(1)安倍首相の「野中兼山ハマグリ演説」に環境省はビックリ  


 野中兼山(1615~1664)は、江戸時代初期に土佐藩の家老で、儒教精神を基盤に猛烈に藩政を推し進めた。幕末には、誰(たぶん儒教大好き人)が言い出したか、熊沢蕃山(1619~1691)、上杉鷹山(1751~1822)と並んで「三山」と称された。 


 そんな基礎知識をふまえて…… 


 平成29年(2017年)1月20日、通常国会における安倍首相の施政方針演説の中の「野中兼山ハマグリ演説」は、まったくの嘘である。もっとも、安倍首相自身は野中兼山については無知で、内閣府の役人が書いたものを、調子良く演説したに過ぎなかった、ということです。姿勢方針演説の「7、おわりに」の部分に「野中兼山ハマグリ演説」が登場します。念のため、掲載しておきます。 


7、おわりに  子や孫のため、未来を拓く。


 土佐藩でハマグリの養殖を始めたのは、江戸時代、土佐藩の重臣、野中兼山だったと言われています。こうした言い伝えがあります。「おいしいハマグリを、江戸から土佐に持ち帰る」兼山の知らせを受け、港では大勢の人が待ち構えていました。しかし、到着するや否や、兼山は、船いっぱいのハマグリを全部海に投げ入れてしまった。ハマグリを口にできず、文句を言う人たちを前に、兼山はこう語ったといいます。 


「このハマグリは、末代までの土産である。子たち、孫たちにも、味わってもらいたい」。兼山のハマグリは、土佐の海に定着しました。そして、350年の時を経た今も、高知の人々に大きな恵みをもたらしている。


 まさに「未来を拓く」行動でありました。未来は変えられる。全ては、私たちの行動にかかっています(この後は、野党批判、憲法議論を深めよう、未来を切り拓こう、となっています)。


 偉人伝は後世の者が創作した話が多くあるものだ。このハマグリ逸話も、そうで、19世紀前半に刊行された約200人の儒学者の逸話をまとめた『先哲叢談』に掲載されたもので、兼山ヨイショのフィクションに過ぎない。事実は野中兼山のハマグリ養殖は失敗している。350年後の今、高知はハマグリの産地でもなく、なんら高知の人々に恵みをもたらしていない。施政方針演説の翌日、『高知新聞』は、「高知はハマグリ乏しい」「首相演説、『今も兼山の恵み』ウソ」「漁業関係者ら異論続々」と大々的に報道した。


  なお、国内で消費されているハマグリは、大雑把に言って、9割が中国からの輸入です。国内産の大半は茨城県沖の外洋性のものです。日本本来のハマグリは九十九里浜などわずかしか採れません。昭和後期の干拓、埋め立て、海岸護岸工事などで、絶滅寸前です。桑名や有明海などでは、なんとか再生されました。環境省レッドデータブックでは絶滅危惧種に指定されたばかりですから、環境省の役人は安倍演説に驚いただろうな。野党議員が環境省大臣に質問したら、どんな答弁になったか? 


(2)22歳でデビュー


 戦国時代末期、土佐が本拠地の長宗我部元親(1539~1599)は四国を制覇したが、豊臣秀吉に破れ、結局は土佐一国の大名になった。元親の死後、長宗我部盛親(1575~1615)が後を継ぐが、関ヶ原の合戦(1600)で西軍(石田三成側)についたため、所領没収、盛親は浪人となる。浪人盛親は大阪の陣(1614~1615)でも豊臣方へ馳せ参じるが、周知のとおり豊臣方の敗退となる。盛親は捕えられて斬首。盛親だけでなく子らも斬首され長宗我部の直系は途絶えた。 


 さて、関ヶ原の合戦で長宗我部は改易になった。徳川家康は長宗我部の居城である土佐の浦戸城の接収を徳川四天王のひとりである井伊直政(1561~1602)に命じた。


 余談であるが、現在放映されているNHK大河ドラマ『女城主・井伊直虎』は実は男であった、という資料もあって、実像はよくわからないようだ。一応、直虎の次の井伊家当主が井伊直政である。


 井伊直政が土佐の浦戸城へ派遣した使者に対して、土佐の長宗我部家臣団は、浦戸一揆を起こす。長宗我部の主力戦団は一領具足という半農半兵である。長宗我部家臣団の内部分裂もあって、浦戸一揆は失敗し、273人の一領具足の首が浦戸の辻にさらされた後、首は塩漬けにして大阪の井伊直政のもと送られた。


