①発見されたのは昭和
「後深草院二条、とはずがたり」と聞いて、ニヤニヤする人は、何と申しましょうか、「文学系スケベ」です。後深草院二条(1258~?)は、後深草院(第89代天皇、1243~1304、在位1246~1260)を中心に、いろんな男と恋をした。その告白自伝(日記)が、『とはずがたり』で、全5巻です。読者は、豪華絢爛な愛欲(淫乱)の記録にクラクラしてしまう。
700年前、二条は『とはずがたり』を書いた。印刷技術のない時代だから、広く普及するには、一冊一冊、書き写さねばならない。いかなる理由かわからないが、極めて限定された範囲でしか書き写されなかった。つまり、広範には読まれなかった。あまりに過激なエロ・グロの告白なためか、あるいは、後深草院をはじめ実在人物名がドンドン登場するノンフィクションのためか、またあるいは、淫ら過ぎる宮中秘事があからさまに書かれているためか……あれやこれやの理由で、広く読まれてはマズイという雰囲気があったのだろう。そして、いつしか忘れ去られてしまった。なお、『増鏡』には『とはずがたり』の引用があります。
発見されたのは、1940年(昭和15年)である。宮内庁に秘蔵されていた。天皇絶対神聖の時代であるから、一般公開など不可能であった。発見者の山岸徳平(国文学者)は、藤原道綱母の『蜻蛉日記』にも対等すると直観したという。おそらく、天皇絶対神聖の時代だから、そんな言い方しかできなかったのだろう。『蜻蛉日記』は高級貴族の夫婦喧嘩実録である。しかし、『とはずがたり』は、二条を中心に、後深草院を含めての愛欲実録である。発見者は、内容にびっくりしただろうな、でも公表は遠慮しなくては、ということで悩んだろうな……。
一般公開されたのは、1950年(昭和25年)、戦後である。一般公開といっても、専門学者の研究開始が始まったということで、一般人には、なんのことやら、である。したがって、1950年代、60年代では、高校の教科書にも、その題名は載っていなかったと思う。それが、学者の研究が進んで、70年代になると、日本の王朝古典に関心のある人の間で、興味津々となり、80年代になると一般庶民でも読書可能となった。
瀬戸内寂静は『中世炎上』という題名で『とはずがたり』を小説にした(1989年)。寂静さんは、さすがですね。「炎上」ですよ。愛欲の炎が燃え上がり、誰にも消せやしない大火災発生というわけです。杉本苑子も『新とはずがたり』を書いた。漫画も続々出版された。映画にもなった。しかし、一般庶民の目に届くようになってから、まだ30年か40年である。まだまだ知られていないようだ。
翻訳もされた。英語訳は『The Confessions of Lady Nijo』で大衆向けに出版された。「Confessions」は告白という意味です。なぜだか、社会主義時代のブルガリアではベストセラーになった。自由なきブルガリアであったから、遠い異国の昔々の自由奔放な女の生き方に感動したのかな。
②巻1……後深草院と雪の曙
最初の文章は、豪華絢爛、ゴージャスです。
呉竹(くれたけ)の一夜(ひとよ)に春の立つ霞、今朝(けさ)しも待ちいで顔に花を折り、にほひを争ひて並(な)みゐたれば、我も人なみなみにさし出(い)でたり。つぼみ紅梅にやあらん七(ななつ)に、くれなゐのうちぎぬ、萌黄(もよぎ)の表着(うはぎ)、赤色の唐衣(からぎぬ)などにてありしやらん。梅唐草(からくさ)を浮き織りたる二つ小袖に、唐垣(からがき)に梅をぬひて侍りしをぞ着たりし。
(現代訳)暮れが一夜あければ新春で、春立つ霞の今朝を待ちかねていたように、顔を花を折ったように化粧し、美しさを争うように並んでいるので、私も人並みに装って(後深草院の新年の儀へ)出ました(以下は、きらびやかな十二単ファッションの説明)映画の冒頭シーンのように、十二単の絶世の美女が登場です。
さて、時代は鎌倉時代(1192~1333)の中期です。武士の時代が始まったが、まだまだ京の朝廷の権威は揺らいでいない。『とはずがたり』は、京の朝廷が舞台です。
1271年の新年から『とはずがたり』は始まります。二条は14歳です。
後深草院は、1243年に生まれ、1246年4歳で第89代天皇に即位し、1259年11歳で譲位して、院になった。第90代天皇になったのは、後深草院と両親を同じくする弟の亀山天皇です。
1271年の後深草院の年齢は24歳です。24歳の後深草院は14歳の二条を見て、「おっ、いい女に成長したな」と思った。そこで、新年の儀(新年会)に同席している二条の父、大納言源雅忠(1228~1272)となにやら密約をした。大納言の上は、大臣(太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣の4人)であるから、二条はエリート貴族の娘です。
