「医療経済」という言葉が現実にある以上、医療も消費の実体のひとつであることは間違いない。しかし、医療は「消費」というカテゴリーの中で、一般に消費経済のひとつだとの認識が消費者に実感されているのだろうか、という疑問はかなり前からのテーマかもしれない。人は食べないと生きてはいけないが、医療もそれがなくては生きていけないという基本、本能として機能しているのだろうか。


 病気と健康は表裏のようにみえるが、食べることが日常の消費行為につながっているのに対し、「健康」が医療を消費しているという認識はおそらく薄い。


 人の人間が健康だったり、病気だったりする生活循環の中で、日常に消費すると考え得るだろうことは「病気」のときである。ライフサイクルの中で、病気も当然のことと認識するから、人生の中では医療を消費するという観点に立てるが、一般的にはその消費の発生は特別であり、歓迎されざるものであり、できれば費いたくない。


 ところが最近になって、医療は奇妙なことにそれがなくてはならない消費の対象になり始めている。それがなくては生きていいけない、また費用の大きさ、つまり消費係数が大きいほど享受できる満足度は高いという、一般消費の原則と同様の認識も固着化し始めている。実際には、医療の場合、費用が高ければアウトカムも高品質が保証されているとは言い難い。食べ物の場合はどうか。個々の満足度には多少の差があるとはいえ、美味しいものは高価格でも大きな満足度落差はまずない。


 医療が大量に消費される時代は、食べ物のように本来的にその落差が客観評価されていればまだわかるが、現実にはアウトカムに関しては、落差の大きさが放置されたまま、その時代に突入しているように思える。だいたい、食べ物の場合は生きているから食べる、生きるために食べるという本質的なロジックがある。つまり、死んでしまえば食べる必要はない。また食べられなければ死んでしまうことになるが、医療は実は死をも消費のカテゴリーに含ませている。食べられないのに生きていける、それを消費という経済システムの中に組み込ませていることに、異論が弱いままで次の世代へとつないでいくことが本当に間違いはないのだろうか。


●拡大だけでなく縮小させる科学はないのか


 このように大上段に新しい連載の序章に入っているわけだが、実は本論の目的は医療経済自体を論じることではない。また、その資格も資質もない。ただ、「医療は医学の社会的適応である」とは誰が言ったのかは知らないが、一見、もっともそうにみえるこの言葉が本当なのかどうか。また、医学が進歩すればするほど消費される「医療」の総体やスケールが大きくなるのはなぜか。「医学の進歩」とは、医療の総体を縮小させる道筋を考える科学ではないのか、などという極めて素人的な印象を基底において、素朴な疑問を羅列してみたいという誘惑にかられていることを率直に示しておく。あくまでも、「どうして?」という疑問が優先される。断定的な表現があったとしても、それもまた疑問のひとつであるという卑怯な理由は明らかにしておきたい。


 先述した「医学の進歩」は医療の総体を縮小させる科学の目標とはなっていないように思えることを述べた。医学が進み、人々の医療へのアクセスもかなり簡単になった。人々は健康になった、らしい。日本人の平均寿命は将来は男女ともに90歳を超えるとも推定されている。しかし、健康、あるいは長寿は科学としての医学の一端の効用かも知れないが、医療費という消費の実相からみれば膨れ上がる一方だ。経済からみれば人々が豊かになり、あるいはコンビニエンスになる中で、健康という消費は一方的にその費用を拡大するのみである。費用を縮小させる、あるいは便利になる、もっと具体的にいえば苦痛のない世界を作り出す、という科学ではないと、今のところは了解されているようにみえてしまう。


 もっと大きな疑問は、健康を目標とする科学であるのに、なぜ大量の患者が生み出されているのか。病気を作り出すのが医学なのかという疑いすら芽生える。これは筆者だけではなく、かなりの人々が気付き始めていることではないだろうか。「患者に寄り添う」のは医療担当者の常套句だが、医学は決して患者に寄り添ってなどいない。科学としては、相変わらず産業革命時の大量消費の目的が幅を利かしている。例えば、誤解を恐れずに言ってしまえば「緩和医療」はなぜ大きな費用を要するのか。医学というより社会科学的なアプローチが本質と見えるのに、医学が関与すると大きなコストが要求される。死にゆく人間すらもマーケット分野では大量消費のツールかもしれない。


●医学の近代化に哲学は必要なかった


「医療の原点」を著した中川米造は同書で以下のように述べている。「医学の論理の底には物質の科学として医学を構築しようとする哲学がある。といって医学者は誰でもが哲学を構築できるほど緻密な頭脳は持っていないし、むしろ、そのことを逆手にとって、医学の近代化には哲学は有害無益であると胸を張る傾向すらみられる」として、デカルトの二元論を医科学の哲学に持ち込んだ経緯が語られている。いわゆる「機械論」が、動物に対する実験科学の興隆に緩みを与えたのであり、デカルトの方法序説は「機械論をもっとも厳密にとらえたという意味で、その後の生理学や医学に大きな励ましとなった」と中川は述べている。


 その上で、中川はいわゆるデカルト的合理主義、つまり客観化の可能な延長の世界のみに目を向け、自覚的な主観や精神世界を無視することは、デカルトの真意ではなかったかもしれないが、「それをそのように受け取り、それ盾として使ったのは19世紀の産業社会の哲学として役に立ったからだろう」との推量を明らかにする。


 そして、「そうした合理主義が、地球環境を破壊し、人体実験を正当化し、医療倫理を見失わせたばかりでなく、医療本来の目的である、病者へのケアをないがしろにし、さらに病人の数の増大にもつながったのではあるまいか。高度経済成長とそれはまったく同じ原理に立つものある以上、大量生産と大量消費が目的である。つまり、病気を大量に生産する機構そのものを再考すべき時代になっているのである」と述べる。


 こうした思潮は、中川以降、まだ主流とは言えないまでも、病気を大量に生産する機構そのものを再考する気運の拡大にはつながっている。たとえば、血圧をめぐる年齢差の課題や、がんの標準療法などの見直しなどは、その「脱大量生産・大量消費原理」が多少は理解され始めてきたということなのかもしれないし、がんをはじめとする検診の有用性を疑う図書が出始めたことにつながるかもしれない。


 この連載では、日本国内で医療の大量生産・大量消費がどのような軌跡をたどったのか、さらに病気を大量に生産する構図として検診、延命医療、医薬品大量消費などをとりあげていきたい。加えて前時代の東洋医学や大衆薬、セルフメディケーションの見直し、代替医療の動向などもみていく。(幸)