(1)博多(福岡市)では超有名
貝原益軒(1630~1714年)は、一般的には、本草学者、儒学者ということになっている。しかし、彼の学識は、それに収まらず、百科事典的博学の持ち主である。シーボルト(1796~1866年)は「貝原益軒は日本のアリストテレスだ」と評しているが、彼の膨大な著作一覧を眺めると、うなずける。
筑前国(福岡県)黒田藩の下級武士の五男として生まれた。下級と書いたが、150石だから「中級の下」というか「下級の上」というレベルと推測する。しかし、誕生の翌年に、父は浪人暮らしとなる。当然、貧乏生活、母も死去、むろん継母も12歳の時に死去。不幸な子供時代であるが、家政婦さん(武士階級ではなく庶民)がとても良い人だったようだ。益軒は、この家政婦さんにとても感謝し、彼女の晩年、9年間にわたって仕送りをした。
不幸な子供時代だったが、勉強大好き少年、天才少年の評判が博多の街に知れわたり、18歳の時、黒田藩2代目藩主黒田忠之(1602~1654年)に仕えることになった。貧困脱出と思いきや、20歳の時、黒田忠之のご機嫌をそこねてクビとなって、またもや貧乏生活に陥った。
クビの原因はハッキリしないが、黒田忠之は、わがままし放題の典型的おぼっちゃま育ち、そのため藩政はおぼっちゃまへのゴマすり上手なお友達だけが優遇される有様。常識・見識にもとづくご意見なんかは「身の破滅」である。おそらく、若き貝原益軒は、ゴマすり下手だったのだろう。
余談だが、黒田忠之のワガママは後に黒田騒動を引き起こす。
おぼっちゃま権力者の周辺はゴマすりだけのオトモダチばかり、常識・見識ある重臣は遠ざけられる。そうなると、藩を潰す可能性99%の政策もドンドンやらかす。禁止されている軍艦建造をやる、さらに、やはり禁止されている新規の鉄砲隊200人を編成する。おぼっちゃま権力者は、軍備拡大こそが藩を守る、軍備拡大は武士として格好いい、という安直な思想が大好きなのだ。
常識・見識の重臣は何回も諫言したが無駄だった。諫言すれば、殴られ蹴られるだけでなく、所領没収・減少という有様。このままでは、黒田藩おとり潰し確実。そこで、常識・見識の重臣代表・栗山大膳がとった窮余の一策は、何か。それは、なんと幕府に対して、「黒田藩、幕府に謀反の疑いあり」と訴え出たのである。結果は、まぁまぁ、めでたし、めでたしと相成った。
これが黒田騒動で江戸三大お家騒動のひとつである。江戸時代、お家騒動は有名なものだけでも数十あるが、とりわけ有名なのが、黒田騒動、加賀騒動、伊達騒動(寛文事件)、仙石騒動の4つで、論者によって、4つの中から適当に3つ選んで江戸三大お家騒動と言っている。
貝原益軒の浪人時代は7年間続く。藩に復帰して、あれやこれや忙しく仕事や旅をして、70歳で藩の役職を退き、家督を養子に譲った。
それからが貝原益軒の出番であった。今まで貯め込んだ知識を、ものすごい勢いで本として書きまくった。むろん、70歳以前の著作も多いが、それらは、いわばお仕着せのお仕事としての「ありきたりの解説書」のようだ。71歳からは、「ありきたり」ではなく「独創性」が漲る「貝原ワールド」である。 71歳 『近世武家編年略』『宗像郡風土記』『贐行訓語』 72歳 『音楽紀聞』『扶桑記勝』 73歳 『黒田忠之公譜』『点例』『和歌紀聞』『五倫訓』『君子訓』 74歳 『宗像三社縁起』『菜譜』 75歳 『古詩断句』『鄙事記』 76歳 『和漢古諺』 78歳 『大和俗訓』 79歳 『大和本草』『岐蘇路記』『篤信一世用財記』 80歳 『楽訓』『和俗童子訓』 81歳 『岡湊神社縁起』『有馬名所記』『五常訓』『家道訓』 82歳 『心画規範』『自娯集』 83歳 『養生訓』『諸州巡覧記』『日光名勝記』 84歳 『慎思録』『大疑録』 貝原益軒の著作の基本スタンスは一般庶民にわかるように書いたということである。平和の時代ということもあって、貝原益軒の目論見は成功を納め庶民の知識水準アップをもたらした。庶民の知識水準アップという観点では、石門心学の石田梅岩(1685~1744年)と双璧かも知れない。
ただし、「知識水準アップ」と言っても、あくまでも当時の科学レベルでの話、および封建時代の制限内のことである。現代人が読めば、笑ってしまうもの、科学的に間違いなもの、お節介なもの、どうでもいいもの……が多いような感じがする。
なお、深い学問的探求・思索もしていた。それは、幕府公認儒学の朱子学への疑問を『大疑録』として著したことでわかる。その2ヵ月後、貝原益軒は死去した。生涯現役は『養生訓』の証明なのかも知れない。
(2)養生訓
貝原益軒と言えば『養生訓』である。江戸時代のベストセラー・ロングセラーである。現代でも、『養生訓』の中の言葉を、それとは知らず1つや2つは使っている。たとえば、「腹八分目」「旅先で生水を飲んではいけない」「酒はほろ酔いがよい」、それからセックスに関して「精をとじて漏らさず」など。
