(1)日本史3大悪女 誰が言い出したか不明ながら、日本史3大悪女とは、一般的には、北条政子、日野富子、淀君の3人を言うようだ。おそらく、女性蔑視の似非儒教道徳の産物であろう。北条政子の政治的手腕があったればこそ、鎌倉武家政権は存続できた。北条政子を悪女とみなす者は少数だと思う。淀君は、単に時代の趨勢を理解できなかった悲劇であって、「愚」ではあっても「悪」ではないような感じがする。ところが、日野富子(1440~1496年)に関しては、「悪女」の評価が圧倒的であるようだ。


 なお、春日局を3大悪女にあげる人もいるようだが、少々格下の感じがする。


 また、井上内親王(717~775年)は光仁天皇の皇后であるが、江戸時代までは悪女の代表格であった。今日では、陰謀の犠牲になった悲劇の女性という評価が強いようだ。


 ついでながら、世界史3大悪女という言葉はないようです。もちろん、政治権力でもってとんでもない無茶をやらかした女性はいたが、古今東西、圧倒的に男性優位社会にあっては、珍しい存在でしかない。ヨーロッパでは、カトリーヌ・ド・メディチ(仏王妃、1519~1589年)、エカテリーナ2世(ロシア女帝、1729~1796年)の名が浮かぶが、悪女というよりは「凄腕権力者」という感じがする。


 中国史3大悪女は、しばしば文章に登場している。呂后、則天武后、西太后を言うようだ。身の毛もよだつ恐怖の処刑で悪名を轟かしているが、最近は、則天武后と西太后の再評価が登場している。


 面白いのが朝鮮王朝史3大悪女である。身分格差を乗り越えて、美貌と頭脳で王の寵愛を獲得し政治実権を掌握するのである。


 張緑水(チャン・ノクス、?~1506年)は、妓生出身で後宮に入り、そのセックステクニックでもって王の寵愛を独占し、王と2人で横暴贅沢三昧。 鄭蘭貞(チョン・ナンジョン、?~1565年)は、文定幼王の生母である文定王后と2人で国の実権を掌握し「女人天下」と言われた。


 張禧嬪(チャン・ヒビン、1659~1701年)は賤民出身ながら王妃まで上り詰めた。 3人とも韓国歴史ドラマになっている。


(2)女人政治➀日野家とは


 日野家は貴族の家系で、藤原北家に属している。公家の家格は、摂関家を筆頭に、清華家(太政大臣になれる家)、大臣家、羽林家(大納言になれる家)、名家(大納言になれるが羽林家の下)、半家(最下位の公家)に分けられているが、日野家は「名家」の家格である。日常使用されている「名家」ではなく、公家の家格の「名家」である。したがって、それほど目立つ家柄ではなかった。


 しかし、建武の新政、南北朝時代に足利尊氏と結びつき、北朝・足利幕府から重要視されるようになった。南北朝時代にあっては公家全体が斜陽時代に入り、公家の分家(分家するには、それなりに出費がかさむ)が極めて低調だったにもかかわらず、日野家は裏松・烏丸・日野西など多くの分家をつくった。日野家は実力・財力ある公家に成長したのだ。 室町幕府3代将軍足利義満の正室が日野流(日野家及び分家)から迎えられて以後、足利将軍の正室は日野流(特に裏松家)から出すこととされた。事実、4代足利義持、6代足利義教、8代足利義政、9代足利義尚、11代足利義澄の正室は日野流である。


 そして、8代足利義政(1436~1490年、将軍在職1449~1473年)の正室が、日野富子である。


②6代将軍足利義教のこと


 8代将軍足利義政の父は6代将軍足利義教である。母は日野重子である。 6代将軍足利義教に関して一言。昨今、織田信長を「魔王」と称するのが流行のようだが、6代将軍足利義教は織田信長を数段超える魔王であった。足利義教について、同時代の人は日記に「万人恐怖、言フ莫レ、言フ莫レ」と記した。絶対権力を樹立したのであるが、軽鴨見物の宴で暗殺された。嘉吉の乱(1441年)という。


