(1)完全な破産状態 


 昔の人は名前が変わることが多い。今回の昔人も、松三郎→直松→勝興→治憲(はるのり)、さらに隠居後剃髪して、鷹山(ようざん)と号した。面倒なので、この原稿では「鷹山」で通します。 


 上杉鷹山(1751~1822年)は名君、偉人である。内村鑑三はその著『日本及び日本人』(後に『代表的日本人』に改題)の中で、西郷隆盛、二宮尊徳、日蓮、中江藤樹とともに上杉鷹山を日本が誇るべき人物だとしている。ケネディ大統領も上杉鷹山を称えていた。 


 そうは言っても、神仏ならぬ生の人間、なにかしら欠点、弱点、文句があるものだ。そんなへそ曲がり気分で、過去、上杉鷹山に関する本や雑誌の文章を読んだが、「封建制度の限界」ということを意識さえすれば、ますます「やっぱり上杉鷹山は偉人だな~」と思ってしまう。 


 戦前教育では、「理想の偉人」として大々的に教えられていた。戦後教育では、「しょせん封建時代のお殿様」という意識のためか、あまりパッとしない。ど派手なチャンバラや合戦をしているわけでもないから、NHKの大河ドラマにもならない。 


 しかし、不景気になると、上杉鷹山の質素倹約が時々脚光を浴びる。でも、経済学者は「消費拡大」を述べる。「饅頭食うな、饅頭食べろ」では、一般庶民は困ってしまう。そんな観点からも上杉鷹山は、あまりパッとしないのかも知れない。 


 それに、「質素倹約だ!真面目に一生懸命働きましょう!」だけでは、一般庶民にとっては面白くも愉快でもない。組織のリーダーの朝礼挨拶には都合がいいのだが……。 


 上杉米沢藩は戦国の英雄・上杉謙信を祖とし、謙信死後、関ヶ原の合戦(1600年)で西軍に与したため、120万石から米沢30万石へ減封された。さらに1664年、藩主が急死で廃藩のところを、ごまかしの末期養子を許され、15万石に減封された。この時の養子が忠臣蔵の悪役、吉良上野介の実子で、テンヤワンヤの大騒ぎ。赤穂事件(1703年討ち入り)はともかくとして、越後以来、約6000人の家臣団の数は15万石になっても、多少の減少はあっても基本的に変化がなかった。当然、人員オーバーだから経営ピンチ。さらに、全般的社会変化のため藩経営は大ピンチ。忠臣蔵以後、病弱な藩主が続いたため短期間で次々に藩主交代で改革できず。 


 やっと8代目の上杉重定(1720~1798年)は健康体質だったが、藩経営の才能はなく遊び耽って借金増大。しかも、藩主側近の森平右衛門の専制・腐敗がまかり通って無茶苦茶。反森派の重臣・竹俣当綱によって、1763年、森は暗殺された。赤穂事件以後、心ある藩士は「なんとか改革を」と思ってはいても、できたことは森暗殺だけだった。暗殺だけでは、藩の天文学的赤字財政が解消するわけもない。上杉重定は、借金苦を考えるのが面倒で、藩領を幕府に返上しようと本気で思ったくらいだ。 


(2)重臣が舞台を準備 


 上杉重定は、1759年時点で、男の子供がいなかった。そこで、重定の長女・幸姫に婿養子を迎えることになった。遠縁に賢い男の子(10歳)がいた。それが上杉鷹山である。すんなり婿養子決定。


 心ある藩士の間に、グータラでバカ藩主を聡明な若き藩主に変えて藩政改革を、という雰囲気が広がる。遠慮がちに、遠回しに引退を勧める、なんてものじゃない。実に、バカでもわかる説得である。 


「御前は、政治・財政に無関心で、これまで何回も改革案を上申しましたが、実行されたことは何ひとつありません。御隠居なされたならば、これまで以上の贅沢も構いません。御前の好みの者を召仕っても構いません。御隠居なされたならば、いくらでも休めますし、いくらでも朝寝できます。藩主引退後の安楽な生活を保証します」


 こうまで言われても、地位や名誉はスゴイ魔力を持っている。そう簡単には手放さない。あれやこれやの綱引きの末、1767年、ようやく17歳の青年上杉鷹山に家督が譲られた。


