(1)町人にもファッションの波が


  古代から室町時代、権力者達の衣装の歴史文献はあるが、一般庶民の衣装はあまりにもみすぼらしいので、ほとんど記録に残っていないようだ。


 しかし、江戸時代になり天下泰平の世となり、一般庶民が「楽しむ衣装」の世界が出現した。ただし、一般庶民と言っても、豪商であるが。 江戸時代後期の文化人である加藤曳尾庵(えびあん、1763~没年不明)の随筆『我衣』(わがころも)に次のような記述がある。


「寛永16年(1639年)までは、武家は格別(であるが)、町人百姓ともに衣服はなはだ粗相(そそう)なり。女も町人百姓の妻なれば、これに順(したが)い、正保~慶安(1643~1651年)頃まで、年々に軽き貧家の妻・娘、武家へ奉公に出る。次第次第に立身し、上つがたの御服をも拝領して、我が家に帰り、嫁するも右の拝領物を着し、物見遊山祝儀にも一つ二つある物を着したり。故に世上の女子目を奢らせ、有徳家(=資産家)の妻子等は、手前金(自分の金)にて拝領物の如くこしらへ着し、古の粗相を忘れたり。然れども数多くはなし。良き所なれども下女は夏冬とも木綿の晴着なり。


 寛文年中(1661~1679年)より、男女の衣服そろそろ着る。(中略)寛文年中に至っては、総鹿の子(※1)の小袖着す。地は白で綸子(りんず、※2)、或いは、紺・緋・紫の結鹿の子(ゆいかのこ)を総地にせり。 小舟町一丁目、石川六兵衛妻、甚だ奢(おご)りたり。此の女、常に紗綾(さや、※3)・縮緬・綸子の類を着し、晴れがましき所へは、緞子(どんす)・綸子・金入等を着す。


 常憲院殿(徳川綱吉)上野へ始めて御成りの時、彼の六兵衛妻、御成を拝すに、黒門前に桟敷をかけさせ、幕をうたせ、左右に切禿(きりかむろ、※4)両人、緋縮緬の大振り袖を着せ、真ん中に座す。御通行の時、御簾を巻かせて拝す。


 其の時の上意に『是は何れの大名の奥方ぞや、あまり結構なり、あれ尋ねよ』との厳命にて、即ち町人の妻なる由、申し上げる。是によりて、石川夫婦、遠島を仰せつけ被る」


※1、「鹿の子」……絞り染めの一種。模様が小鹿の背のまだらに似ている。非常に手間のかかる模様で、江戸時代には全面が鹿の子絞りの「総鹿の子」が贅沢品として、しばしば禁止された。


※2、「綸子」……絹の繻子織(しゅすおり)の一種。慶長年間に京都で日本人好みの意匠の綸子が織られるようになると人気を博した。


※3、「紗綾」……平織り地に四枚綾で稲妻や菱垣などの文様を織り出した光沢のある絹織物。


※4、「切禿」……幼児向きの髪型、おかっぱに類似。あるいは、その髪型の子供。


(2)東西対決


 石川六兵衛の妻は、豪商の娘として育ち、豪商の妻となり、大変な贅沢ができる環境にあった。男には贅沢な道楽が数々ある。しかし、女には、ささやかな楽しみしかない。そこへファッションの時代がやってきた。これぞ女の無上の道楽、と思ったのだろう。そう思ったのは、石川六兵衛の妻だけでなく、富裕層の妻女の大半は、そう思った。


 であるから、上野や浅草、お花見や芝居見物、そこで富裕な妻女達は豪華絢爛な衣装を身にまとう。人々のため息、ささやき、うわさ……自ずと人々はランクをつけたがる。そして、自ずと誰それがナンバーワンと判定される。六兵衛の妻は、どこへ行こうと連戦連勝。江戸でのナンバーワンの評価を獲得した。


 その時、京都の難波屋十左衛門の妻が衣装道楽で京都ナンバーワンと知る。すぐさま「衣装比べの挑戦状」を送った。難波屋の妻も自信たっぷりで、お相手しましょう、となった。 六兵衛の妻は女乗物に乗り女中を供にして、東海道を一路、衣装比べの会場、京都の東山へ。 東山は衣装比べの東西対決にわんさかギャラリーが集まった。難波屋の妻は、緋繻子に金糸銀糸で洛中の景色を刺繍した豪華絢爛なもの。江戸の田舎者なんかに負けられるものですか、田舎者にこの衣装で京をご案内してさしあげましょう、というわけ。


 これに対して、六兵衛の妻は黒羽二重に南天が刺繍してある着物である。ギャラリーは一目見るなり、江戸文化の遅れにがっかりした。だが、よくよく見ると、赤い南天の実の一粒一粒は珊瑚の玉だった。ギャラリーはビックリ仰天。ということで、江戸の勝ちとなった。かくして、彼女は日ノ本一のおしゃれ女となった。


