週刊文春が“孤軍奮闘”して追及を続けきた有権者への利益供与問題で、渦中の菅原一秀・経産相がとうとう辞任した。今週号の記事は『10月17日、選挙区内で決定的瞬間 菅原一秀経産相「有権者買収」撮った』という言い逃れのきかないものだった。メロンなどの贈答でこれだけ叩かれているそのさなかに、通夜の席で堂々と秘書が香典を渡す神経にあきれるが、菅原事務所ではそれほどに、ルーティン化した作業だったのだろう。


 氏の疑惑が国会マターとなってからは、新聞も文春の後追いを始めたが、ひどかったのはテレビ報道だ。ある民放のニュースでは、大臣辞任を伝える速報で「選挙区内の有権者に香典を渡した、と(文春に)報道された問題で、菅原経産大臣が辞任する意向を固めました」と言ってのけた。


 本当にそのような疑惑があるかどうか、我々には情報がない。でも、一部週刊誌はそれを報道し、大臣が引責辞任する――。要は、自分の社が“蚊帳の外”にあったことを、臆面もなく認めているのである。他社スクープが出た直後で時間的に間に合わない、あるいは極秘文書の入手など、疑惑の証拠を1社が独占し、確かめようがない。そんなケースはまだわかるが、今回は、何週も前に初報が出ていたし、何人もの元秘書が複数の社の取材に応じている。野党議員の手元には贈答品のリストまで渡っていた。


 にもかかわらず、この民放局は後追いに走らず、他人事のように無視を決め込んでいた。そのためにいざ、大臣辞職、という動きになったとき、「一部メディアの報道によって」という情けない言い方をするしかなかったのだ。


 かといって、キャスターらの表情を見る限り、これを恥じる気配もなく、しれっとニュース原稿を読んでいた。そもそも報道記者たるもの、他社スクープの後追いなど本当は誰もしたくない。それでも早い時期に追いついておかないと、いざ事態が大きく動いたとき、取材データが何もなく、無様なことになる。そんなケースを避けるために、後追いはするものだが、もはやテレビ局の現状は、この無様さを、“無様”とさえ感じないレベルになってしまっている。週刊文春の頑張りは称えたいと思うが、何とも苦々しい話である。


 週刊新潮は、『「モンスター台風」が切り裂いた人間模様』という特集の中の1本で、『自治体判断で大半が非公表! 「犠牲者は匿名」で本当にいいのか⁉』という記事を載せている。台風19号で被災した12県のうち、8県が匿名で死者数を発表したことを批判した記事だ。非公表とした県は“遺族感情”を理由にしているが、これはかなり疑わしい。そもそも被災者の安否を心配する無数の人たちに、匿名の情報では何の意味もなさなくなる。実際、記事によれば、名前を公表した長野県の場合、一人ひとり遺族に確認をとる作業をした結果、「社会的関心の高さや捜索活動に(実名公表が)有効であることを説明したところ、ほとんどの方の同意を得ることができました」という。


 それなのに、同じ手続きを踏んだと説明する群馬県は公表を見送った。この差異は、遺族と接触した県職員の姿勢の違いとしか思えない。長野とは真逆に、「公表は拒んだほうがいいですよ」というニュアンスで持ち掛けたに違いない。遺族に確認さえとらず、一括匿名とした福島県などは論外である。名前が出なければ、メディアの取材に遭う確率は減る。それを望む遺族は確かにいるだろう。だが、このSNSの時代、メディアがもし強引で非礼な取材をしたならば、その事実はすぐ拡散され、批判に晒される。昔のような無茶はもう、メディアもできないのだ。


 問題は取材を受けてもいい、受ける意思がある、という遺族に対しても、役所の勝手な判断でそれを伏せてしまうことだ。時には、身内の死に関連して、行政への怒りを訴えたい人だっているだろう。だが、そういったケースも闇に葬られてしまうのだ。「みな、そっとしておいてほしいはずだ」という勝手な決めつけは、実は当てはまらない人も多々いるし、本当は役所がただ面倒くさいだけ、あるいは行政の責任を覆い隠す“非公表”かもしれないのだ。役所が勝手に代弁する「遺族感情」を、鵜呑みにしてはいけない。


………………………………………………………………

三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。