『養生訓』は、現代風に言えば、「予防」の書である。予防医学では、予防を3段階に分ける。 ・1次予防…未然に疾病を防ぐ。バランスのよい食生活、適度な運動、ストレス解消、禁煙など。 ・2次予防…早期発見、早期治療 ・3次予防…治療と社会復帰。3次予防は、世間一般では、「予防」と言わない。 『養生訓』は、「1次予防」に該当する。 『養生訓』の構成は、次のようになっている。 第1巻 総論上……儒教にもとづき、養生の目的を説く。 第2巻 総論下……運動・栄養・休息は適度に。 第3巻 飲食上……「腹八分目」など 第4巻 飲食下……食べてはいけないもの、飲酒、飲茶、慎色欲など 第5巻 五官 ……五官(耳・目・口・鼻・体)の機能を説き、とりわけ口腔衛生の重要性を説く。 第6巻 慎病 ……病にならないよう養生する。医者を選べ。 第7巻 用薬 ……薬の効能と害 第8巻 養老 ……老後の過ごし方を説く。
私なりに『養生訓』の大意をまとめてみる。長命・健康の目的が最も重要視される。「もっぱら父母・天地に孝をつくし、人倫の道を行い義理にしたがって、できることなら幸福になり喜び楽しむ」。つまり、「孝」である。あるいは、『孟子』の「君子の三楽」をまねて、養生の「三楽」を述べている。第一は、道を行い、善を積むことを楽しむ。第二は、病気がなく健康な生活を楽しむ。第三は、長生きして長く楽しむ。
要するに、孝なり道なり善なり、それを行うための養生・健康である。これが、『養生訓』の根本精神である。決して、悪事をなすための養生・健康ではない。強兵のための養生・健康ではない。
先に、『養生訓』は第1次予防の書であると述べた。そこでは、自然治癒力のアップが基本に据えられる。思い出話であるが、糖尿病の知人が医者の言うとおり食事制限して痩せた。そして風邪にかかって亡くなった。医者は「糖尿病は治った」と言っていたが、急激な体重減による自然治癒力ダウンが原因と思う。『養生訓』では、「医者を選べ」「むやみに薬を飲むな」と述べているが、むろん江戸時代初期の医者・薬のレベルは低いのであるが、人体全体の自然治癒力の強化が養生・健康のポイントとされているようだ。健康の時こそ、日々注意深く「毎日の養生」を行うことが肝心だとしている。貝原益軒の真意は、そんなことである。
(3)あえて言う
貝原益軒は「スゴイ、偉人だ、大したものだ」で終わるべきかもしれないが、非才の身を承知で、あえて次の3つを指摘したい。
①「重箱の隅を楊枝でほじくる」わけではないが、やはり現代科学の水準からすれば、間違いが少なからずある。
②あまりにも日常的なことを、ああした方がよい、こうした方がよい、と延々と言われると、我ら凡人は「お節介過ぎる」と思ってしまう。
③「風が吹けば桶屋が儲かる」ではないが、時代を下ると、貝原益軒が庶民に普及させた「孝」が、やがて武士の「忠」と合体して、庶民の間にも「(合体)忠孝」が普及する。さらに、明治政府は「忠孝」と「神=国」を合体させて「国家神道」「神権的国家論」を推進すると庶民は容易に受け入れた。
「親を尊敬する。親の言いつけを守る(ことは人としてよいことだ)」→「上役・先輩を尊敬する。上役・先輩の支持に従う(ことは人としてよいことだ)」→「神を尊敬する。神(現人神)の命令に従う(ことは人としてよいことだ)」 この「ぼわっとした論理」に日本人は未だにとても弱いようだ。
まったくの蛇足を3つ。
①「第4巻 飲食下」の中に「食い合わせ」の項目がある。迷信に近い風習だから、内容は省略する。それにしても、登場している肉の種類に驚いた。豚肉、牛肉、鹿肉、すっぽん、鶴、うずら、兎肉、鶏、いのしし、かわうそ、きじ、えび、かに、鴨、アヒル、雀肉である。四つ足禁止は、表向きの話だったようだ。むろん量は格段に少なかっただろう。それにも増して驚いたのは、「鶴」と「かわうそ」である。食用になるほど沢山いた。
②同じく「第4巻 飲食下」の中に「たばこ」の項目がある。あれやこれや述べて「……のまないのにこしたことはない。貧民は失費が多くなる。」ごもっとも、ごもっとも。
③『養生訓』をセックス指南書と勘違いしているスケベ人間が大好きなことが書かれてあるのも、「第4巻 飲食下」の中の「慎色欲」である。「接してもらさず」は房中補益(房中で役に立つこと)の説という。お暇な方は図書館で『養生訓』を借りて、その部分(4~5ページ分だけ)を読んでください。
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太田哲二(おおたてつじ)
中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。