 蛇足ながら、「南天」について。「難を転じて福をなす」→「難転」→「南天」という語呂合わせで、「南天」は縁起物の植物でお正月に必ず飾られる。お正月の縁起物だけでなく、南天を植えれば火災にあわない、とされたから、どこの家にも南天が植えられた。江戸時代後半になると、南天はお赤飯にそえられた。「難転」の語呂合わせだけでなく、腐敗防止の殺菌作用が知られるようになったからである。なお、赤い実のなる植物には、マンリョウ(万両)、センリョウ(千両)があり、さらにヒャクリョウ(百両)、ジュウリョウ(十両)、イチリョウ(一両)という植物もあり、やはり赤い実がなる。


(3)将軍様に見ていただきたい


 以下の話は、前述のように、加藤曳尾庵の随筆『我衣』だけでなく、江戸時代前期の歌学者である戸田茂睡(1629~1706年)の『御当代記』(ごとうだいき)にも記されている。この本は1680~1702年までの戸田茂睡の記録である。この本は幕政批判とも取られかねない部分があり、永らく秘蔵されていた。なんと、1913年(大正2年)に佐々木信綱(1872~1963年、歌人・国文学者)によって世に紹介された。


 石川六兵衛の妻のおしゃれへの野望は、私の晴れ姿を将軍様に見ていただきたい、というトンデモナイ発想となった。夫の六兵衛がよく許可したものだと思う。江戸町人の粋というものかも知れない。 花見の頃、将軍綱吉は行列を仕立てて、将軍家墓所がある上野寛永寺へ参詣することになった。その途中、ある所で高価な伽羅(きゃら)の香が漂ってきた。香の元をたどると、町屋の一角から流れてくる。そこには、金の屏風を立て、美しく着飾った8人の女中を従え豪華絢爛なる衣装の石川六兵衛の妻。女中達は伽羅を焚き、その煙を金の扇子であおいで綱吉の駕籠に浴びせかけていた。将軍の目が六兵衛の妻に注がれる。将軍様、私の衣装ステキでしょ、というわけだ。将軍が、「ほっほっ」とすれば、これで六兵衛の妻は、名実ともに天下一の衣装道楽の栄冠を得る。 結果やいかに…。


 江戸時代の身分制度は、絶対に武士は町人の上位にある。武士よりも町人の分際で豪華贅沢をするとはケシカランということで、家財没収、江戸追放、遠島の処分となった。奢侈禁止令を犯したのである。


(4)奢侈禁止令


 さて、「贅沢」=「悪」という思想は、世界的な道徳である(あった)から、古代日本でも奢侈禁止令が発令された。しかし、対象者は貴族・高級官僚であった。また、実際に処罰した事例はないようで、「罰則なき訓示」のようなものであったと思う。


 ついでに言えば、聖徳太子の冠位十二階は、高級官僚の「服装制限」、奢侈・華美な服装の禁止という側面を有することは、ほとんど語られない。


 しかし、江戸時代では、奢侈禁止令は幕府の国内統治の基本原則の感があった。奢侈禁止令は頻繁に発令され、しかも非常に内容が細かいものであった。とりわけ農民への奢侈禁止令は厳格であった。服装に関しても、あれもダメこれもダメと決められ、強制的に「身の程」をわきまえさせるようになっていた。


 町人や武士への規制は農民ほど厳格ではなかったが、奢侈禁止令は繰り返し発令された。


 江戸時代前半に、いろんな奢侈禁止令が発令された。たとえば、1643年(寛永20年)は、紫と紅梅色が禁止された。1663年(寛文3年)の「女中衣類直段之定」は、超上流階級女性の衣装価格規制である。 それらを統合したのが、1683年(天和3年)の「天和の奢侈禁止令(=美服禁止令)」である。紫と紅梅色の禁止だけでなく、町人は金糸の刺繍、鹿の子絞りなどのデザインも禁止された。また、従来は超上流階級女性の衣装に関しては上限価格が定められていたが、一般町人の衣装価格も規制した。


 石川六兵衛の妻の事件は、天和の奢侈禁止令以前の1681年のことであった。 天和の奢侈禁止令は、2~3年もすると、うやむやになって、富裕層は一層豪華な衣装を楽しむようになった。


 町人の中には大名以上の贅沢を誇示する者が登場した。大阪商人、淀屋の5代目・淀屋辰五郎(1684~1718年)である。初代~4代目は、大阪商人特有の律義・節約の人物だったそうだが、5代目は自分を「大名以上の大商人」と驕り高ぶった。とにかく桁外れの資産を有していた。そして桁外れの贅沢をした。たとえば、屋敷の天井をガラスにし、その上に水をはって金魚を泳がせた。そんなことで、1705年(宝永2年)に闕所(けっしょ)処分、すなわち全財産没収となった。この処分に対して庶民は拍手喝采で、淀屋の豪邸に石を投げた。淀屋から借金している大名もほくそ笑んだ。


