新薬シフトについてざっと見ていきたいが、これの対語といってよいのかどうかわからないが、「後発品シフト」という言葉もある。当然だが、後発品のある新薬、つまり長期収載品が後発品収載以後も、依然としてそのシェアを保ち、なかなか切り替えられない状況を説明するときに使われる。後発品の使用促進に制度的対応が打ち出されてきた最近の状況はこれを反映する。 


 ここでは、後発品シフトの問題を先送りにして、新薬シフトについて見ていこう。新薬シフトを問題視する側が必ず俎上にあげるのが、いわゆる「ゾロ新」と呼ばれる「新薬」である。丁寧にいえば「改良型新薬」となるのだろうか。薬価改定で薬価が引き下げられ、仕切り価も下がれば、長期収載品は後発品に切り替えられ、その市場性を失うことは経済原則的には当たり前かもしれないし、欧米ではその流れはかなり顕著に表れる。当該企業にとっても、当然のことながらこうした状況を織り込みながら戦略を立てることが必要になるが、そのひとつの手段が「改良型新薬」だ。 


 こうした市場戦略は、製薬企業だけが欲しているとは言い切れない。これまでしつこく見てきたように「薬価差益」は、医療経営側にも有力な経営資金であり、拡大投資の拠り所である時代が長く続いた。新薬を必然としてきたのは、医薬品産業のみならず、医療市場全体であり、医薬品産業だけの市場経済ニーズではないことを念頭に入れておく必要がある。 


 例えば1981年の▲18.6%の大幅薬価改定のときも、そのまま医療用医薬品産業収益が下がったなどという事実はない。医療市場全体として、市場における資金の流れは大きくは変化していなかったといっても言い過ぎではない。当時、医薬品関連の業界関係者には「シュリンク」という言葉が流行った。結果的にシュリンクの危機は回避された。 


 反論として、それ以後、もっと厳密にいえば銘柄別薬価収載の導入頃から医薬品卸の減少が始まったとされ、市場はシュリンクしたという言い方があるが、大きくは流通改革の制度的対応を反映したことが大きな要因であって、市場の縮小をそれによって説明することはできないと筆者は考える。 


●誰が望んでいるか 


 ゾロ新は、当該医薬品の構造を少し変える、あるいは配合剤化するなどの方法があるが、これは生活習慣病用薬、消化器系の薬剤でよくみられるやり方だといわれる。また、新たな構造が見つかると、開発がその分子構造を追いかける形で続々と新薬が登場するケースもある。 


 降圧剤は、カルシウム拮抗薬からACE阻害薬へ、そしてARBに代わっていったという状況は、製薬産業のシフトがそのまま医療現場の処方シフトになり、医療市場全体の拡大を継続させた。高脂血症薬でもそれに似た構図が生まれたことは周知のとおりだ。 


 欧米ではこうした新薬シフトを、Me-too薬、あるいはMe-again薬と呼んで、明確に認識されている。日本のように薬価が市場を左右する、あるいは処方構造を変化させるという動機が比較的弱い諸国でも、企業戦略としてはありであり、日本では医療市場構造全体がその出現で、市場をシュリンクさせないできたといえる。


 製薬産業側も、単純にいえば、目先で市場が望む新薬、つまり少し意地悪くいえば「患者が望むのではなく」、市場が望む新薬、従来の新薬に変わる利益性(産業にも医療側にも)を確保する新薬の開発にどうしても戦略の重心が傾く傾向が大きかったこと、その時代がかなり長く続いたのではないかとの疑いを筆者は持つ。これには規制機関、医薬品の承認審査機関、さらに薬価を決め、保険収載手続きを取る政府機関が機能しているのかという疑いも加えるべきかもしれない。 


●役立つこともあるが 


 しかし、ここでいったん立ち止まって考えなければならないのは、「新薬」とはいったい何なのか、ということだ。2012年から英国でオールトライアルズ運動を起こしている医師、ベン・ゴールドエイカーは著書の中で、「体内でのまったく新しい作用機序を持つ、まったく新しい医薬分子を開発するのは、とても危険で難しいビジネス」だと述べる。そのうえで、そのリスクを回避する手法として、まったく新しい作用機序を持つ新薬が1つ生み出されると、他企業はその自社版を開発することになると、Me-too薬開発現象が起こるメカニズムを説明している。「このようにして薬を開発する方が、はるかに安全確実だからだ」。日本では、それが医療市場構造全体の要請でもあったのではないだろうか。 


 ゴールドエイカーは、その代表例として、「選択的セロトニン再取り込み阻害薬」(SSRI)を示している。だが、彼はこうしたMe-too薬が一概によくないとは断定していない。医療費のムダ、開発費のムダと言えるのかどうかの判定は難しいとさえ言う。例えば、Me-too薬のほうが特異的な副作用が少なくなったというケースも考えられるとして、「パクリだってときには役立つことすらある」とも述べている。 


 しかしMe-too薬は欧州でも、市場的には、患者サイドからみれば思惑通りの利益には結びついていないとの指摘も忘れていない。Me-too薬は、既存薬より利点がないと判断されても、おおむね既存薬と同等かそれ以上の市場価格を有していたり、競合Me-too薬が出てくると既存薬もMe-too薬も価格は高止まりしたり、価格が上昇したりしていることを各種のデータから示している。薬価という制度が機能する日本では、このようなメカニズムは半ば公共的に働く仕組みが作られているということもできる。 


 同じようなパンは、原材料価格が上がらない限り競合品が増えれば価格が下がる、というのが消費者の常識であり心理だ。あるいはパン業者が結託してパン価格を横並びにすれば、カルテルと見做される。いわば市場の健全な姿というものが、医薬品以外のほとんどの市場では規制として機能している。欧州でみられる医薬品の市場構造は、いわば科学的装いを持ったカルテルともみられかねない。 


 Me-again薬についてゴールドエイカーは、プロトンポンプ阻害薬を例に、詳細な説明を加えているが、ここでは割愛する。ただ、彼はMe-again薬は特許期間をまるまる追加できる、販売承認を得やすいなど、製薬企業のマーケティング戦略の比重の大きさがMe-again薬の市場メリットを押し上げていることを主張する。 


 Me-too薬、Me-again薬と呼ばれる一群の新薬がなぜ使われるのだろうか。臨床の現場では、副作用や効果面で優れていれば、切り替えるのは当然という認識は、ある意味当たり前かもしれない。しかし、その副作用の軽減や、効能の変化、あるいは用法容量の変化が相当にドラスティックではない場合、医療現場は何を根拠としてそうした概念を有することになるのだろうか。 


 新薬シフトは現場での判断が、そもそも科学的なのかという疑いを持ってもいいかもしれないし、それを公的に判断する場所が設定されてもいいかもしれない。


 また最近では、後発品の使用が促進されても、なぜ薬剤費が減らないのかという研究論文も出始めた。こうした問題のあぶり方、指摘についても次回以降みてみよう。(幸)