二条の母は、やはりエリート貴族の娘で、少年後深草の「新枕」の役の美女であった。幾人かの貴族に言い寄られたが、最終的に源雅忠の妻となり、二条を生んで、その翌年(1259年)に亡くなった。後深草院にとっては、二条は「新枕」の女性の娘です。当時の貴族は誰でも『源氏物語』を読んでいたから、「若紫―藤壺」と「二条―二条の母」をダブらせていたのかも知れない。「若紫―藤壺」の説明は省略します。
二条は4歳の時から御所で暮らしていた。もちろん、時々は父の屋敷に帰るが、基本的には御所暮らしです。後深草院は10年間、二条の成長を見守ってきたわけです。
新年の儀(院と父の密約の日)の夕方、二条は御所の自分の部屋へ戻ると、「雪の曙」から和歌と着物の贈り物が届いた。「雪の曙」の実名は西園寺実兼(さねかね、1249~1322)で、二条の8歳上の貴公子で、後に太政大臣になった人物です。二条と雪の曙は、相思相愛の現在進行形であった。
1月15日、二条は父から迎えが来て、父邸へ帰った。なにやら父邸の様子がおかしいとは思った。翌日の夕方、後深草院の御幸であった。それでも、二条は、御幸の真の目的に気がつかなかった。その夜、心の準備もなく、強制的な処女喪失となり、涙、涙、涙……。
数日後、後深草院が再び来て、第2夜となる。二条の心と体は「いつしかなびきぬ」となってしまった。まぁ、あの時代、院の寵愛を受けることは絶対的によいことであったから、そんなものかも知れないな。
御所へ帰ると、毎夜のように後深草院は訪れるが、訪れない日が続くと「物すさまじき」(なんとなく、とてもさみしい)となってしまう。
その間も、二条と雪の曙とのプラトニックな相思相愛の関係は続く。
二条の心を悩ませる出来事は、他にもあった。ひとつは、中宮(正妻)の嫉妬心及び御所内の女房たちの噂話である。二条は寵愛を受けているが、正式な女御ではなく、単なる女房(召使)のひとりにすぎない。もうひとつは、後深草院は女漁りが激しく、御所の外から女を連れ込むわけだが、その手引きを二条にさせるわけで、つらい思いをするのであった。豪華絢爛な御所の生活ながら、二条の心は悩みが尽きない。
そうこうしていたら、妊娠した。もちろん、子種は後深草院である。同じころ、父源雅忠が亡くなった(1272)。二条は母も亡くなり、父も亡くなった。二条を支える後ろ盾、後見人がいなくなってしまった。そして、二条の乳母の家で、雪の曙と初めて交わった。
二条は、後深草院の皇子を生んだ(1273)。
次いで、雪の曙を子種とする女児を生んだ。しかし、雪の曙と二条は、表向きは、後深草院の子で死産と偽った。女児は、雪の曙がいずこかで育てる手配をした。
二条の立場は、後深草院の皇子を生んで安泰となったが、その皇子が2歳で亡くなってしまった(1274)。二条は基本的に不安定な立場に逆戻りとなってしまった。
後深草院の女漁りは相変わらずで、今度は京に戻った前斎宮へ欲情を持った。二条を仲立ちにして、後深草院は前斎宮と交わった。斎宮とは、伊勢神宮の最高巫女で皇室の処女皇女が就任する。後嵯峨院(1220~1272)の皇女が斎宮となっていたが、後嵯峨院の死去に伴い斎宮の任と解かれたが、3年間、伊勢に留まっていた。それが1274年に帰京した。後深草院の中宮(正妻)はカンカンに怒り、その怒りは仲立ちした二条にも向けられた。
二条の男関係は、巻1では、後深草院と雪の曙の2人だけで、まだ、後深草院にはバレていない。
③巻2・巻3……有明の月、亀山院、近衛大殿
巻2、巻3となると、二条の男関係に、有明の月、亀山院、近衛大殿の3人が加わります。そして、後深草院の性癖は、頻繁なる女漁り+愛人二条に女漁りの手引き仲立ちをさせるというレベルでしたが、さらに変態性が加わっていきます。そのため、二条の男関係も変態性を持つようになります。あらすじを書くだけで、エロ本になってしまうので、簡単にしておきます。
「有明の月」は、御所に出入りして祈祷をする高僧で阿闍梨とも言います。この高僧から熱烈な愛の告白を受け、最初は拒絶するも結局は熱烈に積極的に受け入れてしまう。後深草院は自分の愛人二条を他人に抱かせて喜ぶ性癖を持つようになったようです。二条は、有明の月の子供を2人生みます。でも、有明の月は、1281年(二条が24歳)の時、病死します。有明の月の素性は、後深草院の異母弟・性助入道親王という説が有力視されています。
亀山院は後深草院の両親を同じくする弟です。亀山院は、後深草院の愛人であることを承知で二条にラブコールします。亀山院は後深草院との対抗心が強い人物です。あれこれの経緯があって、後深草院と屏風1枚隔てたところで二条と亀山院は交わるという変態シーンとなります。
