1974年には2度の医療費の引き上げが行われ、高額医療負担制度がスタートした。実は74年の医療費改定では、院外処方せん料の約5倍の引き上げが行われた。しかし、こうした政策にもかかわらず、この頃に医薬分業への制度対応ブームは起こらなかった。 


 当時の日本医師会長である武見太郎は、この診療報酬改定をなぜ是認したのか、本当の理由は定かではないが、欧米では当たり前だった医薬分業に理念的に対抗する考えはなかった一方で、当時のほとんどの薬局では院外処方せんに対応できる能力が低かったという現実的な視界が開けていたと考えられる。  筆者は当時、非公式(オフレコ)の場で武見になぜ処方せん料の引き上げに抵抗しなかったのかを訊いたことがあるが、彼は「ふんどしビラを店中に吊るして、ちり紙やトイレットペーパーを店頭に置いている(当時の)薬局に誰が医療用医薬品を求めにいくだろうか」と答え、薬局および院外薬局薬剤師は「医療機関でも、医療人でもない」と切り捨てたことを記憶している。 


 武見にはその当時、薬剤師教育が4年制であったことも念頭にあったはずだ。医薬分業が本格化したのは、薬価算定方式が変更され、薬価差益が減少したこと、さらなる分業促進策が診療報酬で実行されたこと、薬学教育制度の改革も同時並行的に進んでからのことである。 


 つまり、ここで窺うことができるのは、医療機関から医薬品を引っ剥がす政策は、それほど効果がない、というより、あえて有効な政策を取りづらかったということだろう。武見は、理念的には医師・医療機関は医薬品で収益を挙げているわけではないという矜持をこの改定で示しつつも、現実には医業収益のなかにおける医薬品収益がたちどころに自分たちの経営原資から外れることはないという見切りをつけていたということになる。 


 医薬品はその意味で当時、医療機関における重要な経営原資であり、再投資金融機能を持つ「金融商品」であった。  特に、こうした概念は病院関係者に強く、民間病院経営者の中には「薬価差益」という言葉の存在自体に疑問を持ち、「ホスピタルフィー」だと堂々と宣言する人たちもいた。取材する側が「薬価差益」という言葉を使うと、以後の取材を拒否されることもあったほどだ。


●「金融商品」として病院経営に構造化された医薬品


 1973年の老人医療費無料化スタートは、受療率の飛躍的伸長が進むなかで、医療機関の拡大再生産資金として、医薬品収益を経営の中で構造化させた。多くの診療所が、社会的入院のニーズに応えるべく病院にとビルドアップした。医薬品収益は投資資金として、あるいは人件費などのランニングコストとしてなくてはならぬものだった。


 前回、国民医療費は73年の3兆9496億円から74年には5兆3786億円へと前年比36%も増加したことを述べた。74年の薬剤費の絶対額は2兆円を超える。医療保険という公的市場のなかで、医薬品は不動の存在となった。 


 老人医療費無料化の73年からそれが終焉する83年までの間、薬価差益をめぐるエピソードには事欠かない。病院の医薬品購入担当者向けには、製薬企業との価格交渉テクニックを学ぶセミナーが活発に行われていたし、有能な(つまり大幅マージン獲得に成功した病院や担当者)交渉者はセミナー講演者として引っ張りだこだった。また、筆者自身、病院の薬剤部や用度窓口に特定の製薬企業関係営業マンに対する出入り禁止を警告する張り紙などを見た記憶がある。 


 90年代に医薬品流通に関する規制が強化されるまでは、製薬会社の営業マン(当時はプロパー、その後MR)が価格交渉を行っていた経緯がある。張り紙で名指された製薬企業は、要求された値引きに応じていなかった。どこの病院もプライスセッターになることを嫌っていた状況もある。そのため、価格交渉は難航し、長期化する傾向が強まり、それは流通慣行が変わった現在でも問題の根として残っているのは周知の通りだ。 


 老人医療費無料化と並んで73年には、医療市場を拡大する契機となった政策も実現している。1県1医大制度だ。これによって、医師の養成数も伸びることになる。80年代後半には医療費増高の要因として、病床数増と並んで医師数の増加も問題になっていたことを記憶する人も多いはずだ。病院数は、国民皆保険制度がスタートした61年には6300程度だったが、75年には8294病院に、87年には9841病院に膨らみ、90年には1万96病院にまで達した。91年からは減少に転じ、現在は8400病院程度となった。 


●「新薬」とは何か 


 医療費増高の要因は人口の高齢化と疾病構造の変化であることは常識だが、1947年に死亡原因の第1位だった結核は人口10万対190人台だったが、老人医療費無料化が始まった73年には10人台まで激減している。その後の死因は脳卒中が1位を占めていたが、現在はがん、心臓病、肺炎に次いで第4位。脳卒中は67年には190人台あったが、2010年には90人台にまで下がり、半減した。


 この要因は、塩分摂取制限などの健康教育が功を奏したという見方もあるし、むろんそれが大きな成果だと言ってよいが、70年代後半からの生活習慣病(当時は成人病)をターゲットにした新薬の影響も見逃すことはできない。付言すれば、その前段階として職場健診を軸にした健診が生活習慣病を「早期発見」し、それを適応とする医薬品開発の隆盛に拍車をかけたと言ってよいだろう。ことにその傾向が顕著だったのは日本だ。


 この連載では繰り返しになるが、薬価差益バッシングの中にあって、70年代前半にはいわゆる添付行為は禁止された。薬価差益の有力な「打ち出の小槌」はなくなったのだが、その後も薬価差益のスケールはそれほど小さくはなっていない。そのため、81年には18.6%、84年には16.2%の薬価引き下げが実施された。


 その当時の新薬承認数をみると、新有効成分数は82年36成分、83年33成分、84年26成分、85年53成分、86年33成分、87年45成分、88年45成分、89年29成分となっている。新有効成分数だけをみても、85年以降増加している。 


 ここで、立ち止まっていわゆる「新薬」について、明確にカテゴリーを分ける必要があるように思える。一概に新薬といっても、例えば「新薬追補収載」という場合の新薬と、先述した「新有効成分」、あるいは「新規化合物」など多様な言い換えがされている。


 新規化合物でみると、90~94年の5年間で日本では74の新規化合物が「新薬」として承認されている。これは欧州より少ないが米国よりは多い。しかし、この数字は95年以降逆転し、日本は「新規化合物」は米国の半数以下になる。これは治験など新規化合物開発に関する多様な環境の違い、レギュレーションの国際的ハーモナイゼーションの進捗などの影響も強く考えなければならないが、80年代後半から90年前半には、国内では生活習慣病関連の開発が多く、特に90年代後半からは抗がん剤や精神神経用薬に開発の重点がシフトした欧米との違いを反映している。 


 疾患数の違いを考えると、生活習慣病薬の開発と市場の開拓が日本にかなりのスケールで拡大し、それが薬価にも反映されたとの推定は動かしがたい。つまり新薬シフトが、大幅薬価引き下げも潜り抜けて、市場を拡大均衡させるエネルギーを維持させたとみるべきかもしれない。 


 少し回り道したことをお詫びするが、次回は、新薬シフトの実際をもう少し具体的に掘り下げてみる。Me-too新薬や、Me-again新薬にも言及したい。(幸)