(1)母、藤原伊子の運命
道元(1200~1253年)の生涯も劇的なのだが、母の藤原伊子(いし、生没推定1167~1207年)の運命もドラマそのものである。
平家全盛の時代となり、藤原摂関家主流の藤原基房(1144~1231年、太政大臣、関白を歴任)といえども、斜陽の身となる。木曽義仲が平家一門を京都から追い出すと、藤原基房は政界復帰のチャンス到来と判断し、木曽義仲に三女の伊子を差し出す。義仲の正室となった伊子は17歳、絶世の美女で、山猿のような義仲は伊子にメロメロ。基房は思惑どおり政界の主導権を回復したが、義仲の没落で再び権力を喪失する。
京都政界は紆余曲折を経て、希代の権謀術数家・源通親(みちちか、1149~1202年)が、土御門天皇(83代、在位1189~1210年)の外祖父として「外祖の号を借りて天下を独歩するの体なり」と評されるように独裁的権力を握る。
若干の注釈だが、源氏には21流ある。鎌倉幕府を築いたのは武家源氏の「清和源氏」である。通親は公家源氏の「村上源氏」である。通親が活躍したのが「村上源氏」の全盛期である。他の源氏では「嵯峨源氏」がやや有名なくらいである。なお、通親は和歌の分野でも活躍している。
さて、藤原基房は権力回復にため、またもや伊子を権力者・源通親の側室として差し出す。30歳前後とはいえ、比類なき美貌・容姿、50歳を超える通親は伊子の魅力にイチコロ。そして出産。それが道元である。
なお、基房の政界復帰の目論見は果たせなかった。ただし、基房は有職故事の最高知識者として重んじられていた。
道元の父・源通親は道元が3歳の時死亡した(暗殺かも)。その後、道元と母・伊子は宇治の山荘でひっそり暮らした。その母も、8歳の時に亡くなった。
(2)料理人との出会い
末法思想が時代背景にあり、栄枯盛衰・権謀術数の真っ只中のあった母、道元の思想に無常観が色濃く出るのは、ごくごく自然なことだ。無常観は往往にして世捨て人的な人生に流れるものだが、道元にあっては、あまりにも強い無常観のためか、強烈な求道の人となった。
摂関家からの養子の誘いを拒否し、比叡山で出家し、天台教学を修学する。道元の強烈な求道は比叡山だけで満足するわけもなく、各地の師を求めて遊歴する。建仁寺で、栄西の弟子・明全に師事した。しかし、どこか全面的にストーンと納得がいかず、20歳にして、わが国の大師・高僧は「土瓦」(つちかわら)でダメだ、と断言する。ただ、本場・中国の禅宗に自分の求めるものがありそうだ、と直感するに至る。それは、明全も同じ思いであった。
入宋のチャンスを待つこと4年、道元はやっと日宋貿易船に乗る。この時、道元だけではなく、明全ら禅宗求道者数名も乗船した。また、瀬戸焼の開祖・加藤景正も乗船していたと伝えられている。
雨や嵐を乗り越えて、明州慶元府の港へ到着した。上陸準備で、船中に滞在していたある日、ひとりの老禅僧がやってきた。
これが運命の出会いである。
この老僧は、禅宗五山のひとつ阿育王山の典座(てんぞ)で、船に椎茸を買いに来たのだ。典座とは、寺の食事を担当する役職のことで、要するに、料理当番である。
道元は、老僧を、買い出しの使い走りをしているくらいだから、軽くみなしていた。しかし、雑用の老僧でも少しは本場の禅宗の雰囲気を知っているだろうと思い、暇つぶしに話かけた。
「どうだね、今夜は、私が接待するので、泊まっていきなされ」
典座は、料理の役目があるので、と断った。
「阿育王山のような大きな寺なら、典座は大勢いるでしょう。あなたひとり、いなくてもお寺は困らないでしょう」
「この年になって初めて典座のお役につきました。このお役が最後の弁道(修行)と思っています。大切な典座のお役をどうして他人に譲ることができましょうか」
「弁道と言ったって、あなたは座禅もせず公案も工夫せず、料理しかやっていないじゃないの」
そこで老典座、高笑い。
「外国のエリートさんよ、あんたは、まるで弁道の何たるかをわかっちゃいない」
道元はビックリ仰天。すかさず尋ねる。
「如何ならん是れ弁道」
老典座の答が、禅宗らしい禅問答。
「若し問處(もんじょ)を磋過(さか)せずんば、豈(あ)に其の人に非ざらんや」
翻訳するのが大変な代物ながら、一応は、こんな意味。
「その質問が本物ならば、それが弁道を悟った人というわけじゃ」
道元さっぱりわからず、きょとんとしている。
「ご納得できなければ、後日、阿育王山へいらっしゃい。じゃ、バイバイ」
日本の大師・高僧を土瓦と言い切った道元だ。日本でナンバーワンくらいの自負を持っていたのに、あっさりとぺいぺいの雑用僧に翻弄されてしまった。大ショックと同時に、何が何だかわからないが「ぺいぺいの料理人でも、自分よりも、で・き・る」と直感した。