 上杉鷹山の質素倹約政策で、前藩主の贅沢継続に対して手を打たなかった、とする声もあるが、それは藩主交代の経緯を知らないから、そんなことを言うのだろう。 


(3)大倹令 


 17歳で藩主に就任するや、藩政改革の一大決意表明を、江戸屋敷から密使を国元の上杉謙信を祀る春日神社と米沢城鎮守の白子神社へ派遣し、『誓詞』を奉納させた。また、和歌「民の父母」を詠んだ。 


 受次いで 国の司の身となれば 忘るまじきは 民の父母  そしてすぐさま、江戸屋敷から「大倹令」を発表。原文そのままだとわかりにくいので、私なりの要約を記載します。


 私は小藩(高鍋藩3万石)から、大藩(米沢15万石)へ養子に来て、家督を譲り受けた。


 このまま上杉家滅亡を待って、国中の人民が苦しむことは、ご先祖様にこれ以上の不孝はない。 


 ここまで衰退した上杉家を建て直す見通しはなかったので、担当筋に相談してみたが、みな同様に、立て直すのは難しいとのことであった。


 しかしながら、なにもせず居ながらにして滅亡を待つよりは、君臣力尽きるほどの大倹約を執行すれば、もしかしたら立ち行くこともあるかもしれない、このことしかないと思い立った。 


 今日一日を心安く暮らすことと、明日に家が立ち行かなくなることは取り換えられない。


 今日の難儀と当家の永続を取り換える心得をもって、各人の心をひとつにして力を尽くしていこう。 


 まずは私の身の回りから始め、あらゆることを省略していく。気づいたことは遠慮なく申してほしい。 


 申すまでもないが、下々の者が立ち行かなくて、我ひとりが立ち行くことはない。 


 藩士も百姓も大倹約をなせば今は難儀・不自由となるが、一人ひとりが家を永続し身を安んじるようにしたいと思い、重い倹約を出した。 


 このことを考えれば、今の難儀は難儀とも不自由とも思わないであろう。 


 この心得をもって各人がそれぞれの家々で倹約を取り行い、子孫を保ち、親類も睦まじく、末永く米沢藩を存続させる心得が肝心である。 


 このこと頼み入ります。


 祖母が「我が孫ながら賢い」と喜んでいるのだが、それにしても17歳の青年にしては、「すごい!」と思う。「天性の賢さ」プラス「教育者」がいたから。儒学者・細井平洲である。上杉鷹山はすでに細井平洲の哲学を理解していた。そして終生、それを行動規範にした。


 細井平洲は、藩主になる直前の上杉鷹山に対して、「勇なるかな勇なるかな、勇にあらずして何をもって行わんや」(意味:勇気だ、勇気だ、勇気がなくては何もできない)という激励の言葉を贈っている。それに呼応して若き鷹山は、「よぉ~し、細井先生の教えを勇気をもって実践してやる!」というわけである。 


 蛇足ながら。細井平洲と上杉鷹山の関係はそれとして、細井平洲は尾張出身ということもあって、尾張徳川家の藩校・明倫堂(現在、愛知県立明和高校)の学長になっている。私は、その明和高校の卒業生です。 


 話を大倹令に戻して。上杉鷹山は、自ら発した大倹令のとおり、まず、自分の身の回りから大倹約を開始した。そして、藩士・百姓へ拡大させようとした。 


 家督相続の祝儀の御馳走を、従来の「豪華料理と酒」から「赤飯と酒」に変更。要は、形式的支出、儀礼的支出の排除。


 自分の仕切料(生活費)を、1500両から209両へ、実に7分の1へ大幅削減。  奥女中の人員も50人から9人へ削減した。幕末の実力者、水戸藩主・徳川斉昭(15代将軍徳川慶喜の実父)は「9人とは妾の数であろう」と言って信じなかった。


 食事は一汁一菜。自身が率先模範を示した。今日の医学界からは、これによって鷹山は長生きできたと言われている(満70歳で死去)。なお、鷹山自身は酒を飲まなかった。冬に甘酒を椀に1杯飲んだ。薬用酒をたまに飲んだ。


