医療が市場として確立する基盤は、実は1973年の老人医療費無料化ではないかとの推論をこれまで述べてきた。実際、前回も触れたが、老人の受療率は無料化を契機に急速に拡大した。78年度には受診率は総数で101.4%と100%を超え、79年度は104.2%まで上昇しているのだ。 


 無料化は、82年の老人保健法の成立によって、83年2月からの新制度実施でピリオドが打たれる。無料化はちょうど10年間継続された。82年の厚生白書は「老人の受療を容易にした反面、ややもすると老人の健康への自覚を弱め、行き過ぎた受診を招きやすいといった弊害」を指摘している。当初は外来1月400円、入院1日300円という軽度なものだったが、この制度変更への反発は当時、強かったのも事実だ。 


 受療率の増加だけが医療市場の拡大を映す鏡ではない。無料化と医療市場の拡大の中で実は「医学の進歩」を反映する形で、医療の中身が濃厚になっていた。


 とくに米国の医学、医療技術の進歩は確実に国内医療の内容にも反映した。前回も触れたが、40年前、米国の医学界の権威であったロバート・メンデルソンは、当時の日本の厚生省が言っていた「医療技術の進歩等による医療内容の高度化」を、「現代医学教」と厳しく批判した。医療技術の進歩は科学の進歩であるが、医療内容の高度化と高額化はマーケットによって先導されたものと彼は言う。彼は、「医学は医療市場で経済学的に適応される」状況に警告を発していた。 


●実質は先送りとなったモノと技術の分離  


 医療市場の拡大は、日本では医療保険財政への負担となって現実化する。医療費は国民所得の伸びを超える成長を当時は続ける。当然、医療費の急速な膨張は社会保障費用の増嵩という状況をつくり出す。 


 医療保険財政の拡張という事態に当時の政府、厚生省はようやく「医療費の適正化」という言葉を使い始める。適正化はすなわち「抑制」である。老人医療費無料化が継続されていた時代から、厚生省にはすでに医療費全体に対する強い危機感が育っていた。無料化が終了した頃に、武見太郎日本医師会長が舞台を降り、相前後して、厚生省事務次官が「医療費亡国論」を語るようになるが、医療保険制度そのものに対する危機感はすでに横溢し、議論だけでなく、「適正化」に向けた政策は徐々に実行に移されていた。 


 74年あたりからすでに医療技術の保険適用が医療費の増嵩に拍車をかけるという認識は強かった。診療報酬改定はプラス改定が続いてはいたが、点数改定の大きな目的のひとつは「医療技術の進歩への対応」という文言が飾られる一方で、78年改定あたりからは「モノと技術の分離」が診療報酬を語る中で大きな課題となった。ドクターフィーの重視は、医療を語る中では医師の技術を評価するモノサシとしては妥当な匂いがする。 


 しかし、老人医療費無料化によって入院、社会的入院が拡大する中で、ドクターフィー偏重の診療報酬改定は、ホスピタルフィーの傾斜配分を減らすことになる。老人医療の充実は実際、診療報酬論議で行われるべき医師の技術と、モノの対価に関する基本的な論議を実際には先送りすることにもなったとみることができる。 


●新薬へのシフト?  


 モノに対する制度対応は薬価基準制度からスタートしている。潜在技術料ともいわれた薬価差益に対する社会、メディアの批判は厳しさを増していた。医薬品の公定価格に手を付けるという選択肢は社会的には合意を得やすい状況があったというべきだが、実は「潜在技術料」という言葉は字義通りであって、その後、薬価を引き下げるとその分を医師の技術料に振り替えるという論理が大手を振ることになる。


 しかし、医薬品価格、薬価制度に手をつけることは、医療保険財政そのもの、一定のパイの中でのやり取りであることに変わりはなく、その後の医療費の増嵩はその要因の第一が「自然増」という言葉に置き換わり、その自然増をほぼ無視する形の「国民所得の伸びの範囲内」というシーリング論、キャップ制の台頭につながることになる。 


 薬価基準は、90%バルクライン方式で算定された価格を統一限定収載方式で定められていたが、その改革の最初が78年2月から実施された銘柄別収載方式の採用。ただ、この収載方式の大転換の際でも、78年の薬価引き下げ幅は5.8%(医療費ベース2.0%)だった。ただしこの改定幅は全面改正では当時では最大の引き下げではあった。ちなみに診療報酬の引き上げ幅は平均で9.6%だった。高度経済成長の中、まだまだ余裕ある改定であり、医薬品という「技術の進歩」に対する遠慮気味の印象も伝わる。 


 しかし、78年改定ではその後、収載品目数は1万5000品目に上る。これは同年9月の数字だが、78年2月の全面改定時には1万3600品目あまりだから、全面改定後になぜか収載品目数は急増したことになる。 


 薬価改定に対する厳しさはその後、急速にピッチを上げる。81年6月の全面改定では改定率は18.6%(医療費ベース6.1%)の大幅改定となる。この当時、薬価差益に対する社会的批判はピークに達していた。大幅改定を受けたこともあったのか、収載品目数は1万3000品目を下回る水準となっている。ちなみにこの時の診療報酬改定幅は8.1%の引き上げで、いわゆる振り替え機能は実質に近づいている。当時の日本医師会は、技術料の引き上げ原資として薬価の大幅引き下げは妥当性があるとの認識を示していた。薬価改定はその後、83年1月に▲4.8%、84年3月には▲16.6%の引き下げが行われている。 


 薬価改定は、81年改定の▲18.6%という大幅引き下げで「薬価差益」からの脱却に着手している印象が伝わるが、薬価が引き下げられる一方で実は新薬承認数にも変動がみられる。 


 大幅改定の81年には新薬承認数(成分ベース)は61成分である。その前年の80年は33成分だから倍増している。また翌年の82年は36成分にすぎない。また16.6%の引き下げの84年の新薬は26成分だが、翌年には53成分に倍増する。大幅な薬価改定が行われた途上では、一方では新薬承認数が増加している。医療用医薬品市場で、薬価が引き下げられた品目から、新薬へという流れが推測できるのだ。つまり、低薬価品から高薬価品へのシフトが市場では行われていたのはかなり濃厚だといっていいだろう。 


「医療技術の進歩」のシンボル的存在である医薬品市場は、大幅な薬価引き下げが行われても高薬価品へのシフトによって、成長の速度を緩めないメカニズムが機能していた。また、老人の患者増により、成人病関連の新薬開発が加速したことも、医薬品市場の成長メカニズムを支えていたということになろう。なお、医薬品開発と市場メカニズムの関係については、各論の中でもう一度触れたい。 


 次回は、老人医療費無料化によって上がった受療率の一方で、無料化が行われていた期間に急速に診療内容が高度化した実態から、医薬品だけでなく、医療機器の導入に伴う影響をみると同時に、82年から本格化する「医療費適正化」の流れをみてみる。(幸)