その後、道元は禅宗五山のひとつ天童山で本格的な修行をする。さらに、自分の全身全霊を投げつける「正師」を求めて、宋各地の禅寺を遊歴する。求めて求められず、失意の内に天童山に帰る。すると、そこに、新住職・如浄がいた。ついに「正師」発見。そして道元は、ストーンと大悟した。
かくして、28歳の道元は大満足で帰国する。経典や仏像のお土産なし、「空手にして郷に帰る」。自分が仏法・正法そのものだから、これ以上のお土産はない、というわけだ。
帰国後、京都の建仁寺に滞在していたが、34歳でわが国最初の本格的座禅僧堂・興聖寺を開設した。しかし、ここを拠点とする洛中布教は失敗に終わり、道元教団は越前に移り、永平寺を開山する。
(3)典座教訓
道元の著書と言えば、『正法眼蔵』である。若い頃、読もうと挑戦したが、数ページであきらめた。あの本を読破するには、相当に骨が折れること間違いなし。
もうひとつは、独立した6巻からなる『永平大清規』である。「清規」(しんぎ)とは、道場の規則の意味である。その第1巻が『典座教訓』で、帰朝まもない京都の興聖寺時代に書かれたものである。料理のお役の大切さ、料理人の心掛けなどが内容となっている。とてもわかりやすく書かれてあるから、『正法眼蔵』でビビった人でも『典座教訓』なら容易に読める。かく言う私もそのひとりである。禅僧の講和でも、おそらく『正法眼蔵』テーマは極めて少なく、一番多いのが『典座教訓』ではなかろうか……。
前述の船中典座問答も『典座教訓』に書かれてある。もう一度、繰り返してみよう。
「弁道(修行)とは何か」
「本物の質問なら、それが弁道だよ」
すなわち、「本物の質問」⇔「本物の修行」⇔「悟り」である。
それから、船中典座問答は、単に料理人のプライドなどということではない。禅では、「修行」とは生活を離れてどこか別世界に存在するものではなく、まさに生活そのものが「生活禅」となり得る。作図すると、三角形の3つの頂点に、「禅修行」「料理(生活禅)」「悟り」が置かれ、その3つは離れて存在するのではなく、三身一体で三角形となる。
さて、『典座教訓』の最初には、典座のお役は重要だよ、ひたすら食事づくりに打ち込むことは修行に他ならない。やる気がないものが、典座をしても苦労だけ……そんなことが書かれてある。
次に具体的な典座の職務が続く。たとえば、
①料理の材料は自分の瞳を守るように大切にせよ。米一粒、とぎ汁一杯も捨ててはならない。材料に不平を言ってはならない。
②料理は、三徳六味の具合でなければならない。
三徳=軽軟:軽くて柔らかいこと。浄潔:けがれがないこと。如法作:規定を守って丁寧に作ること。
六味=苦い、酸っぱい、甘い、辛い、塩辛い、淡
というこうなのだが、どうも「淡」がわからない。味が薄いことかな?
なお、「三徳六味」の言葉は、『大船涅槃経』などに記述がある。また、禅問答の『雲門録』にも見られる。
③台所道具は清潔に保ち、整理整頓。手ぎわよい順序でスムーズに。食事人数掌握が大切。
『典座教訓』は料理学校の教科書ではないので、具体的な典座の仕事内容と、修行・悟りが混然一体となっている。だから、そのつもりで読んでください。
禅寺、厳しい修行……そんなイメージからすると、禅寺の食事は「粗食・まずい」と連想しがちだ。しかし、道元は「三徳六味」が大切と教えている。だから、禅寺の食事がまずかったら、その禅寺は「修行が足りない」と判断して差し支えない。実際問題、私が体験したかぎりでは、工夫があって美味しいものであった。
天ぷらの歴史を調べていたら、鎌倉時代の禅寺では野菜を中華風に油で揚げるユウジイ(今のかき揚げに類似)なるものがあったそうだ。禅寺の典座の工夫を思い浮かべる。
さて、『典座教訓』をとおして、現代日本の食産業・食文化の欠陥を述べておきたい。
①材料・資源の無駄づかいは目にあまる。
②一流の素材で一流のコックだから美味しい料理という雰囲気が強い。そんなの当たり前じゃないの。粗末な素材でも工夫して美味しく作るのが「本物の一流コック」と思う。
③六味調和の美味しい料理をつくることに熱心で、栄養過多を軽視しているような感じがする。
④食事直前に禅寺の僧達は、料理の前で食前のお経を唱える。あれは、健康のための「お口の体操」になっている。「お口の体操」の効能を広めたいものだ。
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太田哲二(おおたてつじ)
中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。