 米を材料とする酒や菓子の製造禁止。 


 衣類は木綿。これも自身が率先模範を示した。藩主在任中および隠居後も、下着にいたるまですべて木綿を使用した。江戸で薩摩藩招待の責馬(せめうま)があった。責馬とは馬の調教のことであるが、当時は、それを名目にした上流武士のパーティーである。ひとり鷹山だけが木綿袴で、参加した他の大名は「みっともない、見苦しい」と感じた。念を押しておきますが、誰も「質素でなかなかよろしい」なんて思わなかった。


 祭礼、年中行事の制限・簡素化も当然実行した。鷹山の長子の葬式は極めて簡素化された。そして、この時、火葬の慣習を土葬に改めた。これは木材の節約である。ただし、木材の節約のためとは公言されていない。儒教的思想で、霊魂・肉体は一体で云々、土葬が優れて云々、と理論武装された。


 鼻紙袋や煙草道具などは秋月家から持参したものを一生使い続けた。上杉鷹山は、JT(日本たばこ産業)が大喜びする「質素倹約でも愛煙家」であったのだ。愛煙家で長命の偉人である上杉鷹山は、そのうち煙草のCMに登場するかも知れないな(笑)。


 上杉鷹山の質素倹約のエピソードは数々あるが、省略する。質素倹約は時とともに領内に広がり、現代でも根付いている。その証拠に、山形県の米沢市など市町村はさほどの努力なしに「1日1人当たりごみ量」がずいぶん少ない。ただし、昨今は、他の都道府県市町村が猛烈にごみ減量化政策を推し進めた結果、トップではなくなったが、依然としてトップクラスである。 


 なお、質素倹約で金がないから、当然、幕府役人への賄賂・接待もできない。そのため、1769年に江戸城西の丸普請手伝いを命じられ、逆に出費が増加した。世の中、ままならぬものだ。 


 さて、話は前後するが、藩主就任直後、江戸屋敷から、国許の米沢の神社へ『誓詞』を奉納、大倹令を公布、江戸屋敷で自ら質素倹約を実行、米沢と江戸を往復する藩士にテキパキ指図した。藩主就任の2年後、初めて米沢の地に入った。上杉鷹山の心境は伴淳三郎の「アジャパー」である。


 余談ですが、伴淳三郎は山形県米沢市出身の戦前~戦後の喜劇役者。私が推薦する代表作は映画『二等兵物語』です。それから、有名なエピソードとしては、徴兵検査には、きれいに化粧し、女装で出かけた。検査係官は、その格好を見て激怒し検査会場から追い出した。さらに、検査直前に醤油を1升分飲み、肝臓病を偽装して徴兵を逃れた。「アジャパー」とは、「アジャジャーにしてパーでございます」を短縮したもの。「アジャジャー」は山形県の方言で「あれまあ」に相当する。「パー」は「クルクルパー」の「パー」である。当時、大流行した。 


 本筋に戻って…。 


 若き鷹山は、米沢でも、ある程度は質素倹約が実行されているだろうと期待していたが、それが全然なされていない。17歳の若造、しかも3万石の小藩から来た養子ということで、完全に無視されていたのだ。 


「今こそ、細井平洲先生のおっしゃった『勇気』だ」 


 孤立無援の米沢の地で、単身、改革に突き進んだ。藩主自ら鍬を握って土を耕し始めた。上杉家では前例のない異常行動。米沢藩では下級武士は半士半農が多いのだが、江戸時代は兵農分離、士農工商が大原則、「(上級武)士」は「農」と完全に一線を超えている存在である。いわんや、藩主が「農」をするとは、前代未聞のことであった。士農工商の大原則からすれば異常・奇抜行動だが、上杉鷹山は儒学者・細井平洲の信奉者である。彼の哲学には農本主義も重要な柱である。いわば、上杉鷹山は頭の中だけの哲学を体で実践したのである。知識を自ら実践することも、細井平洲の哲学の重要な柱である。 


 藩主が自ら鍬を握る。そして下級武士を荒地の田畑開墾に動員した。タダ働きではなく、家屋と土地の提供がなされ、多くの下級武士が参加するようになった。 


 同時に大倹令も普及していった。 


 しかし、何事にも反対・抵抗はつきものだ。それに、上杉鷹山の改革は、既存の価値観(当時の常識)に立つ限り、間違い(儀式の前例を逸脱、一汁一菜や木綿など些末なこと、重役無視)なのだから、当然、反対の動きが出る。 


