(1)蜻蛉日記・更級日記・和泉式部日記


 平安時代中期の日記文学の人気ベスト3は以下のとおり。 


●『蜻蛉日記』――藤原道綱母(推定936~995年)


 トップエリートの超美人妻、赤裸々に告白する愛憎おりなす夫婦喧嘩の実話物語という感じかな……。『昔人の物語』(34)に書きました。 


●『和泉式部日記』――和泉式部(978~没年不詳)


 和泉式部は恋、恋、恋の男性遍歴が多すぎて、藤原道長から「浮かれ女」と言われたり、紫式部からは「けしからぬかたこそあれ」と評されている。とってもエロですね~、すごくスケベですね~という感じ。 


●『更級日記』――菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ、1008~1059年以降)


 作者の人生回顧録。ドロドロ愛ではなく、すがすがしい感じで、私は、これが一番好きです。 


 なお、参考までに。 


 平安時代の「日記」と称する作品で高校の日本史教科書に名前が登場するものは、次のものです。 


●『土佐日記』――紀貫之(866または872~推定945年) 


 土佐から京までの旅日記。 


●『紫式部日記』――紫式部(生没不詳)


 宮中の様子が書かれてある。同僚の清少納言への辛口評価、前述した後輩・和泉式部への辛口評価など、面白い部分もあるが、読み物としては面白くない。当時の宮中の様子を知る資料的価値が大きい。 


●『御堂関白記』――藤原道長(?~1028年)


 当時の貴族社会を知るうえで資料的価値が高い。読み物としては面白くない。


 2)『更級日記』のストーリーとテーマ 


「日記」と名付けられているが、作者52歳の頃、13歳からの約40年間の自叙伝である。 


 作者の父は、菅原道真(845~903年)の5世にあたる。『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱母は、母の異母姉です。


 ちなみに、平安時代の貴族(5位以上)は約1600人です。その内、約1000人が平安京に住む。全国総人口は約600万人、平安京の人口は約10万人です。要するに、貴族社会は極めて小さな社会で、家系図をたどると、AとBは親戚ということが、とても多い。家系図を丹念にたどると、紫式部も清少納言も作者の親戚である。 


 作者は京で生まれたものの、父が上総国(千葉県の中部)の介(すけ)になって赴任したため、上総国へ引っ越し。上総国は、都から遠く離れていても、国のランクは大国で、しかも親王任国である。地方行政の国へ派遣される官吏は、国司と言われ、国司の序列は、トップが守(かみ)、ナンバー2が介であり、その下にいくつかある。親王任国であるから、トップの守は親王で、当然ながら京にいて現地へは行かない。したがって、現地では、介が最高ポストである。だから、作者の父は、上総国の現地では最高地位にあった。作者は、10歳から13歳まで上総国でお嬢様育ちということである。


➀物語大好きお嬢さん


 物語でも、どうやら「恋の物語」が大好きであった。まぁ、思春期だから、普通かも知れないが、とにかく非常に、大変、とても、異常に物語が大好きであった。とりわけ、姉や継母が断片的に話す『源氏物語』に大関心を持ち、読みたい、読みたい、と熱望するのであった。でも、田舎の上総国では手に入らない。ついには、等身大の薬師仏をつくって必死にお祈りするのであった。 「京にとくあげ給ひて、物語の多く候ふなる、あるかぎり見せ給へ」(京に上洛させてください、都には物語が多くあると聞いています、ありったけ見せてください) 


②上総国から京への旅


 お祈りの甲斐あって、13歳の時、父の任期が終わり京へ戻ることになった。約3ヵ月の旅であった。でも、この旅は作者にとって、心に深く残る旅だった。『更級日記』は40年間の回想録であるが、この3ヵ月の旅が、回想録の2~3割を占めている。読んでいても、すがすがしいですよ。 


③物語読書三昧 


 京へ到着するや、旅の整理整頓も終わらないうちに、実母におねだりして、手あたり次第に物語を読みまくる。全巻揃った『源氏物語54帖』を入手するや、天にも昇る嬉しさ。 


「一の巻よりして人もまじらず、几帳の内に打ち臥して、引き出でつつ見る心地、后の位も何かはせむ」 


「昼は日ぐらし、夜は目の覚めたる限り、火を近くともして、これを見るよりほかの事なければ、おのづからなどは空に覚え浮ぶ」 


④物語(夢)と現実 


 光源氏のような理想的な男と恋をする……なんて夢を思う。しかし、現実はそうはいかない。結局、作者はやさしい心を持つおっさん中流貴族と結婚する。『更級日記』の基本ストーリーのひとつは、「物語(夢)と現実」のテーマにあるように思う。


⑤法華経第5巻の夢


 とりあえず、話の前提として。 


 法華三部経は、「無量義経」「妙法蓮華経」「観普賢菩薩行法経」をいう。その「妙法蓮華経」は「法華経」とも言う。「妙法蓮華経(=法華経)」は28品から成っている。「品(ほん)」は、章とか編の意味。28品を、昔は8巻に分けることが一般的だった。これは、内容ではなく分量の都合で8巻となっていた。その第5巻には、提婆達多品第十二・勧持品第十三・安楽行品第十四・従地涌出品第十五の4品が収められている。老婆心ながら、「提婆達多品第十二」とは「第十二章提婆達多」という意味である。その「提婆達多品第十二」の内容は、提婆達多(だいばだった)という名の悪人が成仏する話(悪人成仏)と龍女という名の女性が成仏する話(女人成仏)です。


 そんな前提を押さえて。 


 若き作者は、僧の夢を見た。僧は「法華経の第5巻をよく読みなさい」と言う。 第5巻は、女人成仏が書かれているので、当時のインテリ女性にとっては必須のお経である。ところが、若き作者は、お経なんかより物語のほうが大好き、と僧の夢のお告げを無視する。要するに、「物語」と「宗教」の相克です。発展させれば「芸術」を取るか「宗教」を取るか、という大テーマである。 