 7代将軍には義政の兄の足利義勝(1434~1443年)が継いだが、9歳で病死した。そして、8代将軍に義政が就任した。


③側近政治は女人政治へ


 足利幕府当初の政治意思決定システムは、有力守護大名の「重臣会議」であった。メンバーは三管領(細川・斯波・畠山)と五職家(山名・京極・一色・赤松・土岐)の八守護である。高校の教科書などでは、三管領四職(土岐がない)としている。おそらく当時は奇数の「五」は嫌われていて、「五」でも「四」と読んでいたのではなかろうか。三管領五職のシステムは義教の「万人恐怖政治」と「嘉吉の乱」によって勢力均衡が崩れ、機能しなくなった。それに、7代・8代と少年将軍が続いてしまった。


 幕府の実権は、同時代の人物の日記には「政は三魔より出づ」と記されている。つまり、「三魔」なる将軍側近が専横した。義政の乳母である今参局(御今→おいま)、義政の育ての親といえる烏丸資任(→からすま(る))、義政の側近である有馬持家(→ありま)の3人が語呂合わせで「三魔」とされた。


「三魔」以上に、幕政に介入したのが、義政の母である日野重子(1411~1463年)である。そして、乳母の今参局と生母の日野重子は、ことごとく対立した。日野富子は、日野重子の兄の孫である。幕政は「側近政治」から「(乳母と生母の)女人政治」へ移行していった。これは、日野富子の女人政治の序曲であった。


④女性への偏見は少なかった


 日本列島においては、古代・中世においては女性への偏見は少なかったようだ。女性への偏見が拡大したのは江戸時代で、そして極大化したのは明治に入ってからのことである。


 鎌倉時代の史家・慈円は『愚管抄』の中で、女人政治を古代女帝より考察し「女人入眼の日本国、いよいよまこと也」と積極的に評価している。当時の北条政子、藤原兼子(後鳥羽天皇の乳母)を念頭に入れての評価である。政治介入する女性を悪女と決めつける発想はゼロであった。


 また、応仁の乱を生きた摂関家の一条兼良は『樵談治要』(しょうだんちよう)の中で、天照大神、神功皇后から説きおこし日本は「姫氏国」と断言し、「されば、男女によらず天下の道理に暗からずば、政道の事、補佐の力を合わせ行ない事、さらに煩いあるべからず」と政治参加への男女同権論を述べている。今日のように、今参局、日野重子、日野富子を悪女とみなしていないのである。当時のハイトップの学者は、明治時代の学者よりもリベラルだった。


(3)日野富子の登場➀今参局の切腹


 1455年、日野富子は16歳で足利義政(20歳)の正室となった。若き義政は、将軍職の権威回復に努めたが、日野家、有力守護大名、三魔(とりわけ今参局)らの実力と権謀術数の中にあっては、3代将軍義満、6代将軍義教のような絶対権力を確立することは不可能だった。


 前述したように、幕府の主導権を巡って、乳母の今参局と生母の日野重子は対立していた。正室の富子が男子を出産すれば、幕府の主導権は日野重子・日野富子の勝ちとなる。今参局は、義政好みの美女を側女として送り込む。今参局が送り込んだ側女が男子を出産すれば今参局の勝ちとなる。どちらが先に男子を出産するか、天下分け目の出産合戦である。今参局は、乳母としてお乳をあげていただけではない。セックスのお勉強も乳母が担当するのである。だから、義政の性くせも、好みの女性タイプも熟知している。しかも、1人じゃなくて4人の美女を送り込んだ。


 ベテラン今参局とお嬢ちゃま富子の女の戦いは、どうなったか。


 最初の出産は、今参局の側女であった。男子無事出産を祈ったが、残念ながら女子であった。


 次に、富子が第1子を産んだ(1459年)。男子だったが、その日のうちに死亡した。反今参局グループ(黒幕は日野重子か)は、死亡原因を今参局の呪術によるものと訴えた。結果は、今参局は琵琶湖沖島(平成25年の人口330人)への流罪となった。小島と言っても、琵琶湖の湖上航路の要路の島であり、何といっても京都から至近距離である。刑罰としては極めて軽いものであった。義政はほとぼりが冷めたら、今参局を京都へ呼び戻すつもりだった。反今参局グループは、彼女の復帰を恐れ、島への護送途中に暗殺を企てた。暗殺者の登場によって、今参局は、「もはやこれまで」と暗殺者をにらみつけて自ら切腹し、はらわたを取り出し投げつけた。切腹とは、「なんらやましいものは腹にない。私は無実だ」という最後の叫びなのだ。すごいですねー、女傑ですねー。


