できると知った親の要望はますます拡大していく可能性がある〉。「背の高い子がいい」「青い目の子がいい」「筋肉質な子がいい」……等々、いわゆる「デザイナー・ベイビー」の世界だ。
ちなみに、〈世界アンチ・ドーピング機関(WADA)のルールでは、身体能力の向上を目的とした遺伝子ドーピングは禁止となっている〉が、著者によれば〈受精卵にゲノム編集を導入した場合、遺伝子改変によるものなのか、それとも突然変異なのか、区別することは困難である〉という。スポーツに熱心な親がこっそりやってしまえば、本人ですら自覚がないこともあるだろう。
本書に刺激を受けて、ゲノム編集をめぐる諸問題をあれこれ考えてはみたものの、技術、生命倫理、社会保障制度……と関係する分野があまりに多くて、すぐには結論が出そうもない。著者にならって多くの人と話をするところから始めてみたい。(鎌)
<書籍データ>
石井哲也著(イースト新書800円+税)