 藩主就任5年後の1773年、「七家騒動」が勃発した。米沢藩重役会議は10人で構成されているが、その重役7人が、改革中止と改革推進奉行の竹俣当綱(先代側近森平右衛門を誅殺した人物)の罷免を、鷹山に強訴した。4時間にわたって強引に直談判した。どの程度の強引さなのかは想像力の問題だが、「改革中止、竹俣当綱罷免を約束なさるまでは、我らこの場を動きません(お殿様もこの場から離れないでください)」くらいのことはあったであろう。とにかく、基本的に、絶対権力者・お殿様に歯向かったのだ。 


 上杉鷹山は部屋から脱出し、7人の訴え内容(竹俣当綱の不正疑惑)をスピーディーに調査した。関係者数百人を集めて真偽を確かめた。そして、事実無根と判断して、事件から4日目に7人の処罰を下した。2人が切腹および改易、5人が隠居閉門およぶ石高減少、影で策謀していた儒学者の藁科立沢は斬首となった。 


 儒学者・藁科立沢にしても純粋に藩のためを思って行動した。儒教でも、いろんな考えがある、ということです。 


 そして、2年後、改易された2家の再興、5人の閉門も解除された。温情をもって、怨みを残さないように配慮したのかも知れない。あるいは、ものすごく「家の存続」にこだわっていたのかもしれない。 


(4)抵抗勢力はなくなったが…… 


「七家騒動」で抵抗勢力は一掃されて、改革は順調に進展、とはならなかった。儒教哲学や精神論だけでは、世の中どうにもならないことが多いものだ。 


 竹俣当綱は米沢藩への融資先を江戸の豪商・三谷に切り替えることに成功し、1775年、三谷からの古い借金1万9000両の債権放棄と新たに1万1000両の融資を年5分の低金利で借りることに成功する。


 この金によって、漆、桑、楮(こうぞ)の木をそれぞれ「100万本植樹計画」に着手した。漆の実からロウソク、桑の葉で蚕を育てて生糸生産、楮の皮から和紙を生産するという殖産興業の目論見である。滑り出しは順調であったが、西日本から櫨(はぜ)のロウソクが出回ってきた。漆のロウソクよりも品質は上、価格も安い。米沢の漆ロウソクは、瞬く間に駆逐された。漆100万本計画は完全に失敗し借金だけが残った。そこへ天明の大飢饉が襲った。  


 米沢藩では、宝暦の大飢饉(1753~1757年)の記憶は濃厚であった。農民の間では間引き(嬰児殺し)は風習化されていた。1767年、上杉鷹山は飢饉のための備蓄制度として「備籾蔵」(そなえもみくら)の設置を進めていた。この政策は順調に進展していた。そこへ、江戸時代最大の飢饉、天明の大飢饉が東北を襲来した。この大飢饉は1782年(天明2年)から1788年(天明8年)にわたる。餓死者数は少なくとも30万人、この世に人肉を喰らう地獄が出現した。 


 そうした東北でも上杉鷹山の米沢藩は、被害金額は巨大だが、餓死者は少なかった。「備籾蔵」が少なからず威力を発揮した。藩主鷹山は自らさらなる倹約に努め、一汁一菜どころか粥をすすった。朝は粥を2椀と漬物、昼・夜はうどん、そばと干し魚であった。 


 天明3年には冷害に強い麦作を奨励した。また、近隣諸藩は江戸へ米を売っていたが、米沢藩は越後と酒田から1万1605俵(全領民の約90日分)の米を買い入れて領民に供出した。 


 そんなことで、米沢藩内ではひとりの餓死者も出なかったと言われている。まぁ、これは、上杉鷹山偉人伝の脚色で、米沢藩内でも実際は多くの餓死者が発生し、農村は壊滅的に荒廃した。数字的に言うと、宝暦の大飢饉では米沢藩の人口減は約1万人、天明の大飢饉では約5000人の減少であった。だから、宝暦の大飢饉よりも悲惨度合が半減した、といえる。 


 とにもかくにも、藩主就任以来、懸命に改革を推し進めたが、借金は減るどころか、膨らんでしまった。上杉鷹山の心境やいかに? 


