前回、老人医療費の無料化という受療率の引き上げ、そして診療報酬という進歩する医療技術の公費化、診断精度の向上と検査の迅速化によって、患者数全体のボリュームを引き上げたうえで、医療内容を診断から治療まで高度化、濃厚化することにより、国内における医療市場はその構築を成し遂げることになったことをみてきた。


 消費者(患者)を発掘し、その消費行動(受療)を確立させてから、供給する商品(医薬品、医療機器、診断技術)の多様化、高品質化を推進して消費者を市場にとどめる。消費行動の確立(受診意欲の向上)からスタートし、その消費内容の高額化(1日当たり診療費の増加)によって、医療市場は確立していった。市場ができれば、そこには雇用や、関連商品の産業化を含めた経済構造が社会の不可欠材料として機能することになる。社会保障費用の削減などという極めて簡単な政策で市場を縮小させるには、目的を超えてしまう大きなエネルギーを消費するリスクさえある。 


●科学がもたらした有益-医薬品 


 医療市場の拡大を単純に、また例証的にみていくうえで、重要な素材は医薬品である。ここからは、医薬品問題に関して主に1961年の国民皆保険からの流れをみていきたい。ただ、ここでは薬価算定方式やその論議、医薬品の有効性や安全性に関する論議と監視の問題などにはあえて触れない。薬価算定方式は、論議が医療市場の拡大抑制、つまり医療費適正化の課題と密接にリンクしていることは当然だが、そこに入るとこのコラム自体が薬価制度論に陥ってしまう。医薬経済社の別の論客に譲るのが賢明だと、筆者は狡い選択をしたことを宣言させてもらう。 


 もうひとつ、医薬品の話に関して、筆者の基本的姿勢は明らかにしておく。医薬品は医療行為の中で、治療行為の中で最高に重要なものである。近代医療の、特に治療分野は薬物治療なくして成立しない。医薬品の進歩によって、実は医療は変革してきたし、「市場」としても成立をなし得たのである。医薬品の開発が人類にもたらしたのは幸福や希望であること論を俟たないし、その前提で医薬品について論じていくことを了解してほしい。


 これについては、英国で医薬品データ開示運動を展開しているベン・ゴールドエイカー医師も、著書「悪の製薬」(青土社)の中で、「医薬品は臨床世界の中で欠くべからざるものであり、(本来は)良質な科学で生み出され有益である」と述べている。ある意味、医学の進歩は、医薬品を開発する科学の進歩である。そしてその時代は、未だに続いているといっても過言ではないだろう。それだけに、「科学」的ではない行動、あるいは「良質の科学」で生み出された医薬品が、市場で不正・不当な扱いを受けることに厳しい目が向けられるのは当然のことである。 


●金融機能を持った医薬品


 医薬品、特に医療用医薬品は国民皆保険制度とともに大きく伸長した。厚生省薬務局(当時)の調べでは、国民皆保険の前年、1960年の医薬品生産金額は2500億円程度だが、61年の皆保険後に順調に伸び、70年には1兆円を超えている。60年と70年の間に皆保険という制度を挟んで大きく伸びたのは医療用医薬品だ。例えば68年は医薬品総生産額に占める医療用シェアは70.9%で7割を超えた。 


 医療用医薬品と「その他の医薬品」(この場合、大半は配置薬も含めて今で言う『大衆薬』あるいは『一般薬』という概念で括られる)の関係の転換は、実は国民皆保険制度と密接に関連している。皆保険制度の少し前に、結核のような重篤な感染症は下火となり、衛生思想も普及したこともあって、国民は健康を取り戻しつつあった。1950年代の終わり頃には、保健薬ブームなどもあり、大衆薬はそれなりの地位を得ていた。 


