梅雨どきの路上でふわふわと漂う甘い香りに思わずあたりを見廻すことがある。節分過ぎならジンチョウゲ、秋口ならキンモクセイだろうが、汗ばむ日も多くなるこの時期だと何の花であろうか。雨降りだと傘が邪魔して視界が狭くなるが、においは傘に邪魔されない。傘のうちからよく見れば、匂いの主は、最近街路樹として植栽されることが多くなったクチナシである。
光沢があって葉脈の目立つ葉は花が無い時期でも綺麗で、オオスカシバやその仲間の蛾の幼虫を除けば虫がついて汚らしくなるようなことも少なく、街路の植え込みには都合が良いのだろう。加えて、この花の香りである。
花は開花するとバランスよく丸い形になるが、蕾の時期はコーンに盛られたソフトクリームを思わせるねじり模様入りで、開花の際にはこれがほどけていく。白緑色の蕾が白くなって開くが、開いた花をよく観察すると、木によって、大人の握りこぶしくらいの大きさの八重咲きのほかに、小ぶりな一重、また大きさは一重と同じくらいだが八重咲きのもの、など複数のタイプがある。花の香りはいずれもほぼ同じである。この欄にとりあげる限りは、庭木としておなじみのこのクチナシも薬用植物として紹介するということなのだが、では薬にするのはどの部位だろうか。
においが良い花を薬用その他に利用する場合は、例えばハマナスやバラ、カモミールのように、花やその抽出物を茶剤や香料に使う場合が多い。しかし、クチナシの
利用部位は花ではなく、その後にできる果実である。一説によれば、この果実が熟しても割れる口ができないので「口無し(クチナシ)」と称されるようになったという。ただし、同じクチナシでも庭木によく見かける八重咲きの花には実ができない。一重のもののみに実がつくのである。
クチナシの果実は、サンシシ(山梔子)として日本薬局方に収載されている生薬である。つまり、日本では“医薬品”としての取り扱いがあるものである。しかしまた山梔子は食品の着色用材料としてスーパーマーケットでも販売されている“食品”でもある。
生薬の山梔子は、黄蓮解毒湯などの漢方処方に配合され、利胆作用(胆汁の流れをよくする等)が期待される生薬である。弱いにおいがあって、水で抽出すると抽出液は黄色になる。成分は単純ではないが、この黄色い色の元になっている成分には高級香辛料のサフランの主成分と同じ成分(クロッシン)が含まれている。
また、黄色い色はクチナシが食品の着色料として利用されるときに使われる色でもある。例えば、お正月のおせち料理に欠かせないきんとんや栗甘露煮などの黄色い色、漬物のたくあんやキャンディーの黄色い色などは、クチナシ由来の黄色であることが多い。気をつけてみると、加工食品の原材料の欄に「クチナシ色素」と書かれたものは結構多いのだが、クチナシが利胆作用のある生薬でもあると知れば、それで色付けされた食品はなんとなくヘルシーな感じがするのではないだろうか。
しかし、生薬としての利用実績があるからといって、クチナシを着色料(食品)として使用した際にその食品に利胆作用の効果効能を謳うことはできない。香辛料や着香料、甘味料などに使用される天然素材の中には、クチナシのように、同じ素材が生薬、つまり医薬品として使用されるものが多数あるが、これらはそれぞれ医薬品として利用する場合と食品として利用する場合を区別するようにルールが定められている。俗に食薬区分と称することもある区別である。これは、昭和46年に発出されてから改正を重ね、現在もなお生きている都道府県宛て通知が根拠となっている。
正月用料理特有の素材として子供の頃から親しんできたクチナシが、漢方薬に使われる生薬であると習ったときには、筆者もいささか驚いたことを覚えているが、正月料理をアルコールの代謝を助ける利胆作用のある生薬で色づけするとは、これまたうまくできているなと妙に納得できる薬効であったというのもまた、山梔子を習った時の記憶である。クチナシは正月に限らずいつでも入手できる素材であるので、特に左党の方々には、普段の料理にうまく取り入れてみられてはいかがとオススメするところである。
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伊藤美千穂(いとうみちほ) 1969年大阪生まれ。京都大学大学院薬学研究科准教授。専門は生薬学・薬用植物学。18歳で京都大学に入学して以来、1年弱の米国留学期間を除けばずっと京都大学にいるが、研究手法のひとつにフィールドワークをとりいれており、途上国から先進国まで海外経験は豊富。大学での教育・研究の傍ら厚生労働省、内閣府やPMDAの各種委員、日本学術会議連携会員としての活動、WHOやISOの国際会議出席なども多い。