前回までに、1973年1月から開始された老人医療費の無料化政策が、数字で見る限り、高齢者の受診意欲を大きく高めたことをみた。受療率が低かった70年代初めの、「受診できない高齢者」の問題は一気に解決したように思えるが、受診率のハイペースな向上は、つまるところ単純にいえば患者を増やしたのである。
63年の老人福祉法の制定は、年金受給の未成熟な状況や、高齢者のリタイア時期の早期性という時代環境も相俟って、医療にアクセスできない、あるいは健康づくりに関心を持たない高齢者をいわば「救済」する目的があったのであり、それは国保財政という見地から危機感をすでに持っていた農山村地域の一部の自治体が始めた先取的な取り組みに、国の政策が追従していったという側面もある。そのため、地域をあげての高齢者の健康啓発、見守り、あるいはそれをマネジメントする専門家の配置といったシステム的でダイナミズムさえ感じさせる取り組みが根底にあった。
しかし、結局、こうした運動が結実していくのは「老人医療費無料化」だけであった。むろん、この論は総体的な当時の流れを表現したものであって、当時のすべての関係者が無料化さえ実現すれば、地域医療、高齢者医療のすべてが解決すると思っていたわけではないはずだ。だが、あえて暴論的に「無料化」に集約してしまうのは、この政策が大衆から、またメディアから多大な支持をされたからであり、「福祉元年」などという甘い惹句に将来展望を見誤ったという指摘を忘れてはならないと思えるからである。
そして、当時は保守と革新という対立軸がイデオロギー色の強い時代のなかで作用しており、保守政権側が選挙に勝つための「わかりやすい福祉」の論点を選択したという側面も否定できない。保守政権側から「無料化」という獲物を引き出した時点で、革新側には勝利感があっただろうし、無料化策を先行させた美濃部都政が全国にその運動を結実させたという達成感があったかもしれない。その意味で、システム的な地域医療、保健活動の構築に対する冷静な展望が掻き消された責任は、むろん当時の政権側にもあるが、革新側やメディアにも小さくはないと思える。
未成熟な年金制度、リタイア年齢の低さなど当時の状況、高齢者を取り巻く時代環境は現在とは比較にならない。確かに人口は高齢化したが、現在、多くの高齢者は成熟した年金制度の受給者であり、定年退職年齢も当時よりは10歳以上延びている。老人福祉法の制定が喫緊の課題とされた時代とはまるで違う。にもかかわらず、「カネでカタをつけた」73年の老人医療費無料化で定着した、気軽な医療へのアクセス、高齢者医療は低価格であるべきだという遺伝子は残った。老人福祉法は一方で、日本が先進国の仲間入りをするという経済成長の具現化のひとつでもあったといえる。医療は安い、簡単にアクセスできるという「高度成長神話」を、その頃は若かった現在の高齢者にも刷り込んだ。
●社会的入院の一般化
しかし、老人医療費無料化制度の影響は、実は甘くはなかった。制度導入4年後の77年には老人医療費総額は1兆3300億円を超え、国民医療費の15.4%を占めることになる。特に国保への影響は大きく、国保医療の27.2%を占める水準となり、郡部では50%超の町村も珍しくはないという事態まで急速に医療費負担は膨れ上がっていく。78年の厚生白書は「現行の諸制度では疾病の治療対策に重点が置かれ過ぎている」と、老人医療の課題を指摘している。老人福祉法のバックボーンを軽視したツケを無料化策から4年後に早くも認識したのだ。
老人の受診意欲は確かに73年以降、急上昇した。老人医療受診率は、無料化策が導入された73年1月には、入院2.5%、入院外56.8%、総数では59.4%だったが、77年6月にはそれぞれ5.2%、94.5%、99.6%に跳ね上がっている。特に注目されるのは、入院が2倍以上の伸びを示していることだ。入院医療費をみると、73年1月は28億2400万円に対し、77年6月は87億1900万円。受診率は2倍、医療費は3倍である。このことからみれば、老人の社会的入院が増え、また医療費的には老人の入院で医療機関のミニバブルが起きたことが推定できるのだ。老人は病院で死ぬことが当たり前になった時代を数字が告げている。
●バブルで狂ったプライマリーバランス志向
