(1)上杉綱勝急死事件(1664年)
時は元禄14年(1701年)3月14日、江戸城松の廊下において、浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が吉良上野介義央(きらこうずのすけよしなか)に対して刃傷におよぶ。浅野内匠頭は、前例なしの即日切腹。そして、元禄15年(1702年)12月15日未明、大石内蔵助以下赤穂浪士47人が、本所(当時は江戸の外れ)の吉良邸に討ち入り、吉良義央の首を挙げる。翌年の元禄16年(1703年)2月4日、大石内蔵助ら赤穂浪士は全員切腹。
「忠臣蔵」とは、この約2年間にわたる一連の出来事なのだが、本当の真相を知るには、過去にさかのぼらねばならない。ところが、なぜか、あまり触れられない。たぶん、今いち証拠不十分ということなのだろう。
「忠臣蔵」事件より30余年前、米沢藩主上杉綱勝(つなかつ、1639〜64年)の急死事件があった。この事件を知れば、「忠臣蔵」とは、「表面的には赤穂浪士の吉良への仇討」なのだが、「真相は上杉の吉良への仇討」と推理せざるを得なくなる。唐突ながら、「忠臣蔵の真相は上杉にあり」なのだ。
米沢藩の上杉家とは、戦国の英雄・上杉謙信を祖とする。2代目の上杉景勝の時、太閤の命により越後から会津120万石へ転封され、関ヶ原の合戦で西軍に与したので、徳川家康によって、米沢30万石に減じられた。なお、上杉景勝を2代目と書いたが、これは、「上杉謙信を祖とした場合」の数え方で、「米沢藩主という地位」の数え方では、初代米沢藩主となる。
2代目米沢藩主の上杉定勝は、富子(吉良義央に嫁ぐ)、綱勝(3代目米沢藩主)らの子をもうけた。
3代目米沢藩主となった上杉綱勝の正室は、幕閣の最大実力者・保科正之の長女であった。ただし、彼女は2年後に亡くなった。継室(後妻)には公家の娘であった。だが、上杉綱勝には27歳になっても、子供が生まれる気配がない。その行状から、種なしの男色であったらしい。
となると、養子を迎えて、お家安泰を図らねばならない。養子候補として、2人の名前がのぼっていた。
ひとりは保科正之の3男で、これを擁立しようとしていたのは、上杉綱勝が可愛がった小姓出身の福王寺八弥ら新参の側近連中である。理由は、上杉家は何と言っても、関ヶ原で徳川に敵対した家である。お家安泰のためには、徳川と強固な縁を結ぶことが、最高の安全保障である。保科正之は、単なる幕府の実力者ではなく、3代将軍家光の弟である。
もうひとりは、吉良義央の長子・綱憲(つなのり)である。吉良義央の妻は、上杉綱勝の姉富子であるから、綱憲には2代目米沢藩主の上杉定勝の血が流れている。上杉定勝の側室・生善院は綱憲擁立を望み、譜代の重臣も綱憲を支持する雰囲気であった。
ただし、この対立は、まだ「お家騒動」といったレベルまでには至っていなかった。
ところが、寛文4年(1664年)閏5月1日、吉良義冬(よしふゆ)・義央の吉良親子が、先手必勝とばかり、大謀略を仕掛けた。義央は、この時24歳である。
どんな大謀略か?