(5)第2次改革 


 鷹山は悩み考えた。そして、心機一転の策に出た。1785年(天明5年)、天明の大飢饉の最中、家督を前藩主・上杉重定の実子である上杉治広(はるひろ、1764~1822)に譲った。治広は、鷹山が重貞の婿養子になった(1760年)後に誕生した。鷹山の実子は早死にしている。こうした場合、儒教では前藩主の実子に家督を戻すことがよいこととされている。 


 家督継承の際、鷹山(=治憲)が治広に申しつけた藩主としての心得が、3条からなる『伝国の辞』である。 伝国の辞 一、国家は先祖より子孫に伝え候国家にして我私すべき物にはこれ無く候 一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候 一、国家人民の為に立たる君にして君の為の立てたる国家人民にはこれ無く候 右 三条御遺念有間敷候事 天明五巳年二月七日     治憲  花押 治広殿   机前 


 この『伝国の辞』のポイントは、「領民は家来ではない。領民は国家に属している」である。企業で言えば、「社員は社長の使用人ではない。社員は会社の社員である」ということである。  


  鷹山は家督を譲って隠居の身分になったが、実質的には改革を取り仕切った。改革は再び開始された。さらなる質素倹約、借金返済延期交渉、新たな殖産興業(絹織物推進)、財政再建16ヵ年計画、人材登用、上書箱の設置、藩校興譲館の再興、公娼制度廃止(1795年、日本最初の廃止)、各種の領民愛護政策など、大きな改革から小さな改革まで推進した。しかし、外国船日本列島接近に伴う幕府要請の軍役支出、基本的に多すぎる家臣団などもあって、財政事情は一進一退。 


 諸改革をあれこれ説明するのを止めて、大筋では次のように言えるのではなかろうか。


 第1次改革は、いわば「上意下達」の強引政策であった。その反省から、多くの意見を聞いて政策決定する方向に切り替わった。全家臣を集めて借金総額など危機的藩財政を情報公開して危機を共有した。「上書箱」で士農工商区別なく意見を集めた。 



 そのなかで最大効果をもたらしたのが、絹織物産業育成であった。従来は、養蚕で生糸を生産していただけだったが、米沢で絹織物まで生産しよう、となった。織り手は武家の女性が担った。織り上がった絹織物は、藩が全て買い取った。


 鷹山の側室、お豊の方も織り機で織った。戦前の教科書にはお豊の方が織り機で働く挿絵がのっていた。鷹山に側室(妾)がいたのか……とがっかりする人がいたので一言。当時は、家と家との結婚であり、しかも正室の幸姫は知的障害・発達障害であった。鷹山の人間性は、頻繁に玩具で長時間、幸姫と遊んだ、ということに現れているように思う。


 そんなことで、米沢藩の武家の女性は競って織物に励んだ。琴や三味線をする女性は遊び女、怠け者とバカにされた。 


 そして、鷹山の死去の翌年、1823年に米沢藩は最大30万両あった借金をゼロにした。いわば、女性の活躍、女性労働の成果である。 


 上杉鷹山の言葉として、「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成さぬは人のなさぬ成りけり」が有名であるが、17歳から70歳の死去まで、実にしんどいことだった。質素倹約、質素倹約、質素倹約は儒教哲学ではよいことだ。働け、働け、働け、働くことは儒教哲学ではよいことだ。遊ぶな酒飲むな、遊ぶな酒飲む、遊んだり酒を飲むことは儒教哲学ではよろしくない。実に、しんどいなぁ~。あの時代の米沢では、それしか方法がなかったかもしれないなぁ~。それにつけても、しんどいなぁ~。 


 最後に、『かてもの』について。鷹山が下命して作成した冊子の名称。この冊子は野草82種の名称・調理法などが書かれている。1802年に完成し、天保の大飢饉(最大危機時は1835~1837年)では、藩主自ら『かてもの』を取り出して実践し、藩士・領民も見習い、大いに威力を発揮した。明治に入って、北海道の屯田兵が食料危機に陥った時、旧米沢藩士が『かてもの』を愛読しており、その知識で危機を脱出した。さらに、太平洋戦争直前に、米沢市長が食糧難を予測し、『かてもの』を活字印刷して市民に配布して、役に立った。どんな野草が記載されているのか、美味いか不味いか、食べてみたいものだ。  


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太田哲二(おおたてつじ)

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。