 皆保険制度は、今に続く日本の医療保険制の根幹だが、制度発足当時は、被用者保険本人の給付率は10割、家族は5割であった。また国民健康保険は本人・家族ともに給付率は5割だった。スタート当初は、かなり大きな問題を抱えていたことが類推できる。例えば「当時は健康保険の本人の一部負担はついていませんでしたから、風邪が流行ると、家族を代表して健康保険の本人がせっせと受診します。風邪薬をうちに持ち帰って家族で分けて飲む」(篠崎次男、「21世紀に語り継ぐ社会保障運動」あけび書房)などということも日常的に行われていたし、また風邪薬に関しては大衆薬への依存度はまだ高かった。篠崎氏のレポートは、老人が5割負担を嫌って受診しないために、用量の多い薬を服用して倒れるケースが多かったことにも触れ、こうしたことが老人福祉法制定の動きにつながり、老人医療費無料化につながったことが指摘されている。 


 68年にシェア7割を超えた医療用医薬品は、69年には73.1%、70年75.1%、71年77.9%と年を追うごとに急伸する。医療用医薬品の生産金額も70年は7704億円だが、71年は8261億円で、前年比で7.2%伸びた。しかし、この間、大衆薬は8.1%減少している。この頃の各種レポートを見ると、国民皆保険が定着し、70年以後に急速に医療用医薬品生産金額が伸び始めている。また、大衆薬に関してはドリンク剤やビタミン剤が大幅に減産に転じたことも明らかにされている。 


 ここで眺めておかなければならないことはいくつかある。ひとつには国民皆保険制度は、当初の給付率の問題があって、受療へと向かうエネルギーとしては小さかったのだが、69年頃から医療用医薬品の使用意欲が急速に拡大していることだ。医療用対一般用医薬品の比率はこの頃から7:3から8:2へと移行し始め、現在のほぼ9:1にまで続く契機となっている。 


 さらに70年に実質的に禁止されたが、その前までには医療用医薬品の添付行為が医療用医薬品市場ではかなり日常的に行われていた。本質的には薬価差益がこの頃には、医療機関サイドには常識化していたとみるべきだ。添付行為が医薬品流通の中で褒められた商行為ではないことは自明だが、医薬品が医療提供体制の整備に果たした金融機能は決して小さくはない。医薬品が果たした金融機能については、次回に触れるとして、添付という行為を象徴として顕在化した薬価差益は、その後の医療費をめぐる問題のなかで最も大きな論点となってきた。 


 注目すべきは、国民皆保険定着の中で、薬物療法が診療側も患者側も治療の手段として最も大きなメリットをもたらす、あるいは効果があると認識されたこと、また薬物治療が本質的に「医療」の基本になったという決定的な認識の確立の時代が65年以降70年までだったという仮説を唱えることができることだ。医療機関には医薬品は経営原資として金融機能を果たし、患者には「治療」という福音をもたらし、医薬品提供側には産業の成熟というメリットをもたらした。そして、それは73年からの老人医療費無料化を迎える中で、さらに強力な市場拡大戦略を可能にしたのだ。  医療費中に占める薬剤費は67年に4割を超えている。この4割時代は73年まで続く。74年には薬剤比率は37.3%にシェアを落とすが、薬剤費自体の伸び率は止まったわけではない。医薬品生産金額もこの年は前年比6%伸長している。


 実は、74年は2度の医療費の引き上げが行われ、高額医療負担制度がスタートした。そして前年の73年には老人医療費無料化がスタートした。現実に国民医療費は73年の3兆9496億円から74年には5兆3786億円へと前年比36%も増加した。医療費引き上げがモノと技術の分離という目標の中で行われたこと、相対的に医療需要が急増する中で、薬価引き下げの影響も少なくはなかったということだが、それでもこの年でさえ、薬剤費の絶対額は2兆円を超える。 


 医療保険という市場の中で、医薬品は不動の存在となったことは自明である。そして、老人医療費無料化によって、高齢者の受療率がジャンプアップし、高齢者特有の「成人病」関連の新薬ニーズが高まる。薬価は下がっても、新薬シフトへの環境は整っていったのである。(幸)