「人々の平均寿命を伸ばすのに重要な要素は」といえば、まずは「栄養状態の改善」、続いて「感染症の克服」とは大方の一致した意見だろう。このうち、感染症を克服する上で、衛生状態の改善と同様に大きく寄与してきたのが抗生物質だ。
その重要な薬の歴史や誕生の意義を振り返りつつ、体内の生態系に及ぼす影響を見据えて、現在の過剰使用に警鐘を鳴らすのが、『抗生物質と人間』である。
抗生物質の歴史は〈医学黄金時代の到来を告げた〉という「ペニシリン」から始まる。
インターネットはよく知られるところだが、さまざまな発明は軍事上の要請から生まれることがある。ペニシリンの大量生産もそのひとつ。〈第二次世界大戦の勃発とともに、戦場で受けた傷や、肺炎の合併症、腹部や尿路、皮膚の感染症で死ぬことを運命づけられていた多くの兵士を救うことは時代の要請〉だったからだ。
〈第一次世界大戦当時、腸チフスと赤痢は戦闘そのものより多くの死者を出した。第二次世界大戦下のアメリカは、ペニシリンによって初めて、感染症で亡くなる兵士の数が銃弾で亡くなる兵士の数を下回った国となった〉という。
以後、現代にいたるまで、さまざまなタイプの抗生物質が誕生し、医療に貢献してきた。
一方で、抗生物質は過剰使用や不適切な使用が問題視されてきた。例えば、本来、効くはずがない、ウイルス性の風邪(急性上気道炎)で〈外来を受診した患者の約六割に抗生物質が投与されるという事態〉が起こっているという。
その大きな理由のひとつが、患者の要請だ。本来、効くはずがない、ウイルス性の風邪にも抗生物質が効くと信じている人は多く、〈効くと考えているために、抗生物質を求めてしまう〉のだ。
考えてみれば、昔は風邪で病院にいくといつも抗生物質が出されていた(オレンジのマーブルチョコみたいな形のものだったと記憶している)。それが一般的だったのなら、「風邪には抗生物質」という誤った常識が身についてもおかしくない。
風邪に抗生物質が効かないと知っていても、〈抗生物質投与の害はほとんどない〉と考え、患者の要請に応じて投与する医師も多いという。ちなみに、英国でも普通の風邪に対して、抗生物質が処方されているという。
■「現代の疫病」の背後にも
たしかに、〈抗生物質投与の害はほとんどない〉ならば、医療費の無駄遣いという点を除けば大きな影響はない。しかし、本来不要な抗生物質の使用は、さまざまな問題を引き起こしている。
代表的なのが薬剤耐性菌だ。メチシリン耐性黄色ブドウ球菌、バンコマイシン耐性腸球菌といった、抗生物質が効かない菌の登場である。〈現在の状況は、細菌が薬剤耐性を獲得するための環境作りをしているようなものだ〉という。 〈感染症を抑制するはずの抗生物質が感染症への感受性を飛躍的に高める〉、いわば〈「抗生物質の逆説」とも言える現象〉も生じている。
肥満、アレルギー、食物アレルギー、花粉症、アトピー性皮膚炎、糖尿病といった「現代の疫病」の背後には、抗生物質が関係していると考える研究者もいるという。
なぜ、有害な細菌に効く抗生物質で、こんなことが起こるのか?
〈私たちが「有害」と考える生物(微生物も含む)であっても、相互関係の連環のなかで、ヒトの利益として機能している例は無数にある〉からだ。よくネタにされる、「清潔にしすぎると病気する」「日本に住んでいるインド人が、母国に帰るとお腹をこわす」といった話もひょっとしたら、そんなことが関係しているのかもしれない。
細菌を極限まで減らすのではなく、本書が提言するように〈共生、共存〉していくことが必要なのだろう。そのためには、〈抗生物質の使用を必要最小限にまで減ら〉す、〈特定の細菌にだけ効く抗生物質を使用〉する、が正しい道となりそうだ。 「抗生物質」を舞台に始まる本書だが、生態系や未来の医療の形まで考えさせられる一冊である。(鎌)
<書籍データ>
『抗生物質と人間』
山本太郎著(岩波新書760円+税)