 この陰謀事件に関連して、今参局が送り込んだ側室4人は屋敷から追放された。


 ②やっと男子誕生したが


 出産競争のライバルがなくなったので、この勝負、日野富子の楽勝と思いきや、世の中、そうは問屋が卸さない。義政はセックスの先生がいなくなったためか、セックス回数が激減したようだ。だから、当然、富子は妊娠しない。


 でも幕府内では富子グループの力は大きくなっていく。


 目を外に転じると、世の中は飢饉と災害の連続で、1461年の寛正の大飢饉では京の賀茂川は餓死者の死骸で流れが止まるほどであった。この年の最初の2ヵ月だけで8万2000人の死者を数えた。


 しかし、将軍義政は、猿楽、酒宴、日本庭園の造営、花の御所の改築に明け暮れた。御花園天皇(1419~1471年、在位1428~1464年)の漢詩による注意も無視したというエピソードすらある。


 1463年、生母日野重子が亡くなった。


 1464年、日野富子との間に子供が誕生しないため、実弟の足利義視(1439~1491年)を次期将軍に決定した。


 1465年、コウノトリは気まぐれで、日野富子に男子誕生。足利義尚(1465~1489年)である。富子は我が子を何が何でも将軍にさせたい。


 ということで、将軍後継者問題が発生し、応仁の乱(1467~1477年)となる。


(4)応仁の乱とは


 日本史の時代区分を2つに分けるとすると、応仁の乱で区切るという説を読んだことがある。11年間の内乱で、日本人の精神構造が変わってしまったという。なにかしら、極めて奥深い流れが変化したのだろう。


 奥底の深いところの大変化、いくつもの複雑な原因、そして極めて多くの人物が登場して、もう誰が誰やら、何が何だか、混乱を来す。だから、読み物、ドラマでは、「なんか~、ごちゃごちゃして、ようわからん」となってしまう。約20年前、NHKの大河ドラマ『花の乱』が放送された。日野富子の生涯と応仁の乱を内容としたものであった。大河ドラマ史上最低の視聴率となった。その原因は、「ごちゃごちゃ性」にあると想像する。「ごちゃごちゃ性」のため、上手な脚本ができなかったのだろう。なお、その後、『平清盛』が最低記録を更新した。


 とまぁ、長々と弁解したうえで、応仁の乱の一番短い解説を記します。


 応仁元年~文明9年(1467~1477年)、11年間に及ぶ内乱。㋑畠山・斯波両家の家督争いに、㋺巨大守護大名の細川勝元と山名宗全の勢力争いが絡み、㋩さらに将軍後継者問題が加わった。当初は京都の戦いであったが、次第にエスカレートして全国の大名・小名が、細川勝元(東軍)・山名宗全(西軍)の一方に加わり、全国に拡大した。京都は、戦乱のため灰燼に帰した。


 これだけだと、いかにも手抜き工事みたいなので、もう少しだけ説明します。


➀守護大名の中でも、山名氏は7ヵ国、細川氏は8ヵ国を有する巨大守護に成長し、幕政の主導権を争う体制となっていた。


②すでに、山城国守護・畠山氏の内紛・合戦が始まっていた。それに、山名、細川が加担する。


③関東では、鎌倉公方絡みで合戦が起き、それに斯波氏のお家騒動が加わり複雑化し、それに山名、細川が加担する。


④日野富子は、わが子義尚の将軍後継を山名宗全に協力依頼したとされるが、怪しい話だ。


⑤1466年、山名党畠山軍が上洛する。義政は山名党畠山に完全有利な裁定をなしたため、細川党畠山はヤケクソ気味で合戦の布陣を敷いたものの一撃で敗退する。時は、1467年(応仁元年)1月18日、ついに11年に及ぶ大乱の幕が切って落とされた。


⑥緒戦の山名党勝利で、山名宗全は連日酒宴。その隙に、細川党は「花の御所」(室町第)を占拠し優位に立つ。(将軍義政、日野富子も細川サイドに立つ)そして、細川党(東軍)と山名党(西軍)の本格的市街戦が展開される。


⑦守勢の山名党は西国の大守護・大内氏の上洛を求め、大内氏は500艘の大船団で入京。その結果、細川党・東軍は京から追い払われる。


⑧1467年の1月から9月までに、京の大部分が灰となった。 汝(なれ)や知る 都は野辺の 夕雲雀(ゆうひばり) 上(あが)るを見ても 落つる涙は 『応仁記』


⑨山名党は京をほぼ支配したものの名分がない。そのため、1468年、山名宗全は足利義視を将軍格で西軍に迎え入れる(西幕府形成)。裏を返せば、必然的に富子は東軍に傾斜する。そして、細川党=東軍=幕府が次第に優位に立っていく。また、主戦場は地方へ移っていく。