 しかし、近松門左衛門の浄瑠璃にもなったし、歌舞伎にもなった、浮世草紙にもなった、妖怪画集の題材にもなった。


 淀屋辰五郎の闕所処分は一罰百戒、見せしめ処分の色彩が強いが、本格的な奢侈禁止令による厳しい取締時期は、江戸幕府の3大改革、すなわち8代将軍吉宗が主導した享保の改革(1716~1745年)、老中松平定信が主導した寛政の改革(1787~1793年)、老中水野忠邦が主導した天保の改革(1841~1843年)の時期であった。「贅沢」=「悪」というイデオロギーを忠実に実行したのである。権力者が「改革」の方向性を誤ると庶民の苦労増大となった典型であろう。


「贅沢」=「悪」の哲学的考察をしたいのだが、疲れるからやめた。


(5)尾形光琳と中村内蔵助の妻


 石川六兵衛の妻の京都東山での東西衣装比べの件であるが、ひょっとすると中村内蔵助の妻の衣装比べの出来事が、石川六兵衛の妻の出来事に脚色されたのかも知れない。


 尾形光琳(1658~1716年)は説明するまでもなく超有名な画家である。光琳は京都の呉服商「雁金屋」の次男として生まれた。雁金屋の超お得意様は、徳川和子(1607~1678年)である。2代将軍徳川秀忠の娘(5女)、後水尾天皇の中宮、女院としては東福門院と称された。徳川和子がお得意様になったことで、雁金屋は一躍、京都ナンバーワン、日本ナンバーワンの超一流呉服商になった。が、東福門院が死亡(1678年)すると、売上げのほとんどを彼女ひとりに依存していたため雁金屋は経営危機となる。しかし、不動産などの資産がたっぷりある。父が死んで光琳も財産を相続したが、遊び人光琳は使い果たす。仕方がないので、絵描きになった。超上流階級の中で生まれ育ったため人脈に恵まれていた。そして、才能もあった。次第に有名絵師となっていく。


 そんな頃、中村内蔵助(1668~1730年)とお友達になる。金融商人の彼は金銀改鋳で莫大な富を得、京都銀座年寄になった。彼は、尾形光琳のスポンサーと言ってよい。 以下の話は、江戸時代後期の俳人随筆家・神沢杜口(かんざわとこう、1710~1795年)の随筆『翁草』(おきなぐさ)にある。


 尾形光琳は頻繁に中村内蔵助の邸宅に遊びにいっていた。ある日(1710年前後)、内蔵助が光琳に相談した。


 「近々、東山でハイクラス奥様達のパーティがあり、そこで『衣装比べ』がなされる。私の妻も出席する。なんとか妻を目立たせたいが……」 光琳、しばらく考えて、内蔵助へなにやらひそひそアドバイスした。


 衣装比べパーティの当日、ハイクラス奥様達は、どっさり衣装を持ったお供を従えて東山に到着。奥様達は、まさに綾羅錦繍(りょうらきんしゅう)のお召しであります。四字熟語「綾羅錦繍」とは、美しく気品のある衣装をいう。「綾」はあや織りの絹(あやぎぬ)、「羅」は生地の薄い絹の織物(うすぎぬ)、「錦」は色鮮やかな絹の織物(にしき)、「繍」は刺繍(ししゅう)を施している布地。


 内蔵助の妻は到着が遅れている。ハイクラス奥様達は、「どうなさったのかしら?」と思っているとき、内蔵助の妻が到着。その衣装が黒羽二重のシンプルなデザイン。ハイクラス奥様達は、あっけに取られる。


 やがてお着替えの時間となる。 ハイクラス奥様達は、一層豪華なファッションにお着替えする。お供の侍女達もお着替えするが、あくまでも侍女ファッションである。


 ところが、内蔵助妻はお着替えしても黒羽二重、しかし、内蔵助妻の侍女達はハイクラス奥様達の豪華衣装に勝るとも劣らぬ衣装である。


 お着替えタイムは何度もあるが、内蔵助妻のお着替え方針は変わらなかった。


 この衣装比べの結果は、「中村の出立抜群にて、一座蹴押され」て、文句なく内蔵助妻の優勝となった。この評判は瞬く間に京都中に知れ渡り、尾形光琳の名を高めた。


 総カラーの巨大絵画の中に、ひとり白黒シンプル、尾形光琳の絵画的デザインの勝利ということなのでしょう。


 この頃が中村内蔵助の絶頂だった。1714年(正徳4年)中村内蔵助は奢侈禁止令で財産没収となった。 それにしても、東山での衣装比べ、黒羽二重、なんとも石川六兵衛の妻の話と似た感じだ。


 最後に一言。なぜか、石川六兵衛とその妻の行動に拍手を贈りたい。なぜなんだろう……?


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太田哲二(おおたてつじ)

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。