この日、上杉綱勝は江戸城登城の務めを終えてから、鍛冶橋の吉良邸に立ち寄った。その時、吉良親子は、吉良流祝膳料理で歓待したが、上杉綱勝の膳に毒をもったのだ。ただし、証拠なしの推理である。
上杉綱勝は麻布の上杉邸へ戻るや、発病。そして1週間後に逝去した。上杉家の江戸家老千坂兵部は発病から死亡までの記録を残している。「忠臣蔵」で登場する大石内蔵助のライバルとして登場する千坂兵部は、その子である。
養子が決定していないのに、藩主が死亡すれば、お家断絶なのだが、慶安4年(1651年)に「大名・旗本の50歳未満の者に、末期養子を許す」ことが決定されていた。これは、社会不安の原因である浪人の大量発生を防止するため、保科正之の強い意志で成立した法令である。
お殿様の急死で上杉家の重臣達はテンヤワンヤとなった。そもそも毒殺なのかわからない。「毒殺に間違いなし。吉良邸へ即時討ち入りだ!」と叫ぶ家臣もいたが、状況証拠だけで、確たる証拠がない。
死亡原因の探求はさておいて、上杉藩重臣にとっては上杉家存続のためには「ごまかしの末期養子」をしなければならない。それをなすには、縁戚でもある幕閣の最大実力者保科正之にすがるしかない。保科は完璧な儒教的人格者である。自分がつくった「末期養子の許可制度」によって、我が子を上杉家の跡取りに据えるという、いかにも私利私欲丸出しの行動などとれるわけがない。保科には、幕府老中会議で「上杉綱勝殿をお見舞いに参った際、吉良家の男子を養子と定め、跡目をつがしめる旨、それがし確かに聞きおよんでおりもうす」と、綱憲が養子になることを認める残念無念の選択しかなかったのである。
(2)上杉には2人の殿様
かくして、上杉家は存続を認められた。しかし、石高は半減され15万石になった。しかも、上杉家は藩主(上杉綱憲)の実家たる吉良家へ毎年6000石を提供することになった。それだけでなく、吉良家の冠婚葬祭や臨時出費の度ごとに莫大な支出を余儀なくされた。吉良義央の善政とされている三河吉良の黄金堤や富好新田の建設費用も上杉家から支出された。
上杉家家臣の収入はことごとく半分以下に低下した。
そんなことで、綱勝急死の原因が毒殺か食中毒なのかなんてことは関係なく、結果論として、得をしたのは吉良家だけである。となると、上杉家家臣の感覚は次のようになった。
「仮に食中毒であったにしても、吉良の料理ミスである」
「故意でなくても重大過失致死だ!」
「少しは責任を感じるならば、上杉家の金をむしり取るな」
「上杉家が財政難に陥った原因は、とにかく吉良にあり」
上杉家中は、「吉良憎し」と「新藩主上杉綱憲への忠義」との悶々たる板挟みに陥ったのである。
そして、上杉家の窮状をみかねて、上杉家を離れる武士もいた。そのひとりが原七郎左衛門である。そして、その子が原惣右衛門(そうえもん)で、縁あって赤穂藩に仕えた。彼こそは、忠臣蔵のキーマンである。
原惣右衛門は足軽頭300石で、47士の中では大石内蔵助1500石、片岡源五右衛門350石に次ぐナンバー3の人物である。
「忠臣蔵」で、原惣右衛門が登場するのは次の場面である。
➀浅野内匠頭が刃傷におよんだ時、原惣右衛門は伝奏屋敷(勅使の宿泊所)にいた。刃傷で退去を命じられると、うろたえることなくテキパキと勅使接待のため持ち込んだ家財道具などを運び出した。
②赤穂への第2の急使(浅野内匠頭の切腹の知らせ)として、大石瀬左衛門(大石内蔵助の分家の侍、47士のひとり)とともに5日間で大役を果たす。
③「忠臣蔵物語」では、穏健派であったが堀部安兵衛ら急進派に説得されて、急進派大将になったとされる。
④討ち入り後、討入実況報告書を書く。
しかし、なんと言っても「原惣右衛門の母」伝説である。