 そして、1601年、山内一豊(1545~1605)が土佐の支配者として入国した。浦戸一揆の残党狩りは継続されていた。1602年3月、山内家入国祝賀行事として大々的な相撲大会が桂浜で開催された。この時の見物客のなかに、指名手配残党が多数いて、73人が逮捕され、桂浜から種崎へ移されて磔にされた。


 この事件は、あくまでも浦戸一揆の残党狩りのワンシーンに過ぎないのだが、司馬遼太郎が『功名が辻』で桂浜相撲大会大虐殺として書き、それをNHKが大河ドラマにしたため、偽歴史が定着しつつあるようだ。『功名が辻』では、桂浜相撲大会大虐殺によって一領具足の反抗はなくなった、とされているが、まったくの嘘で、1603年11月には滝山一揆(=本山一揆)が発生している。 


 山内一豊の土佐支配は極めて不安定であった。一豊は土佐入国の直後に、高知城の築城を命じたが、山内一豊が浦戸城から高知城建設現場へ視察する際は、襲撃の用心のため同装束六人衆という影武者を同行させた。本人1人プラス影武者5人で、六人衆。一領具足の一揆・反抗が続けば、「山内一豊は大名の能力なし」と判断され、山内家だって、どうなるかわからない。


 山内土佐藩の基本構造は、山内氏の一族である「一門」が最上位にあり、その下に山内氏とともに土佐に移り住んだ譜代の家臣である「上士」、その下に「下士」がいる。下士には郷士・徒士・組外・足軽・奉公人などがいる。問題は、下士に位置づけられている「郷士」である。「長宗我部家臣団=一領具足=郷士」である。弾圧だけでは、怨みが深まるだけで、なかなか上手くいかないものだ。どう懐柔・宥和するか、である。それが、山内土佐藩の最大問題である。


 当然、百姓の生活なんか全く無視で、土佐では三反以下、家屋なしの零細農民が半数以上である。農地を捨てて逃げ出す「走り者」が続出で、百姓対策の最大のものは「走り者」への厳罰主義だった。あるいは、強制労働である。百姓は年に2ヵ月、藩が決めた木材伐採をしなければならず、鉄砲を持った足軽に監督されながら労働した。これは、もう奴隷労働である。 


 そんななか、1605年、山内一豊が死去し、2代目藩主に山内忠義(1592~1665)が就任した。 


 山内忠義の藩主時代、前半は、大阪の陣への出兵の軍資金借金の返済で、増税政策でなんとか切り抜ける。また、村上八兵衛の徹底的な検地で、3万3800石の増収となった。検地とは今日的表現ならば「税務署の課税もれ調査」かな。村上八兵衛は土佐中から恨まれ、土佐に住めなくなって、行方知れずになった。 


 参考までに、山内一豊が入国した時は、土佐は24万石と言われていた。一豊が正確に検地したら20万石だった。石数が少なければ幕府からの公役が少なくなるので、土佐藩にとっては20万石はいいことであった。伝説では、家康からの一豊への「お墨付き」は120万石だったが、「一」の字を鼠がかじったので20万石となった。そのため、土佐では鼠を「お福さま」として大切にしているというフィクションが生まれた。 


 一豊の検地は、いわば台帳だけの検地であった。しかし、村上八兵衛の検地は現地を調べてのものだった。2代目藩主・山内忠義は幕府に「20万石プラス3万3800万石」と修正申告すべきか悩んだようだ。あれやこれやで、なんとなく、土佐は24万石と言われ続けた。


 山内忠義の前半治世で、土佐藩も、まあまあ落ち着きつつあった。そして、1636年に野中兼山(1615~1664)が家督相続で奉行になるや、藩主・山内忠義は兼山に藩政改革を命じた。若干22歳である。1636~1663年の28年間、野中兼山は怒涛のごとく藩政を推進した。


 なお、野中兼山の祖父の妻は山内一豊の妹である。野中兼山の母は大阪の商人の娘である。13歳の時、実父の従兄弟で土佐藩の奉行職にある野中家の娘いちの入婿となっていた。   


(3)新田開発、森林整備、港湾建設 


 野中兼山の事業で最も注目すべきは、新田開発と郷士活用である。


 江戸時代初期は、全国で新田開発ブームであった。野中兼山は、それこそ爆発的というか強権的というか、要するに、膨大な強制労働によって推進した。山田堰、八田堰、舟入川、弘岡井筋など15ヵ所の用水路を建設し、7万5000石の新田を開発した。


