週刊文春のトップは『金正恩“斬首”秒読み「最悪シナリオ」』。アメリカの対北朝鮮軍事オプションが現実味を帯び始めた状況を、官邸サイドの情報から分析した記事だ。筆者は元TBS政治部記者のジャーナリスト山口敬之氏。このところ、森友騒動をめぐって時事通信の田崎史郎氏とともに、一貫して政権を擁護するスタンスで、情報番組に出ずっぱりだった人である。


 このような“御用記者”というイメージは、少し前までならジャーナリストとして命取り・不名誉極まりないことだったが、その感覚も今は昔、両氏はむしろ堂々と“官邸との蜜月”を誇示しているようにさえ見える。


 個人的には、ネガティブな印象しか持てないが、あえて2人を擁護するならば、記者という職業にはどうしても“重要な情報源”と癒着しがちな面がある。記者がネタ元に“食い込む”こと、その能力は組織内で一般には力量として称えられる。


 ただ、こうした肉薄にも2種類ある。たとえば社会部の事件記者が警察の捜査幹部に“食い込む”のは、相手が立場上重要な情報を持っているからだ。霞が関の官僚との関係もそうだろう。これもこれで問題はあり、人間関係のしがらみは時に筆を鈍らせる。事件記者にとって警察の不祥事を暴くことが難しくなるのはそのためだ。


 社会部記者の場合、こうしたジレンマは、あくまでもイレギュラーな頻度に留まるが、政治部の仕事では、この問題が常態化する。相手は常にニュースの当事者でもあるからだ。肉薄によるメリット・デメリットを天秤にかけた場合、“社会部的人間関係”より後者の比率が圧倒的に大きくなる。


 その意味で山口氏は今回、政権の醜聞の“火消し”などという不名誉な役周りでなく、政権中枢が握る外交情報、という“記者本来の目的”を追う形になったのだが、正直、文春レポートのインパクトはさほどではなかった。政権に恩を売った割には、“実入り”は少ない。昭和期に遡れば、中国の文革報道で、朝日新聞の特派員が中国政府との関係維持を優先し、重要な報道を差し控えて叩かれたことがあった。結局のところ、“権力への肉薄”は、メリットよりデメリットのほうがどうしても大きくなってしまうものなのだと思う。


 サンデー毎日にこのところ頻繁に記事が載る伊藤智永氏(毎日新聞編集委員)の右傾化関連の記事が毎回、深く、面白い。今週は『「森友学園」はこうして生まれた 安倍政治の「教育」の“根源”に迫る!』という内容だ。今回の騒ぎを経て、森友学園は、右翼的教育からの決別を表明した。しかし伊藤氏は、左右どちらからのものであれ、同調圧力による“転向”という点で、「苦い抵抗を覚えた」と打ち明ける。そして、この声明の背後に文筆家・菅野完氏による籠池家へのアドバイスがあったかもしれない、と推察する。


 そのうえで、氏は80年代に始まる教育の右傾化全般に議論を拡大し、これを「復古主義」「戦前回帰」とする批判は的外れで、その最大の要因は、企業戦士を求める経済界のニーズにこそある、と指摘する。そしてこの右傾化に、思想的な軸はとくになく、内容は「行きあたりばったり」だったと振り返る。実はこの見方には、菅野氏が著書『日本会議の研究』の中で、日本会議には“反左翼・反リベラル”以外、思想らしい思想はない、と指摘した分析とも重なり合う面がある。論考は次号にも続くと予告されており、興味深い。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを 広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。