75歳の母は、「亡君の仇討ちをしようとする者が、万一にも老いぼれた母に心を残すあまり、忠義を失うようなことがあれば、これ以上情けないことはない」と述べて、自害した。これは伝説であって、実際は討ち入り後も生きていた。しかし、母にとっては、30年前、上杉の殿は吉良に毒殺され、今度は吉良によって浅野の殿は切腹、もはや問答無用、「吉良に死を」である。
原惣右衛門は父母から30年前の急死事件を聞かされている。状況的に吉良の陰謀だ。また、米沢藩士の中に2人の従兄弟がいる。彼らから上杉藩の財政窮乏の実態を聞いている。おそらく従兄弟同士の気安さから、こんな会話でもしたのかも知れない。
「上杉家には2人の殿様がいて、それで出費が大変なのよ」
「2人とはおかしなことを申される。我ら武士にとって殿様はひとりに決まっている」
「それはそうだが、上杉家には第4代上杉綱憲様がおひとり。そして、綱憲様のご実家の吉良様も我らにしたらお殿様みたいなものよ。とにかく吉良様への支出が多くて……、やれ元旦の挨拶には黄金何枚、やれ雛祭りには黄金何枚……それが礼儀作法らしくて、もう大変よ」
「礼儀作法に大金が必要なのか」
「原は、上杉家を去って久しいからわからんだろうが、もう大変よ。それに比べて赤穂藩は、塩の収入があって景気がいいらしいな」
(3)上杉家老の策
さて、上杉家江戸家老、千坂兵部はひとり思案していた。物語では、千坂兵部であったり、色部又四郎であったりするが、どちらも実在の人物で迷ってしまうが、2人だと面倒なので、勝手ながら、千坂兵部にしておきます。
千坂兵部は、財政危機の上杉家をなんとかしなければ、と思案していた。原因は吉良であると明確だ。「吉良さえいなければなぁ……」と、ひとりで漠然と空想にふける毎日であった。
殿中松の廊下の刃傷事件を仕掛けたのは、実は、上杉家の千坂兵部と原惣右衛門の連携仕掛けだった、というのは、いささか想像力過多である。しかし、刃傷事件を聞いた千坂兵部は内心小躍りしたに違いない。喧嘩両成敗で吉良家取潰し、上杉家は吉良のくびきから解放される、そう思った。しかし、吉良家にはお咎めなし。
しかし、ここからが、千坂兵部の腕の見せ所である。あくまでも上杉は、殿様の関係で吉良の味方の立場を堅持する。しかし、赤穂浪士の討ち入りは成功してもらわねばならない。
千坂兵部にとって、原惣右衛門は願ってもない存在であった。原惣右衛門自身は意識しなくとも、事実上、原は千坂兵部と赤穂浪士のパイプ役になったのだ。
本所の吉良邸の見取り図、吉良の行動予定なんかは、千坂兵部によって間接的に筒抜けとなる。軍資金や浪士の生活費だって、間接的に援助した。むろん、赤穂浪士も世間も千坂兵部の仕掛けとは絶対にわからない。秘密工作には上杉謙信以来の「軒猿」(のきざる)と称する忍者が活躍したに違いない。その中には、堀部安兵衛に惚れてしまった女忍者もいたりして……。
千坂兵部の最後の腕の見せ所は、討ち入り直後の行動である。
上杉の上屋敷に「討ち入り、その数150人余」の注進が届いた。藩主上杉綱憲は、すぐさま吉良救援を命じ、自ら馬で出撃しようとしたが、千坂兵部は迷うことなく「殿は浅野の痩せ浪人と上杉15万石を引き換えになさるつもりか」と制止した。それでも、綱憲は救援に出発しようとしたが、上屋敷の戦闘可能要員は30〜40人に過ぎないとわかり、即時出撃をあきらめた。
注進の150人は千坂兵部の策である。千坂兵部は赤穂浪士の数は40〜50人とわかっていた。だから、上杉家の藩士(戦闘要員)を上屋敷、中屋敷、下屋敷などへ分散させ、上杉の兵力結集に時間がかかるように手配してあったのだ。
かくして、上杉家は吉良のくびきから脱したのである。
------------------------------------------------------------
太田哲二(おおたてつじ)
中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。