前回、中川米造の言を借りて、現状の医療は、デカルト的な合理主義に立ち、医療本来の目的である病者へのケアをないがしろにし、さらに病人の数の増大にもつながったのではないか、高度経済成長とそれはまったく同じ原理に立つものある以上、大量生産と大量消費が目的となっているのではないかと述べた。


 財政破たんした北海道夕張で地域医療を支え、現在の北海道で地域ケアを受け持つ診療所を運営し、自らも急性骨髄性白血病と戦い続けている村上智彦医師は、著書「最強の地域医療」(ベスト新書)の中で、地域医療の崩壊危機、医療費増大の問題は、現在の高齢者自身が中心の、「昔ながらの仕組みや常識に縛られている『高度成長病』ともいえる意識の問題がほとんどだ」と指摘している。また現代医療は、老化には案外無力であり、寿命には勝ち目はないことを自覚すべきだと語ってもいる。村上氏は、具体的な構造問題を指摘する中で、医療機関が多すぎる、医師の集約化が進まないなどを押さえているが、そこの改革を阻む要因は、ある意味、現在の高齢者の「高度成長病」意識の頑丈さである。


 いったい、こうした医療に対する現在の高齢者の意識はどこから生まれてきたのだろうか。今回から、そのひとつのテーマとして老人医療費の無料化がそうした認識構造の岩盤になっているのではないかとの仮説を考えていく。


●家族扶養に支えられていた時代


 老人医療費の無料化は、その根底におかれているのは63年に制定された老人福祉法であるとされる。63年は東京オリンピックの前年であり、国民皆保険制度ができてかから2年後である。当時の高齢者の状況を詳細に説明するには、相応の資料の渉猟が必要であることは理解するが、ここでは多くを示さない。ただ、当時の65歳以上人口のいわゆる高齢化率は、60年で5.7%、65年で6.3%であるから現在の高齢化率と比べようがない。


 つまり、生産年齢人口が多く、さらに団塊の世代が次の生産年齢人口として控える時代であり、高度経済成長はいわば約束された形の時代状況にあったといえる。


 当時の高齢者は、老齢年金の支給は行われていたが、現在のような厚生年金、国民年金の制度下からは多くが外れていた。また、戦前から定年制度は50歳~55歳という状況下でもあり、65歳は完全なリタイア組であった。こうした高齢者を支えてきたのは「家族」であり、多子時代には、多くが子どもの扶養に入っていた。そうしたなかで、保健、医療への関心は低く、扶養に恵まれない高齢者のケア、生活支援、健康維持は国内問題として大きくはないがそれなりに関心を持たれるテーマだったとはいえるだろう。さらに、期待もし、それなりに実現した経済成長というポテンシャルもあって、老人福祉法の制定につながったといえる。むろん、当時の欧米先進国の福祉政策が教科書になったという一面も無視はできない。


 同法の制定から10年後、田中角栄内閣は「福祉の時代」をスローガンに掲げ、老人医療費の無料化を実現させる。振り返ってみると、日本列島改造計画から福祉へと大きな政策の動きを感じるのだが、73年に至って日本の高度経済成長は確実なものとなったという認識が確立したと思える。63年の老人福祉法制定から73年の老人医療費無料化までの10年間は、まさに「日の出の時代」を象徴している。


●「高齢者」は10歳ズレる


『21世紀に語りつぐ社会保障運動』(あけび書房)で、篠崎次男氏は「老人福祉法と老人医療費無料化運動」について述べるなかで、扶養のない高齢者は当時、「世捨て人」のような境遇だったとしている。つまり、一般の高齢者は主に子どもの扶養下であることが普通の光景だったのである。篠崎氏は、被保険者本人(子ども)が受診して持ち帰る薬を高齢者が服用していたといったエピソードも紹介しているが、これは筆者には一般的な光景として想像はできない。


 老人福祉法が制定されたなかで、老人健康診査を自治体で行うよう制度化されている。しかし、この老人健康診査の受診率は非常に低く、その原因が、何らかの疾病リスクが特定されたとしても、受療する経済力がないことが指摘されていた。つまり、病気を見つけるシステムは作ったが、治療に向かわせる手段を欠いていたということになる。ただ、老人健康診査は現在でもその受診率はあまり高くはない。その要因として類推できるのは、高齢化以前の健診の充実で、高齢者になっても自らの健康リスクに対する知悉度が高いのではないかと考えられる。むろん、多くの溢れかえる健康情報がそれに追い打ちをかけてはいるが。


 さらに、先述した労働からの離脱時期が、当時と現在ではほぼ10年間違うことも考えておかねばならないだろう。「高齢者」の意味が、当時とはズレていることは前提にしなければならない。


●与党草案は機能的な法案をデザイン


 63年の老人福祉法の制定はそれなりに画期的なものではあったが、前年の62年に示された当時の政権与党である自民党草案では、自治体に老人専門官を配置することや、訪問ヘルパーの配置、リハビリ施設の設置(なお、いずれも当時の表現は違う)などが盛り込まれていた。しかし、成立した法案はこれらが抜け落ちた。与党が積極的に機能的な高齢者ケアを想定した法案を準備したなかで、行政サイドがこれを削ったという時代背景は、現在ではどうも理解しにくい。


 こうした地域システムに関する骨格を削ったことで、前述した「リスクはわかっても治療ができない」という課題に凝縮し、医療費の無料化政策につながっていくのである。ここに高度経済成長時代のひとつの歪みをみることができる。つまり、地域でシステム的に高齢者の健康支援を行うという認識が欠落したため、そのための人的資源を含めたインフラ整備を怠り、「病気になったら治療」へと短絡し、治療費がないなら無料(つまり国が支払う)という経緯をたどっていく。無料化より地域ケアの充実、支援体制の構築と環境整備が「高度成長時代」のこのときに行われていれば、現在のような「医療崩壊」的な現状はある程度回避できたのではないかという想像は無理ではないと思う。要するに、目前の費用に関してカネでカタをつけたのである。  老人医療費無料化は73年に実施された。これによって高齢者の受療率が大きく変化することになるのである。まさに医療の大量消費時代の扉が開いた。(幸)