①備中松山藩


 山田方谷(ほうこく、1805~1877)は、備中松山藩の藩士(百姓出身)である。幕末に藩の財政を数年で立て直した人物で、その当時は超有名人であったが、今では、地元の人しか知らない。単なる財政再建家だけではなく、陽明学者としても活躍し、備中聖人と言われた。


 単に「松山藩」と聞けば、普通は「伊予松山藩」(15万石)を思い描く。「伊予」は「愛媛県」となり、松山市は愛媛県の県庁所在地であるから、誰でも「松山藩」とは「伊予松山藩」を想像する。伊予松山藩の歴代藩政はデタラメで、享保の大飢饉では領民3500人が餓死したが武士はひとりもいなかった。百姓町民の命は牛馬以下の扱いで、幕府からお咎めを受ける始末であった。極度の財政難にもかかわらず、松山城天守閣を再建したりする。一言でいえば、伊予松山藩は、デタラメ藩政ということだ。


 ただ、俳諧の普及という点だけは、褒められることかも知れない。その土壌があって、明治になって正岡子規が登場したのだから。松岡子規の最も有名な俳句のひとつは「春や昔 十五万国の 城下かな」である。JR松山駅に、その句碑が建っている。


 備中松山藩は、現在の岡山県高梁市(人口3万~4万人)を中心とする。岡山県の西部に位置し広島県と接する。幕末維新の際、伊予松山藩は官軍側、備中松山藩は幕府側となった。そのため、維新後、伊予松山藩はそのまま「松山藩」の名称であったが、備中松山藩は「高梁藩」に改名させられた。


 備中松山藩では領主がコロコロ変わった。代官時代(1600~1616)は小堀家であった。茶道の小堀遠州が有名である。高梁市に臨済宗・頼久寺(らいきゅうじ)がある。ここの庭園は小堀遠州の作で、天下の名園である。山田方谷も時にはここで座禅を組んだようだ。


 代官時代から藩時代となる。池田家(外様)の時代(1617~1641)、水谷家(外様)の時代(1642~1693)となった。


 水谷家3代目は無嗣子のまま死亡したため、水谷家は大名(6万5000石)から旗本(3000石)へ降格された。この時の松山城明け渡しに、『忠臣蔵』の赤穂藩主・浅野長矩(ながのり、内匠頭)が任じられ、名代として浅野家家老・大石内蔵助が水谷家家老・鶴見内蔵助と腹を据えた対談をし「無血開城」となる。『忠臣蔵』のエピソードに時々登場する「大石内蔵助ヨイショ」の話である。


 次が、安藤家(譜代)の時代(1695~1711)、石川家(譜代)の時代(1711~1744)、そして、板倉家(譜代)の時代(1744~1871)となる。


 山田方谷は藩主・板倉勝静(かつきよ)に大抜擢され、7年間で財政再建を成功させた。わずか7年間で藩の莫大な借金、10万両を返済し、しかも10万両の蓄財を生み出した。全国各地で藩政改革を志す者は、「すごい! 備中松山藩の山田方谷は、すごい!」と注目した。


 その成功談は「部下の功は、とりもなおさず藩主の功」であり、板倉勝静は幕政の中でも注目を集め、寺社奉行となり、さらに老中筆頭となり、幕末の幕政の中枢を担うことになった。


②実社会体験


 山田家は元来は武家であったらしいが、山田方谷の曽祖父の頃は、長百姓(おさびゃくしょう、おとなびゃくしょう)兼造り酒屋であった。長百姓とは村の有力百姓で村役人的な役目を有していた。原因がわからないが、定光寺の住職が曽祖父の長男を勝手に坊主にしてしまった。曽祖父は怒って、その住職を殺害し、自分も自害した。その結果、山田家は完全に没落した。


 方谷が生まれる頃は、方谷の父は貧しい百姓兼商人として生計を維持していた。どんなことをしていたか、と言うと、菜種油の製造・販売である。方谷の両親は山田家のお家再興を強烈に志向していた。両親は、お家再興の望みを方谷に託した。両親は、長男・方谷を学者(朱子学)にして藩校の教授に出世させる。藩校の教授は、士分である。山田家は元来、武士の家である。武士の家、山田家の再興、それが両親の強烈な願いであった。


 5歳の方谷は、親元を離れ、儒学者・丸川松隠の私塾で朱子学を学び始める。丸川松隠は、関西・中国方面では名を知られた儒学者である。この私塾の場所は、現在の岡山県倉敷市にあった。方谷は、若干5歳から寄宿舎に入って、朱子学の英才教育を受けることになったのである。