⑥でも、やっぱり物語が好き 


 52歳の作者は、『更級日記』の中で、「物語(夢)と現実」そして「物語と宗教」の大テーマを登場させて、物語なんかに夢中になっていた若き日々を「いとはかなく、あさまし」としきりに反省している。私の読み方が天邪鬼かもしれないが、『更級日記』を読んでいると、なんとなく「でも、私は物語がやっぱり好き」「物語に夢中になっていた私が好き」という作者の声が聞こえてくる。 


⑦ストーリーに戻って  物語大好き少女、恋に夢見る少女は、近親者の死、宮中体験、中年おっさんの中流貴族と結婚、一男二女をもうける、子供も独立、夫も死亡。ここでお終い。 


(3)「更級」とは


 題名の『更級日記』の「更級」とは何か。更級は、信濃国、長野県にあった地名である。現在の長野市・千曲市の一部で、「更級そば」が有名である。 『更級日記』最後の部分は、夫の信濃国への赴任と突然の死である。


 夫は信濃国の国司として信濃国へ出発した。長男を同伴した。夫も立派な装いだが、作者の心は、当然ながら母親として成長した我が子の晴れ姿のほうに比重があった。 


 赴任から8ヵ月後、夫が突然、京へ戻ってきた。病気になったのだ。そして、すぐに死んでしまった。悲しい、悲しい、涙、涙。 


 そして、悔悟・反省。これまでは、「おねだり信仰」であったが、阿弥陀仏に一切をまかせる他力信仰への転換がうかがわれる。でも、悲しい、悲しい、涙、涙。 


 そして、『大和物語』に収められている「姨捨山伝説」の中の歌を記して『更級日記』は終わる。 


我が心 なぐさめかねつ 更級や 姨捨山に 照る月を見て 


 この歌が作者の心境というわけ。この歌だけをポンと書いても、意味がボンヤリなので、若干の解説を。 


『大和物語』は平安時代に成立した歌物語です。作者は不明で、宇多天皇(在位887~897年)の身辺にある女房ではないか、と言われている。歌物語とは、和歌と散文で成り立っていて、『伊勢物語』も歌物語である。『伊勢物語』は、在原業平という主人公がいるが、『大和物語』は、いわば短編小説集(173話)である。その中で最も有名なのが、「生田川伝説」と「姨捨山伝説」である。 


「生田川伝説」は、2人の男から求愛された処女が生田川に身を投げ、男2人も後を追って身を投げる悲しい純愛物語。『万葉集』にもある。生田川は神戸市灘区を流れている。 


「姨捨山伝説」は、信濃国の更級に住む男のお話。幼少期に親を亡くし、伯母が親代わりになって育てる。男の妻は、薄情で伯母を嫌っていた。妻は男に伯母の悪口を吹き込んだ。伯母は年老いて腰が曲がり、妻は厄介払いしようと、男に、深い山に捨ててください、と言い立てる。男は、伯母を背負って、高い山に伯母を置き去りにして逃げ帰った。妻の伯母への悪口を信じてしまって、伯母を山へ捨てたのだが、幼少期から親のように育ててくれ、ずっと一緒に暮らしていたのに、こんなことをしてしまったと、悲しくなった。山の上の明るい月を眺めて、一晩中、寝ることもできず、悲しみ嘆いて歌を詠んだ。


我が心 なぐさめかねつ 更級や 姨捨山に 照る月を見て(私の心を慰めることができない。更級の姨捨山に照る月を見ていると)


 翌朝、男は伯母を連れ戻した。それから、この山を姨捨山と言いました。 


 慰めがたいとき、姨捨山を引き合いに出すのは、これが理由でした。 


 ということで、『更級日記』の作者は、悲しみを慰められない気持ちを、この歌に託したのである。 


 余談ながら、深沢七郎の小説『楢山節考』と『大和物語』の「姨捨」をごちゃ混ぜにしている人がいる。あるいは、山奥には「老人遺棄の因習」があった、と信じている人が多い。『楢山節考』はあくまでもフィクションである。『楢山節考』は戦後の小説で大ヒットし映画にもテレビにもなった。そのため、そんな誤解を生んだようだ。日本には、飢饉の時の「間引き」(嬰児殺し)の因習はあったが、「老人遺棄の因習」はなかった。むろん、『楢山節考』は人間の生を根源的に見つめる小説として画期的であることに間違いない。 


(4)『浜松中納言物語』『夜半の寝覚』


 この2つの物語は、菅原孝標女の作と言われている。最大の根拠は藤原定家(1162~1241年)が、伝聞として菅原孝標女の作と書いてある。さらに、散逸して現存しないが『みずからくゆる』『あさくら』も菅原孝標女の作と書いてある。 


 菅原孝標女は『更級日記』を書き終えてから、猛烈に物語を書いたのだ。 


『浜松中納言物語』は、完璧な美男子である中納言の恋の遍歴である。義父の娘(皇太子と婚約中)と関係して女子誕生。中納言は唐へ行き、唐の皇后と関係して男子誕生。次から次に美女登場……、エロに加えて、唐まで範囲を広げ、夢のお告げやら輪廻転生、おもしろ過ぎる。


 『夜半の寝覚』(よわのねざめ)は、主人公は女性で寝覚の上(中の君)という。彼女の恋遍歴である。これまたエロですね~、天女やら生霊やら、若い男、老人の男、これまたおもしろ過ぎる。  若き頃の物語大好きお嬢さん完全復活である。いいね!  


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太田哲二(おおたてつじ) 

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。