 この新田開発に、大量の「一領具足子孫⇒郷士」を活用した。一領具足の子孫が開発した新田は、彼らに与え「郷士」として処遇し、藩政の末端役人とした。


 野中兼山のこの政策によって、約600人が郷士になった。この時、「上士」の数は296人だったから、新郷士600人は、大々的な「一領具足子孫⇒郷士」政策であった。前述したように、山内土佐藩の最大問題とは、「長宗我部家臣団=一領具足=郷士」問題である。他国から来た征服者への基本的な不平不満はあるものの、かなり宥和・懐柔されたと言える。


 また、江戸時代初期は大植林時代であった。すでに、土佐は檜の産地として有名であったが、野中兼山は資源の枯渇を憂い、数々の森林政策を実行する。 


➀留山の制。藩有林の指定で、いかなる木といえども勝手に切ってはならない。その数、1000ヵ所以上。これによって、山焼きと焼畑農耕が禁止された。 


②留木の制。勝手に伐採してはいけない木で、檜、楠、杉など16種が指定された。また、ツバキなど7種は薪に切ってはならないとされた。


 ③番繰(ばんぐり)制。一般に「輪伐制」と言われる。樹木の成長速度、全体の資源量を勘案して計画伐採すれば、資源の枯渇はない。檜、杉などは50~60年、薪炭用は15~20年の輪伐制を採用した。


 ④木材輸送船の増加禁止。470艘に制限し、老朽船の代わりに新船をつくる場合も、原形のままで輸送力アップは認めない。 


⑤植林の奨励。野中兼山がつくった『国中掟』にも、山や広い屋敷の所有者は、松、檜、杉、桐の苗を植えろ、とある。 


 こうして土佐の森林政策は野中兼山の強権(百姓の奴隷労働)によって確立された。しかし、独裁者・野中が失脚するや、濫伐が復活して、輸送船は2400艘に増加し、山は刈り尽くされる。そうなると、船主も不況となり、元文(19世紀中葉)には200艘余に減少……と記録されている。


 米、木材、各種商品を輸出するため、港湾整備もドンドン実行した。手結内港(日本初の掘り込み式港湾と言われている)、津呂港、室津港をつくる。柏島に防波堤を設けて港と漁場をつくる。浦戸の港口を保護するために波止め突堤をつくる。土砂くずれ防止のため海岸に植林した。


 土木関連以外でも、各種の物産の開発をした。鰹節の品質向上、蜂蜜の奨励、捕鯨、鯉の養殖、ハマグリの養殖(失敗)、マツタケ、マタタビ(薬用)の商品化、紙や茶の専売など。それぞれに、面白いエピソードがあるが、鯉の養殖の真偽不明の逸話を紹介します。


 野中兼山は1万疋の鯉を生け簀に放流したが、3年で全滅。大阪の商人に相談したら、 


「土佐にナマズはおりまっか?」


「いいや、いない」


「そんなら、鯉1万疋といっしょにナマズ1万疋をいっしょに放ちなはれ」


 鯉とナマズの生態学的関係は知らないが、これによって土佐に鯉が普及した。 


 それはいいのだが、土佐では鯉よりも未だ見たこともないナマズに人気が殺到した。「鯨の孫かいな」というわけである。毎日、生け簀にはナマズの見物客が殺到し、押すな押すなの大群衆。絵師も絵では見たことがあるが、実物は初めてと、絵本と比べ見る。今も昔もミーちゃんハーちゃんは女性のほうが多いらしく、ご婦人の見物客が多かったそうだ。 


(4)教条的儒教思想


 あれやこれやの事業によって、土佐のいたる所に野中兼山の関連遺跡がある。膨大な土木作業には膨大な人力が必要だ。それに駆り出されるのは百姓だ。郷士も百姓に混じって新田開発に参加したが、それは自分の田畑になるから頑張ったのだ。とにかく膨大な数の百姓が強制労働を強いられた。次の逸話や歌がそれを物語っている。 


「ひりばりは伝右衛門様でもかまわざった」(大小便は野中兼山でも許した。苦しい強制労働でも大小便にかこつければ休息できた) 


「吸江(ぎゅうこう)五台山は仏の島よ、ならび高知は鬼の島」(吸江という地名に五台山竹林寺がある。そこには慈悲深い文殊菩薩様が安置されている。それに対して高知には野中兼山という鬼がいる)