こうした課題意識もあって、今に続く老人保健制度に対する必要性が77年頃から俄に論議されるようになる。77年10月には老人保健医療問題懇談会が老人保健医療対策を答申し、同年中には厚生省(当時)に老人保健医療制度準備室が発足している。このとき、課題意識として重要なのは、「老人のニーズの多様化」、「長期的な展望」、「低成長経済に入ったこと」などが、厚生省を中心とする論議の軸となっていることである。
老人のニーズの多様化は、この頃から高齢者の社会的環境が変化し始めていることを示している。最も大きな変化は、核家族化の進行だ。2世代、3世代同居から、高齢者だけの世帯増加が特に郡部から起こり始めている。73年は第2次ベビーブームが始まった。戦後の団塊世代は都会に流入し、田舎に残った親たちと世帯を分けたのである。この環境変化が、老人の社会的入院を後押ししたことは想像に難くない。
長期的な展望は、言わずもがなだが、将来の人口高齢化への対応着手の必然だが、具体策は論議が四分五裂してなかなかうまく進まなかった時代でもある。背景には、財政的な問題から、国民の応能負担、応益負担に対する理解を深める必要があった。保険料の引き上げ、特に老人医療問題から窮迫してきた国保に対する政策課題が大きくクローズアップされた時代である。保険者横断的な負担策はこの頃から実現に移され始めているが、このころ、政府がしばしば言及していた医療保険制度の一元化は未だに実現できていない。
77年にはすでに「低経済成長に入った」との認識が強調されている。財政のプライマリーバランスの問題はすでに課題であり、その要因として福祉政策の有効な政策手段の実現が求められ始めたということに注目すべきである。しかし、緩やかな拡大均衡路線は、その後のバブル景気で狂う。国は再びスケールアップした拡大均衡路線をとり、バブル崩壊後の失われた20年につながっていくのである。
このように77年の老人医療費無料化の見直し機運である老人保健制度創設への論議の一方で、現実には医療費の高騰は進んでいく。78年度の受診率は総数で101.4%と100%を超え、79年度は104.2%まで上昇している。入院受診率は5.8%で老人入院医療費総額は115億円を超えるところまでいく。
老人医療費無料化は、82年に老人保健法が成立し、83年2月からの新制度実施でピリオドが打たれる。無料化はちょうど10年間継続されたことになるが、82年の厚生白書は「老人の受療を容易にした反面、ややもすると老人の健康への自覚を弱め、行き過ぎた受診を招きやすいといった弊害」を指摘している。当初は外来1月400円、入院1日300円という軽度なものだったが、この制度変更への反発は強かった。
世論から「福祉後退」と批判されても、政府がこうした一部負担導入へ舵を切ったのは、やはりその10年間の大きな医療費の増大である。無料化は老人の医療アクセスをほぼフリーにし、社会的入院を増大し、また高齢者以外の人びとの受診動機を拡大した。また、高度成長に伴っていわゆる生活習慣病(当時は成人病)に対する関心は高まり、健康診断が定着した。医療費は国民所得の伸びを上回る上昇率が定着する。
82年にこうした医療費の増大に危機感を持って、厚生省は事務次官を長とする「国民医療費適正化総合対策推進本部」を立ち上げる。課題は医療保険制度の安定化であるが、無料化の10年間で肥大化した医療費の総量規制はそう単純にできるものではない。早急に手を打てるのは診療報酬による医療費の弾力的運用である。
そこで注目されたのは、1日当たり医療費の増加であった。医療費の増加は受療率の増加だけが原因ではない。医療の中身が濃厚になっていたのだ。医療が大量消費時代へ向け、すでにスタートを切っていたのである。受療者増でマーケット自体を拡大しておき、そのなかで医療内容は濃度を増した。白黒テレビが普及してしまうと、テレビ視聴世帯はカラーテレビを望んだ。医療の世界でも、それが起きていたのだ。
実はこうした事態は米国でも起きていた。40年前、米国の医学界の権威であったロバート・メンデルソンは、当時の日本の厚生省が言っていた「医療技術の進歩等による医療内容の高度化」を、「現代医学教」と厳しく批判している。医療技術の進歩は科学の進歩であるが、医療内容の高度化と高額化はマーケットによって先導されたものと彼は言う。「医療は医学の社会的適用」とは美しい言葉だが、「医学は医療市場で経済学的に適応される」と言い換えると、何やら色褪せる。(幸)