 両親は、貧しいなか学費をひねり出した。どの程度の貧困か? 父が残した『山田家の家訓12ヵ条』を読めば、徹底的な質素倹約である。その中の2ヵ条だけを抜粋してみる。


一、三度の食事は、一度はかす、一度は雑炊、一度は麦飯。もっとも母上には三度とも米をすすめ、夫婦の米は倹約するべきこと。

一、労働は朝七つ(午前4時)より、夜は九つ(深夜12時)まで。召し使いの人は世間なみ。


「かす」とは、おそらく残り物のことだと思う。質素倹約の第一は食費の節約である。


「母上には三度とも米をすすめ」は、朱子学の忠孝の「孝」の実践である。親孝行とは、現代人がイメージする「ほのぼの」としたものではなく、厳格な身分上の形としての差別を伴うのだ。


 働くことはいいことだ。いいことは沢山すべきだ。長時間労働はいいことだ。北島三郎のヒット曲『与作』も同じ思想の歌である。現代人なら、稀に長時間労働も仕方がないが、毎日していたらかえって生産効率が低下することを知っている。しかし、江戸時代では『慶安の御触書』のように、長時間労働は推進すべき善なのである。しかし、睡眠時間4時間ではフラフラになることを経験上知っているので、「召し使いの人は世間なみ」とある。


 方谷の父だって、本当に睡眠時間4時間の生活をしていたのか。私は、あり得ない、と思う。ということは、『山田家の家訓12ヵ条』は父が描く理想の表現、心意気ということだろう。しかし、こうしたことが高じると、「建て前と本音」の日本文化に変化する。要領よくさぼらないと死んでしまうから、必然的に「建て前と本音」が暗黙の日本文化となっていく。


 なんにしても、方谷の両親は生活をものすごく切り詰めて学費をひねり出したのだ。


 しかし、15歳の時、母が亡くなり、16歳の時、父が亡くなった。丸川松隠の私塾で方谷は極めて優秀であった。しかし、仕送りが途絶える、長男・方谷は山田家を継承しなければならない、ということで、私塾を去った。丸川松隠の惜別の言葉は「精神一到、何事か成らざらん」(『朱子語類』の「八、学二」)であった。帰郷し、山田家の当主となり家業、農業と菜種油の製造・販売をすることになった。


 私は、この実社会での経験が山田方谷を質的に大変化させた、と推理する。朱子学一辺倒の学問を重ねても、並みの儒学者になっただけと思う。多くの藩では藩政改革のため儒学者を登用したが、大半は「まことにご立派なお話でございました」で終わってしまう。「誠心誠意でなせば必ず成功する」と古今の文献を引用して感動的に述べたところで、所詮お話にすぎない。


 実社会は、複雑なのだ。取引相手に誠心誠意で接したところで騙されることもある。誠心誠意の価格交渉をしたところで、天候による生産量の増減で価格は上下する。百姓の無惨な生活も日常光景であった。菜種油の原料である菜種を安く買えば、百姓がさらに無惨になる。方谷も実社会の訳のわからぬ現実に右往左往したことだろう。しかし、幼少より儒学を学び、がっちり儒学が身についている方谷は、百姓・商売をしながらも、時間がある時は独学自習で朱子学を学んだようだ。そして、誠心誠意を基本とし、次第に複雑な実社会の商取引に対応していったようだ。19歳頃には、同業者から「正直安五郎」と呼ばれるようになった。「安五郎」とは方谷のあだ名である。


 商売に成功したとしても、士分になれるわけではない。


 しかし、世の中は諸法無我である。世の中はすべて繋がりの中で変化している。


 21歳の時、突然、備中松山藩第6代藩主・板倉勝職(かつつね)から御沙汰書を賜った。板倉勝職の婿養子が第7代藩主・板倉勝静(かつきよ)である。


「農商の身にて文学に心がけよろしき旨を聞き、神妙のことにつき、二人扶持をくださる。これより、おりおりは学問所へ出頭し、なおこの上とも修業し、ご用に立つように申しつける」


 二人扶持(1日玄米1升)の奨学金である。藩校・有終館への出入りを許された。山田方谷の出世街道が拓かれた。いかなるルートで山田方谷の評判が板倉勝職の耳に入ったのか不明である。人口1万人前後の小さな備中松山藩だからの奇跡かも知れない。