⑩1473年、山名宗全、細川勝元が相次いで死亡。厭戦気分が拡大し、和平の動きが出る。この年の12月、8代将軍足利義政は足利義尚(1465~1489年、在職1473~1489年)へ将軍職を譲る。9代将軍義尚は若干9歳である。


⑪西軍から東軍へ寝返る者、さっさと京から撤収する者が出てきた。西軍の最大軍事勢力である大内氏も1477年11月に撤収したことにより、西軍は事実上解体された。その9日後、幕府によって「天下静謐(せいひつ)」の祝宴が催され、応仁の乱は終結した。 応仁の乱は、京の都に、東軍16万人、西軍11万人の兵士が集結し、11年間も戦争した。次第に惰性的な争いとなり、勝負のつかないまま終わった。有力武将が戦死することもなかった。戦後、罪に問われる大名もいなかった。西軍最大勢力大内氏ですら日野富子に賄賂を贈り、守護職を安堵されている。


 いったい応仁の乱とは何だったのか。 最大公約数的に言えば、社会や身分や慣習などの流動化を加速させた、ということらしい。


(5)御台一天御計い


 日野富子が我が子義尚を将軍職に就かせようと画策するのは、当たり前の常識で、神代の大昔から後継権力者の地位を巡って血みどろの親子争い、兄弟争い……、『古事記』、『日本書記』を読むと、権力争奪のストーリーばかりである。日本に限らず、国家権力の推移をテーマとする歴史は、そんなものだ。


➀だから日野富子の「我が子を将軍職へ」の行動は、至極当然のことである。たまたま、応仁の乱の引き金になってしまった。


②夫の8代将軍足利義政は、ドロドロの現実政治への関心を次第に喪失していく。自分の意思どおりに事が動かないから、やる気が薄れるのであろう。ただし、どうやら真面目人間のようで将軍の公式スケジュールは律儀にこなしていた。 完全に政治無関心になるならば、それはそれで結構なのだが、そうでもない。無関心になったり、やる気をみせたり、そんな感じである。


③富子は応仁の乱(1467~1477年)の全期間、熱意の濃淡はあっても東軍側(細川軍)であった。しかし、そんなことは関係なく、東西両軍の大名へ金銭貸付をしていた。また、米の投機も行って莫大な資産を築いた。言うまでもないが、賄賂大歓迎である。


④戦乱のため後土御門天皇(1442~1500年、在位1464~1500年)は花の御所(室町御所)へ避難していた。約10年間避難していた。避難生活中の1471年、後土御門天皇と富子との不倫スキャンダルが広まった。義政と富子の仲が決定的に悪化しているから、まことしやかに噂は広まった。事実は、富子に仕える上臈の花山院兼子との密通で、皇女を出産した。本来ならば厳罰なのだが身分を忖度して天皇も兼子も不問とされた。


⑤1473年、山名宗全、細川勝元が相次いで死亡。この年の12月、9歳の義尚が9代将軍に就任した。就任直後の幕府実権は義政・富子にあった。しかし、1475年、義政は小川殿に移り住んだ。小川殿とは、足利将軍家の邸宅のひとつで上京区にあった。義政は富子と別居する道を選んだ。義政は花の御所を去ったのだ。その結果、日野富子が幕府の実権を一手に握った。それは「御台一天御計い」と言われた。 富子に八朔の贈り物を届ける行列は1~2町にも達した。八朔とは旧暦8月1日で、恩人に感謝の贈り物をする日である。早稲の穂が実る⇒田の実の節句⇒「田の実」=「たのみ」=「頼み」ということで、室町幕府、江戸幕府では公式儀式が行われた。なお、ハッサク(日本原産のみかん)は8月1日頃に採れるので、この名前がついた。


⑥1476年(応仁の乱終結の前年)、花の御所(室町御所)が戦火で焼失する。花の御所を焼け出された富子と義尚は、義政が住む小川殿へ移り住む。義政は富子のために建物を造営したが、義政は富子と同じ敷地にいることを嫌がった。そのため、1481年、義政は富子から逃れるため長谷の山荘に移り住み、翌年の1482年には東山山荘の建築に取り掛かる。1483年には本格的に移り住み義政は「東山殿」と呼ばれることになった。