近衛大殿も妖艶なる二条にアタックするも、二条は拒否します。ところが、後深草院は二条と近衛大殿と寝ることを承諾してしまう。二条は好きでもない男と幾度となく寝ることになってしまう。近衛大殿とは、鷹司兼平(1228~1294)のようです。鷹司家の祖で、関白です。
御所の中は、二条を中心に淫蕩が濃厚に渦巻き、亀山院も頻繁も二条のもとへ通うようになってしまった。これには、後深草院の中宮(正妻)は、完璧に怒り、ついに、二条は御所追放となったのでした。
④巻4・巻5……美人尼になった二条
巻1の冒頭は、御所での十二単の豪華絢爛ファッションで始まりました。巻4は、ガラリと一変し、墨染めの衣の旅姿です。
二条は31歳で出家したようです、そして、1289年(32歳)2月、東国へ旅たちます。巻1に、二条は西行法師に憧れています。二条の心には、淫乱性と清純性が常に同居しています。
旅の途中、二条は遊女にとても親近感を持ちます。御所の中で自分の振る舞いは遊女と似たものと思ったのかも知れません。
鎌倉から善光寺へ、そして浅草をまわって鎌倉へ戻り、そして1290年(33歳)の10月帰京しました。帰京してすぐに奈良へ行き、1291年(34歳)には、石清水八幡宮(京都市の南西に位置する)にお参りする。そこで、二条は、御所追放から数年ぶりに後深草院と出会った。後深草院は二条のもとへたびたび文を出していたが、二条は会う気持ちが起きなかったのですが、なぜか今回は気持ちが動いて会うことになった。一夜を語り明かした、としか書かれていませんが、一般的スケベ人間は、語り明かしただけじゃないだろう、と思ってしまいます。むー、どうなんだろうか……。
その後、熱田へ、伊勢へと参拝します。巻4、巻5の旅行経路を辿ると、二条の体力は相当なものです。二条の妖艶性は、健康美に裏打ちされていると想像されます。それから、『華厳経』60巻をはじめとして、膨大な量の経典を写経しました。写経の費用を捻出するため、巻5では、母の形見、父の形見まで売り払っています。その根性・実行力・情熱は大したものです。
1293年(36歳)、今度は伏見で、二条は後深草院と会います。後深草院は、御所追放後の二条の男関係をネチネチ問い質します。『とはずがたり』の巻4、巻5を読むと、旅先で、いろんな男が登場してきます。後日の読者が持つ「美貌の尼の男関係ありや」の疑問を想定して、あらかじめ後深草院に代表質問させたのかも知れません。それに対して、二条は、一度たりとも男と契ってはいません、と神仏に誓言するのでした。後深草院は、二条に対して未練ありありであった。二条の心は、揺れ動いていたに違いない。それゆえ、ことさら強く、男とは契っていません、と意思表示したのだろう。
巻5に入ります。
1302年(45歳)、二条は厳島へ旅たつ。四国、中国を一巡して都に帰る。
1304年(47歳)、後深草院の死去。二条は棺の車を裸足で追いかけます。「いろいろあったが、私はあなたを一番愛している」というハイライトシーンです。
その後、和歌の道に精進することになります。『とはずがたり』には、和歌が百首以上載せられていますが、いずれ近々、二条の和歌で一番の秀歌は、これです、なんて解説がなされるかもしれません。
1306年(49歳)、後深草院の三回忌では、入場制限で、二条は「雨垂りの石の辺にて(説法を)聴聞する」ということで、『とはずがたり』はおしまいとなります。そして、跋文(ばつぶん、後書の意味)に「その(過去のさまざまな)思ひをむなしくなさじばかりに、かやうのいたづらごとを続けおき侍るこそ。のちの形見とまではおぼえ侍らむ」。
700年の時を経て、『とはずがたり』は復活した。日本文学史上の最高傑作と評価される日が来るかもしれない。
なお、蛇足ですが、後深草院と亀山院の同腹兄弟はライバル意識が強かった。その結果、鎌倉幕府の仲裁で、後深草院の子孫(持明院統)と亀山院の子孫(大覚寺統)の10年で天皇交代という両統迭立(りょうとうていりつ)となります。要するに、天皇家分裂です。持明院統は北朝となり、大覚寺統は南朝となります。漫画的に脚色するならば、天皇家分裂の契機は、二条をめぐる美女争奪であった。でも、二条は分裂を避けるため、後深草院と亀山院の両者と寝たのであります。(笑)
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太田哲二(おおたてつじ)
中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。