③『理材論』『擬対策』を書く


 方谷は、家業に励みながら、道のり20キロの藩校へ通うのは大変だ。速く歩いたとしても片道3時間半かかる。しかし、うれしくて楽しくて喜んで通ったことだろう。23歳の時に第1回京都遊学、25歳の時に第2回京都遊学をする。この遊学(=留学)は自費である。現代感覚なら、ケンブリッジ大学へ自費留学した、という感じである。


 そして、藩主・板倉勝職から苗字帯刀を許され山田家のお家再興となる。さらに、藩校・有終館の会頭(教授)となる。27歳の時に第3回京都遊学。方谷の妻は、第3回遊学に反対したようだ。家業で稼いでも、修行僧のように質素倹約した蓄財は遊学費用になってしまう。山田家再興はなった、有終館会頭にもなった、これで十分じゃないの、って感じだったのだろう。家庭内トラブルもあったが、第3回京都遊学は実行された。


 なお、方谷の夫婦関係は下手であった。2度離婚して、3回結婚している。朱子学特有の女性蔑視が原因かも知れない。


 第3回京都遊学で、王陽明の『伝習録』に出会う。つまり、陽明学に出会ったのだ。感動したのだろう。一挙に、陽明学に傾倒した。大塩平八郎の『洗心洞箚記』も読んだ。しかし、熱心に教えることはしなかった。陽明学は、自分で考える(そして行動)を特徴とする。未熟な者が陽明学に触れると、未熟な考え(そして未熟な行動)を大事にする欠陥を有しているから、それを心配したのかも知れない。そのため、陽明学を教えたのは明治に入ってから、1年間だけだった。


 ここで儒学に関して若干の解説。


 古代の孔子・孟子の儒教は素朴な教えだ。読んでいれば、「なるほどね、いいこと書いてあるな」である。しかし、朱子学となると、仏教、道教などを動員して森羅万象(宇宙全体)を統一的に説明する壮大なる抽象的哲学である。この壮大な抽象的体系を理解するには、一から順々に暗記するしかない。そして、万物に上下関係・尊卑があるように、人間関係にも身分という差別があるのは自然である。朱子学は真理であるから、ひたすら暗記するだけで批判・疑問はなし。封建体制に実に都合がよいので、朱子学は封建国家の正式学問となった。


 したがって、「孔子・孟子の素朴な儒教」と「朱子学」は、まったく異なるものと思ったほうがよい。


 陽明学は朱子学と似たようなものですが、最大の特色は、「朱子学を批判した」ことです。批判を許さない朱子学、丸暗記の朱子学、それに対して、陽明学は、朱子学を批判してもよい、自分で考える(そして行動)、そんな方向性が浮かび上がります。結果、幕府は陽明学を危険思想として弾圧した。ただし、陽明学は身分秩序を否定する思想ではない。「上の者を敬い、下の者を軽んじたり侮ってはいけない」程度である。上下の身分は認めるが、下の者を愛せよ、という「愛民」「愛人」である。


 本筋に戻って。30歳の時、第3回京都遊学から、そのまま江戸遊学となる。佐久間象山と論争したり、『理材論』『擬対策』を書く。一応、『理材論』は経済論、『擬対策』は政治論である。読めば、格調が極めて高い文章だが、内容は当たりで「お説ごもっとも」と言うしかない。ですから、内容紹介は省略します。全文を読めば、感動しますよ。


 32歳、5年ぶりに備中松山藩へ帰る。有終館の学頭(学長)になる。


④藩政改革


 1849年、方谷45歳。江戸藩邸で第6代藩主・板倉勝職が亡くなり、第7代藩主に板倉勝静がなった。その数年前、方谷は板倉勝静へ『理材論』『擬対策』を渡していた。板倉勝静は読んで感動したに違いない。板倉勝静は藩主になるや、すぐさま、方谷は江戸藩邸に呼び出され、元締役(勘定奉行)兼吟味役元締を命じられた。しかし、やはり「百姓が偉そうに」という雰囲気が濃厚だった。江戸藩邸には、方谷嘲笑の狂歌が囁かれた。


 山だし(山田氏)が何のお役に立つものか 

 へ(子)の曰(のたま)はくのような元締


 御勝手に孔子孟子を引き入れて 

 なほこのうへに空(から:唐)にするのか


 1850年、板倉勝静が帰藩する。そして、藩主の大号令「方谷の言葉は余(よ、勝静)の言葉である」が発せられた。怒涛の改革が始まった。一応、改革を整理すると、①上下節約、②負債整理、③藩札刷新、④産業振興、⑤民生刷新、⑥教育改革、⑦軍政改革、ということになる。


