今は昔、選挙区の有権者に1000円相当の「線香セット」を配布したことが、公選法違反になるとして、衆議院議員を辞職、3年間の公民権停止に服した自民党議員がいた。のちの防衛相・小野寺五典氏、2000年のことである。モリカケ問題など、さまざまな疑惑をごまかしてやり過ごす安倍政権においても、選挙区でうちわを配った松島みどり法相が就任翌月に辞任したり、東日本大震災の発生が「東北でよかった」と失言した今村雅弘・復興相が更迭されたりと、ごく少数だが「責任をとった事例」は存在する。
だが、今回の内閣改造では、有権者にメロンやらカニやらを贈っていた菅原一秀経産相の疑惑が週刊文春に報じられ、その贈答先リストまで流出し国会で追及されたにもかかわらず、当人はのらりくらりとごまかすだけ。しかも、ほとんどの情報番組が話題にさえしていない。隣国が法相候補者の醜聞で揉めると、「日本では考えられない問題だ」と日テレやフジテレビの番組キャスターは嘲笑していたが、自分自身は自国政権の問題に口をつぐんだまま、恥じるところがない。自民党・二階俊博幹事長の台風被害への今村・元復興相と似た失言も、曖昧な謝罪だけでスルーされてしまった。
そんななか、文春は今週も『「菅原経産相の指示でメロンリストを作った」 元秘書が決定的証言、有権者の「お礼状」公開』と続報を放っている。文字通り、孤軍奮闘だ。芸能人の不倫などの“文春砲”に対しては、目の色を変えて後追いをするテレビなのに、政権批判につながる話では、本当にもう、社会主義国かと思うほど報道を差し控える。ずいぶん酷いことになってきたと思う。
で、その文春、トップ記事のスクープは、神戸市の小学校教員たちによる若手イジメの話である。『東須磨小「悪魔の職員室」 神戸イジメ教師は後輩男女教諭に性行為を強要した』。中身はもう、不良高校生集団の出来事か、と見紛うほど、生々しく、えげつない。学校の教員が「聖職」とは思わないが、ここまでタガが外れた連中がのさばっていて、校長も市教委も見て見ぬふりをする現実を知ってしまうと、この国の衰亡を防ぐ術はもはやない気がする。G7だなんだで「先進国」を名乗るのは本当にもう、恥ずかしくやめてほしい。
週刊新潮は、過去四半世紀に起きたさまざまな猟奇犯罪とSNSとの関連をまとめた特集記事を載せている。『すばらしきかな「スマホ社会」⁉ SNSがなければ「失われなかった命」』というタイトルだ。週刊新潮は古臭い紙の雑誌だが、この媒体自体もまた、妬みや僻みなど、人々の“ドス黒い負の感情”を伝統的に掻き立てて売上げにつなげてきた歴史がある。だが、それでも記事が言う通り、SNS、スマホ社会のもたらす精神の荒廃には、そういった話を凌駕する深刻さがあるように思える。
この記事で、作家の適菜収氏は「SNSで世界中の人と繋がることで、さまざまな考え方を知って視野が広がるでしょうか。答えは否です」と述べ、むしろ極端な人たちが同質な者同士、考えの“正しさ”を確かめ合い、結束することを促す面が強いという。小学校の職員室が現実社会にある閉ざされた“ムラ社会”なら、ネットにはバーチャルなムラ社会が無数に存在するわけだ。“ムラ人”の間では、いびつな考えをいびつと思わない“彼らの常識”が共有され、実行に移される。これに対し“世間一般の規範・常識”を掲げるべきマスメディアはと言えば、その現実はもう、前述した通りのありさまだ。あれこれと記事の飛ばし読みをするうちに、暗澹たる気分になった秋の1週間だった。
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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。