前回は、総合診療専門医を軸に、新専門医制度の政策側の狙いについて、米国型の家庭医が基本となっていることが濃厚に理解できること、それらを規範にして設立された、いくつかのプライマリ・ケア関連の学会の基本構造を肯定したまま、学会主導の機構が作られた経緯が、一部医療関係者の警戒感を強めたのは当然のようにみえる、ことを示した。


 医学会と日本医師会の対立も見え始めた。主に開業医団体サイドから発信されている「厚生労働省が裏で絵を描いている」という憶測が、リアルに感じられるのは、プライマリ・ケア関連の学会の集約動向でも見えるからである。


 基本的に、総合診療専門医の制度化は、実は相当に政治的な戦略が背景にあるということを念頭に入れなければならないという推論は当然のように思えるのである。


 しかし、総合診療専門医の報酬の包括化、人頭払い方式への展開などは、新専門医制度を下敷きにした制度そのもの浸透や定着後に着手されるとみるべきだ。実は、総合診療専門医に関する危惧の前で、眼前の地域医療への影響に対する危惧も小さくはない。今回はそうした危惧をいくつか示しながら、この連載を終えたい。


●国民、患者をなめているかも


 新専門医制度が具体化に移された基本背景にあるのは、いわずもがなだが13年の「専門医のあり方に関する検討会報告書」である。報告書は第三者機関の設立の必要に関して「専門医制度を持つ学会が乱立して、制度の統一性、専門医の質の担保に懸念を生じる専門医制度も出現するようになった結果、現在の学会主導の専門医制度は患者の受診行動に必ずしも有用な制度になっていないため、質が担保された専門医を学会から独立した中立的な第三者機関で認定する新たな仕組みが必要である」とある。


 専門医の質の担保に懸念を生じる専門医制度とは、学会間で認定やそれにまつわる評価体系がバラついているということを言いたいのだろうし、実質的にはそれを否定できる状況ではないことは当然だ。ただ、「現在の学会主導の専門医制度は患者の受診行動に必ずしも有用な制度になっていない」との指摘は、わかった風にみせるが、実はよく考えると何を言いたいのかが伝わってこない。そこには「患者の受診行動」の現状の何が問題で、もっと突っ込めば、現在の患者の受診行動の何がよくないのかの具体性がまるでみえない。システムとして、患者の受診行動のどこに欠陥があるのだろうか。第一、専門医の質の向上をめざすことが、患者の受診行動の有用性を高めるとの因果関係が鮮明ではない。


 患者の大病院志向という時代はあったが、大病院という施設規模に対する抽象的な信頼感がその根底だったと筆者は考える。大病院であれば、高度先進的な検査・診断機器が存在し、医師数も多い。あるいは名医がいると漠然とした期待感もあっただろう。名医というのは一般市民、患者目線では「専門医」のことだという反論が聞こえそうだが、市民側が専門医を名医と思っているとは思えない。専門医とは、患者に平気で専門用語をまくし立て、何が何だかわからないうちに治療方針を決めてしまうという印象も強いはずだ。


 翻って現在の地域の開業医への印象は一般市民、患者にはかなり大きく変容しつつあるという実態がある。病床の削減、在宅医療という流れの中で、日本国民の大半は賢明でかつ従順で、診療所での受診にあまり抵抗は感じなくなっている。慢性疾患と急性期疾患の違いの認識もすでに行き渡っている。診療所医師の多くも診察の意識を、「問診」スタイルから、「傾聴」へと変え始めている。


 相変わらず日本の患者は大病院志向で、専門医を有難がっていると信じきっているのは、医療行政関係者と一部の学会関係者だけになっているのではあるまいか。このギャップが、実は新専門医制度が関心を持たれない、意味があるとは思われない「世論」の反応になっている。


 こうした指摘は、医師の側からも示されている。安城更生病院副院長の安藤哲朗氏は、医療ガバナンス学会のウェブ上で、「患者の受診行動と専門医制度の関わりについては、たとえ新制度が始まったとしても限定的であると私は考える。日本にはかかりつけ医という文化があり、かかりつけ医が、自分の信頼する医師に患者を紹介するシステムが広く行き渡っている。その場合、かかりつけ医からみて、紹介先の医師の専門医資格はほとんど関係ない。地理的条件に加えて、個人的に信頼していること、あるいはこれまでの紹介状に対する回答書、さらには学会発表や論文などを考慮して紹介することが多いと思われる。救急疾患の場合は、近くの救急病院に行くか搬送される。それも専門医資格の有無は全く関係ない」としている。そのうえ、新専門医制度は「管理」が重点で、(よい専門的な)医師を育成することとどうつながるのか理解できないと批判を加えている。


 こうした批判を筆者なりにみれば、新制度が医師の技量評価に関する管理、地域医師数の管理、施設の管理という状態づくりをめざしていると、一部の医師サイドにも見えているということである。若手医師たちが懸念する大学医局の「復権」は、その管理の大きな力として大学が果たすかもしれないという想定に起因している。


 この連載では、とくに地域医師数の管理という側面を重視してきた。繰り返しになるが、やはり、それが地域医師の報酬の包括化につながり、人頭割り、あるいは英米型GP制度への発展へ、「管理」を通じて地ならしをしていくという観測が捨てきれない。


●医師会に期待するしかない


 新専門医制度に疑念を表明する医師サイドには、英米型GP制度への導入という意識はまだ小さい。現実には、新専門医制度の施行によってとりあえず心配なわが身や、すでに診療の現場である地域医療への直接的な不安が大きいからであろう。それはそれで、重視されなければならない。 多くのとくに若い医師から出されている危惧は、国民のために、どのような専門医がどのくらいの人数必要か、また、その質をどのように確保するかが十分検討されていない、といった本質的な指摘もあるが、基本の19領域、サブスペシャリティとの関係の不十分な説明、女性医師のキャリア形成への配慮不足、大学医局の復権、短期ローテートの重視が招く医療安全の課題、専攻医の身分保障、専門医機構への不信――などに集約される。


 これらの危惧や不安が一概に否定されるべきでないことは当然だが、筆者のような一般人からみると、患者に対する影響についての関心は十分ではないように思える。 新専門医制度に対する批判は、その戦略として国民にどのような影響が生じるかを広く知らしめることではないだろうか。今のところ、機構側は一般市民を意識した説明や記者会見などの行動が少ない。基本的に官僚主導の、大きな医療政策の変化につながる政策についてのメディアの関心も希薄だ。たぶん、問題が生じてからメディアは批判に転じるだろうが、それでは遅い。この問題に関しては、やはり医師会に期待するしかない、ように思える。医師会は、今こそ国民を信頼し、医療アクセスの自由を国民の側から守る防波堤意識が必要ではないかと考える。


 結論的にいえば、新専門医制度は来年とは言わず、その施行をさらに先延ばしし、議論を深めるべきテーマである。まだ立ち止まっていいはずだ。(幸)