「雪や氷れ、アラレや氷れ、荒瀬の川がとまれや氷れ」(新田開発のため松田川支流の分水工事は厳寒で難工事だった。野中兼山は「川が氷って工事ができなくなれば休んでよい」と言ったので、百姓たちこの歌を歌った)


 こうした強制労働を是とする思想は何だろうか。 


 一般的に野中兼山は偉人である。儒教が好きな政治家は、「100年先を見据えた施策を果敢に実行した」と称賛するが、私は、なんか好きになれない。なんか、儒教の教条的イデオロギーの狂信者ではなかろうか、と思ってしまう。封建制度の基礎は百姓からの年貢である。無慈悲な取り立てを可能にするために、徳川幕府は3つの仕掛けをつくりあげた。 


①過酷な罰則 ②怠けずに働くことは絶対善 ③身分制度(分をわきまえる、下には下がいる)


 野中兼山は、儒教イデオロギーに基づいて②③を普及させた。


 ここで、儒教と野中兼山の基礎的知識を記載しておきます。とりあえず、紀元前の孔子・孟子の教えと南宋の朱熹が始まった朱子学は、相当異なる、と認識してほしい。孔孟の教えは素朴でわかりやすいが、朱子学は、孔孟の教えに、抽象的概念(理と気)、仏教論理体系、道教生成論などをプラスして上手にまとめ上げた壮大な哲学である。支配者にとって便利なイデオロギーなので東アジア各国の官学となった。あっさり言えば、「上(権力者)から目線の、道徳がらみの権力行使」イデオロギーである。 


 さて、20~30年前に買った高校の教科書には、「南村梅軒によってひらかれ、土佐の谷時中にうけつがれた南学も朱子学の一派で、その系統には山崎闇斎、野中兼山らがでたが、とくに闇斎は神道を儒教流に解釈して垂加神道を説いた」


 と書いてある。これは間違いです。


 南村梅軒や谷時中は僧侶としての一般的教養として四書五経や朱子学を知っていて、それを講義していた程度である。しかし、野中兼山は「儒教こそは天下国家の学問である」と位置づけ、儒教と仏教を完全分離した。彼自身の朱子学研究努力もあるが、彼の権勢・財力によって朱子学を保護したからこそ南学(海南学派)は創始され、山崎闇斎らの思想家が育ったのである。


 南学は、むろん朱子学の一派である。実質的に野中兼山が創立者である。ゆえに、兼山のように「実践・実行」を重んじた。儒教用語で言えば「知行一致」なのだが、朱子学は「知先行後」で、陽明学が「知行一致」である。だから、南学は朱子学ではあるが陽明学の影響もある、ということだ。 


 野中兼山の失脚後、南学の儒者は兼山一派とみなされ、土佐を追放された。これを「南学の四散」というが、四散した南学儒者は各地で朱子学流行の一翼を担い全国に影響を及ぼした。 


 本筋に戻して…… 


 1643年、野中兼山は、自分の知行地である長岡郡本山の領民に、いわゆる『本山掟(もとやまおきて)』(11条)を出した。そのエキスは次のようなものである。 


 春は田かえし、夏は草かり、秋は取り入れ、冬は麦まきと、時期を誤らぬように心がけ、


 米も三分の一の百姓の取り米のうち、すぐにたべずに秋冬は雑炊やその他何でも食べるようにし、 


 家の普請は耕作の暇におこない、家や衣類は見苦しくてもよいから分不相応であってはならぬ、家のまわりには役にたたぬ木を植えてはならぬ、


 朝寝は銀三匁(もんめ)の罰金に処する 


 さらに、百姓の酒の買い飲みを禁止して、「赤面三匁、千鳥足十匁、生ま酔五匁」の罰金制度も伝わっている。 


 要するに、野中兼山は朱子学(儒教)によって、百姓のあるべき姿を、次のように位置づけた。 


・働くことはいいことだ。怠けたり休んだりすることは悪いことだ。 


・粗食や質素な生活はいいことだ。贅沢は悪いことだ。 


・朝早く起きて朝から働くことはいいことだ。朝寝坊は悪いことだ。 


・酒を飲むことは非常に悪いことだ。  


 この『本山掟』はすぐに土佐一国の『国中掟』へ拡大する。野中兼山の影響かどうか、そのところがよくわからないが、同趣旨の儒教イデオロギー道徳は日本中に大流行する。幕府公認の『慶安御触書』は、今では、ほぼ偽書とされているが、そこに書かれていることが、儒教イデオロギーの道徳である。


