今週は、週刊文春の『世界的トランぺッター日野皓正が中学生を「往復ビンタ」動画』という記事が、話題を呼んでいる。世田谷区が2005年から日野氏を指導者として招き、続けてきた中学生ジャズバンドの育成プロジェクトで、その練習成果を発表する公演でのバンド演奏中、ソロのドラム演奏を“やり過ぎた”という理由で、日野氏が聴衆の面前でこの子を平手打ちにした、という話である。
ネットでは、被害者側の落ち度を指摘して、日野氏を擁護する声が目につくが、やはり多いのは毎度おなじみの体罰肯定論である。正直、げんなりする。体罰を容認する人はたいてい、歳月に美化された自らの思い出を振り返り、“殴ってくれた先生”への感謝を口にする。個人の感想は自由だが、たちが悪いのは「昔の子はみな、同じように感じていた」と決めつけることだ。
みながみな、そう思っていたわけではない。体罰を全否定する巨人の元投手・桑田真澄氏のようなキャラの子は過去もいたし現在もいる。私もそのひとりだった。肯定論者は、そうした子を「素直さに欠ける」「ひねくれている」と、例外視するが、こっちに言わせれば、無抵抗の相手への怒りの発散ほど、大人としての人格的欠陥を露わにするものはない。叱られた理由を反省しようにも、殴られてしまえば違う感情が湧く。教師への嫌悪である。
映像で見る限り、今回の暴力の程度は軽度だし、殴られた子や家族も受け入れているようだが、それを許す感覚が、時に深刻な事故にもなってしまう。日野氏ももし、欧米で子供たちの指導を任されていたならば、絶対にこうした行動には出なかったはずだ。強制的に演奏をやめさせる場合でも、羽交い絞めにして殴打はしないだろう。手を出せば、父母や社会からどんな反応を浴びるか、わかり切っているからだ。日本人への指導にだけ、暴力が必要、という理屈はやはり成り立たない。
今週はこのほか、週刊ポストに載った右派論客・西尾幹二氏のインタビューも衝撃的だった。『ついに保守論壇重鎮たちも“退陣要求”を突きつけた! 「安倍君、下関に帰りたまえ」』。タイトルからして強烈である。
要は拉致問題や改憲など、右派層が重視するテーマでことごとく期待を裏切ってきた、という話だ。記事の合間合間にある小見出しを拾うだけで、西尾氏の剣幕がわかる。《保身、臆病風、及び腰、裏切り》《みんな愛想を尽かしている》《代わりはいくらでもいる》《人間性に呆れている》といった具合である。
編集部は1997年、江藤淳氏が小沢一郎氏に向け産経新聞に寄せた『小沢君、水沢に帰りたまえ』という論稿にちなんで、この記事のタイトルを付けているが、江藤氏の場合、苦境に立つ小沢氏に再起を期すエールとして文章を書いたのに対し、西尾氏は「江藤さんのように叱咤激励するつもりはないですよ。単純に安倍首相の人間性に呆れ、失望しただけです」とばっさりと斬り捨てる。
氏は9月に『保守の真贋──保守の立場から安倍信仰を批判する』と題した著書を出すそうだが、正直なところ私は、このサブタイトルの言葉が、自民党内のハト派・穏健派から出てきてほしかった。国家主義や歴史修正主義、人種差別主義といったカルト右派の路線こそ、幅広い国民政党だったかつての自由民主党とは相容れないと思うからだ。
「叱咤激励のつもりはない」と西尾氏は言うが、万が一、安倍首相の側が“コアな支持層”の心をつなぎ留めようと、イデオロギー的に頑張ってしまうと、とんでもない事態になるのではないか。右側から現れた離反の兆しには、そんな不安がむしろ湧くのである。
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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。