⑦東山山荘に関して。俗説では、義政は銀箔を貼ることを思いついたが財政難のため断念したことになっているが、事実は、そもそも銀箔を貼る計画はなかった。この頃の幕府財政は、3代義満、6代義教の頃に比べれば、やや劣るかもしれないが、勘合(日明)貿易の復活などでまだまだ余裕・安定の財政状況であった。


 なお、ここを「金閣寺」と対比して「銀閣寺」と称するようになったのは江戸時代になってからのことである。


 文化史では、この頃を東山文化として高く評価している。3代将軍義満の華やかな北山文化に対して、東山文化はわび・さびに重心がある。わび・さびを少しは理解する人であれば、東山山荘を「銀閣寺」と言うわけがないのだが……。義政は、政治は落第点だが文化芸術は一流、ということかな。


⑧鎌倉時代から関銭(通行料)目的の関所が各地に設けられるようになった。民衆は廃止のため一揆を起こしたり、破壊したりした。各地で開設→廃止→開設→廃止が繰り返されていた。京都七口では1459年に伊勢神宮再建の名目で開設されたことがあった。


 1478年1月、今度は内裏再建を名目に関所が設けられた。ところが、実際は富子の収入になっていることがバレて、民衆の怒りが爆発した。同年12月、民衆の怒りは山城土一揆となり、幕府に京都七口関所廃止を訴えた。しかし、幕府(富子)は無視した。民衆の積もり積もった怒りは、1480年の再度の山城土一揆となった。今度は、連日にわたって、酒屋土倉を襲い、そして関所を打ち壊した。民衆だけでなく、公家も怒った。富子は私利私欲のため「内裏再建」という虚偽をなしたから、公家が怒るのは道理がある。


 なお、有名な山城国一揆とは直接関係はない。時期が近いので間接的には関連があるかも知れない。山城国一揆は1485~1493年の8年間、守護畠山氏を排除して国人・農民が協力して自治を行った。


⑨1483年、9代将軍義尚は歳を重ねるにつれて生母富子を疎んじるようになり、富子から離れ伊勢貞宗邸に移り住んだ。富子の将軍教育に嫌気がさしたのかも知れない。将軍としての見栄えのよい態度振る舞い、さりながら実権は母富子、これでは嫌気も起こる。単なる反抗期かも知れない。


 なお、伊勢貞宗(1444~1509年)は義尚の養育係で、義尚が将軍に就任すると幕政全般を統括していた。温厚な人柄で、幕府の諸難題を解決し、誰からも信頼される人物であったようだ。むろん、富子との関係も良好だった。


 将軍と疎遠になったため富子の権力はやや縮小したようだ。大げさに権力消滅なんて言う人もいるが、我が子の反抗期に手を焼いている母親の姿くらいに思ったほうがよい。それにしても我が子義尚を将軍にするため大変な苦労をしたのに……。富子の心情や如何に。


⑩ところが、1489年、9代将軍義尚が25歳で死亡した。疎遠になっても我が子、涙したであろう。しかし、富子は権力の魔力を味わった女である。次期将軍擁立に動き出した。


 富子は義政と談合した。仲たがい別居夫婦でも、大人なのである。かつてのライバル義視と富子の妹の間に生まれた足利義材(義材→義尹→義稙=1466~1523年、在職1490~1495年、1508~1522年)を10代将軍に据えることに合意した。そして、1490年、義政死去。同年、足利義材が10代将軍に就任した。


 ⑪10代将軍義材の後見人は義視である。後見人義視と権力者富子の紛争が勃発した。義視は富子が住む小川殿を破壊した。1491年、義視が死去。


 ⑫今度は、10代将軍義材と富子が敵対関係に入った。


 1493年、富子は細川政元と組んでクーデターを起こした。義材を廃して、11代将軍に義政の甥である足利義澄(1481~1511年、在任1495~1508年)を就けた(明応の政変)。そして、1496年、57歳で日野富子は死亡した。


 まぁ、何と申しましょうか。将軍を3人もつくりあげたキングメーカー。約20年間、女人政治を維持した凄い女性。貨幣経済の意義を本能的に熟知する先駆的経済人。無能な夫に代わって仕事バリバリの有能妻。夫には別居され、子には反抗され、なんと気の毒な女性だことよ。単なるゼニゲバ。あれやこれや……。しかし、やはり「諸行無常の響きあり」ということかな……。


————————————————————

太田哲二(おおたてつじ)

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。