 なお、『慶安御触書』は、甲信地方に広がった農民教諭書『百姓身持之事』(1697年)がもとになって、タイムマシン的錯覚によって『慶安御触書』(1649年)になったようだ。ともかくも、『本山掟』のような儒教イデオロギー道徳が、幕府公認の道徳になった。 『慶安御触書』のエキス 


・名主や組頭を真の親のように思って尊敬すること。


 ・酒や茶を買って飲まないこと。妻子も同じ。 


・農民たちは粟や稗など雑穀などを食べ、米を食べ過ぎないこと。 


・農民たちは麻と木綿のほかは着てはいけない。帯や裏地にも使ってはならない。


 ・朝起きをし、朝は草を刈り、昼は田畑を耕作し、夜は縄をない、俵を編むなど、それぞれの仕事を油断なく行うこと。 


・男は農耕、女房は機織りに励み、夜なべをして夫婦ともよく働くこと。たとえ美しい女房であっても、夫のことをおろそかにし、茶を飲み、寺社への参詣や遊山を好む女房とは離別すること。しかし、子供が多くあり、以前からいろいろと世話をかけた女房であれば別である。また、容姿が醜くても、夫の所帯を大切にする女房には、親切にしてやるべきである。 


・煙草は吸わないこと。これは食物にもならならず、いずれ病気になるものである。その上時間もかかり、金もかかり、火の用心も必要になるなど悪いものである。すべてにおいて損になるものである。


 野中兼山の儒教イデオロギー狂信は、次のような事実でもわかる。


 儒教は「孝」を非常に大切にする。母の死に際して、儒教道徳「孝」の模範実践として儒教式葬儀を大々的に行い、巨大な廟を建てた。土佐の人々にとっては初めての光景なので、「これは異教(キリスト教)では?」と疑い、兼山は江戸で弁明する有様であった。 


 儒教道徳では「同姓を娶らず」がある。正妻いちと兼山は同姓である。そのため、わざわざ離婚した。


 兼山は仏教に代わって儒教を道徳の中心にしようとした。それに関連する逸話では、次のものがある。兼山の知行地に儒教研究所が建設された。ある日、魚肉料理が出された。僧である山崎闇斎は、それを食うか否か。僧ならば食べない、儒者ならば食べる。兼山が仕掛けた僧闇斎への踏み絵である。黙って見守る兼山。そして、闇斎は魚肉を食べた。日まもなくして、闇斎は「仏学、道にあらず」と断言して還俗した。


 独裁権力者の意思は、すぐさま法令となる。火葬は禁止され土葬が命じられたが、一般化しなかったようだ。ただし、今でも土葬が残っている。


 禁酒・節酒も押し付けたが、兼山失脚後、その反動で大酒を飲むようになった。そして今も、高知は大酒飲み文化である。   


 もちろん、土木事業、搾取だけでなく、福祉的なこともした。四国巡礼の起源は、ハンセン氏病の巡礼だった。巡礼中に死亡して天国に行くということで、多くが巡礼途中で死亡した。「行き倒れ遺体」は粗略に放置されたが、しっかり埋葬させた。また、天然痘の患者は山奥へ連れていき、「置き棄て」して、餓死させるという風習を禁止して、天然痘専用の施設をつくった。 


 1663年、野中兼山は失脚した。背景には、 


➀後ろ盾の藩主山内忠義が引退した 


②農民からの搾取が酷過ぎた。庶民大衆からは兼山への怨念が渦巻いていた 


③藩の重臣達は兼山の独裁に対し反感が積もっていた。 


そして、


④幕府も、兼山の土佐藩に不信を抱き、松山藩主に土佐藩の監視を命じた。


 兼山は失脚後3ヵ月で死去した。毒殺説、自殺説がある。


 兼山失脚後の新政は、減税、専売廃止、飲酒・踊り・相撲などの禁を緩和などで、巷は新政を謳歌した。 


 兼山一族は土佐の西の果て、宿毛へ幽閉された。男は妻を娶ること禁止、女は嫁になること禁止。40年後の1703年、兼山の男系がすべて途絶えて、ようやく幽閉が解除された。兼山の四女・婉は44歳で高知に帰り優れた女医となった。大原富枝の小説『婉という女』は映画(主演・岩下志麻)にもなった。  


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太田哲二(おおたてつじ) 

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。