 上下節約は、まぁこれはどこでも行われる。方谷は自分自身が修行僧のような質素倹約の生活をしていたから、細かく、かつ厳格に徹底した。たとえば、「かんざしは、士分の婦人は銀かんざし1本、以下は真鍮かんざし。櫛(くし)などは木竹に限る」である。藩主・勝静も晩酌の酒量を3分の1に減らした。方谷自身の俸禄は半分に減額し、中級武士並みとした。そして、「なるほど」と思うのは、自身の家計を完全に公開したことだ。「建て前と本音」の日本社会である。俸禄を半分にしたって、副業・賄賂・余禄・贈答があるのではないか、と疑うのが常である。それを払拭するために家計を公開したのである。


 負債整理のことであるが、これも、まぁ当たり前のことである。当時、備中松山藩は公然と「貧乏板倉」と言われていた。板倉勝静の耳に入るほどであった。藩主が「どのくらい貧乏なのか」と問うても、粉飾決算だらけなので、誰も答えられなかった。方谷は若い頃、商人であった。その経験が生きて、借金総額を調査計算して明らかにした。10万両の借金であった。


 そして、大阪の大名貸しと交渉する。財政再建のためには、質素倹約だけではダメで、新たな殖産興業で収入増を実現させねばならない。そのためには、借金返済猶予と殖産興業の元手を新たに借りねばならない。納得できる再建計画を提出せねばならない。単に、人柄がいい、誠心誠意、「命に代えても、武士に二言はない」と啖呵をきっても、それだけでは、債権者との交渉は合意しない。方谷は緻密な7ヵ年の再建計画をつくって、債権者との交渉を成功させた。


 藩札刷新、これには劇的エピソードがある。当時、藩札は全国諸藩の8割が利用していたが、ほとんどの藩で成功していなかったようだ。備中松山藩の藩札も成功していなかった。方谷は、藩札刷新に際して、貨幣・藩札に関して大変な勉強をして、それこそ、当時ナンバーワンの金融知識を持っていた。その知識をもとに、信用が落ちていた藩札を新しい藩札に切り替えるため、今までの藩札を買い戻し回収し新藩札を発行した。その際、回収した古い藩札の公開焼却を行った。焼却場所は高梁川の河原で、当日は見物人が大勢集まった。8時間かけて焼却した。この焼却パフォーマンス、劇的宣伝によって、新藩札の信用を獲得した。


 余談だが、渋沢栄一は、生糸価格暴落に際して、蚕種の焼却パフォーマンスを行った。真珠の御木本幸吉は、粗悪真珠を追放し真珠価格を維持するため、粗悪真珠焼却パフォーマンスを実行した。方谷の古藩札焼却パフォーマンスがヒントになったものである。


 産業振興、これは抽象的理念ならば誰でも考え付く。理念だけなら、村おこし、地方再生、演説だけなら、誰でも喋れる。しかし、具体的実行となると、何をどうして?となる。方谷はさまざまな殖産興業を成功させた。そのなかでも、今でも知られる「備中クワ」の企業化である。むろん、鍋、釜などの製品も企業化した。鉄山、銅山を買収して、近似(ちかのり)村(現在の高梁市落合)に工業団地をつくった。中間経費削除も利潤極大化に作用した。その他さまざまな産業振興を成功させたが、基本は若い頃の農商経験であった。儒教だけでは、先に紹介した方谷嘲笑の狂歌となったろう。


 この結果、7年間で、借金10万両を返済し、逆に10万両の蓄財を成し得た。


 民生刷新、教育改革、軍政改革は、その言葉どおりで、ことさら説明の必要はないので省略します。


 最後に一言、幕末最終ラウンドで板倉勝静は幕府側で函館戦争にも参加している。方谷は助命嘆願、藩存続で動き回っている。その甲斐あって、板倉勝静は終身禁固刑(明治5年特赦放免)、備中松山藩は5万石から2万石に減らされて高梁藩と改名されて存続した。山田方谷は藩主・板倉勝香への忠義の人であった。そのため、明治新政府から協力要請が来たが断った。高梁の地で儒学を教え、1877年(明治10年)、73歳で大往生する。


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太田哲二(おおたてつじ) 

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。