シリーズ『くすりになったコーヒー』
李時珍(1518〜1593年)は知っていたはずなのに・・・どうして?
●コーヒーが中医薬にならなかった訳とは・・・時珍に無視されたからである。
中医学は本草と呼ばれる薬用植物を使って病を癒す医学書です。日本では漢方薬に変身して現在に至っています。李時珍は明王朝の1596年、諸説紛々とした古代本草書を、いわばメタ解析して、名著「本草綱目」を残しました。「本草綱目」は全52巻、1898種の薬物とそれらを組み合わせた8161もの処方が書かれています。書き忘れのない多数です。
●それほど多くの処方の中に、コーヒーがない。
本草綱目にコーヒーがない理由を探ってみました。最も簡単な答えは、「お茶がないのだから、コーヒーがある訳がない」。確かにお茶は現代日本の漢方薬には入っていません。少なくとも医療用に処方された百数十種類の医療用漢方薬にお茶は入っていないのです。しかし、本草綱目の中にはお茶はちゃんと入っています。
●本草綱目のお茶の薬効は、消化不良、下痢、頭痛、冷え・・・その他です。
ですから、時珍はお茶を薬として見ていたのです。その時珍が生きた16世紀、1518〜1593年、コーヒーは世界にどれほど普及していたでしょうか?こんなことを調べてみました。つまり、時珍はコーヒーの存在を知っていたのか、飲んだことはあるのかなど、史実の有無を知りたかったのです。
●時珍より100年前、中国明代の武将鄭和(1371〜1434年)は、生涯に7回もの大航海を実行し、そのうち4回はアラビア半島南部とアフリカ大陸東岸のケニアまで遠征していた。
☆第4次(1413年) アラビア半島のアデン
☆第5次(1417年) アフリカ大陸東岸のケニア
☆第6次(1421年) アラビア半島のアデン
☆第7次(1431年) アラビア半島のメッカ
ここで問題は、鄭和が大航海に出ていた15世紀前半、アラビア半島にコーヒーが普及していたか否かということです。もし普及していたならば、船団の誰かが、中国にはなかった珍しいコーヒーを持ち帰っていたはずです。鄭和自身も飲んだに違いないのです。
●コーヒーは11世紀までに、イスラム社会に行き渡っていた。
そして13世紀の半ばには、アラビア半島の何処かで、焙煎豆を煮出して飲む習慣が生まれていました。さらに14世紀が終わる頃には、イスラム教の聖地メッカを訪れた僧侶たちが、生豆を故郷に持ち帰り、イスラム教社会全体にコーヒーが普及したのです。ですから鄭和の船団がアラビア半島のアデンに寄港したり、陸路メッカを訪問したとき、コーヒーにお目にかかっていたことは確かなことだと思われます。
では、時珍の時代のイスラム・コーヒー事情はどうでしょうか。
●1517年、オスマン朝トルコ帝国のセリム1世、エジプト遠征でコーヒーを持ち帰る。
●1600年、アラビア人、インド西岸にコーヒーノキを移植する。
とのことですから、普及していたとはいえ、誰でも何時でも何処でも飲めるというものではなかったのです。ある程度のお金持ちが、何かのときに飲む・・・というものだったと思われます。もしそうであっても、十字軍の名で攻め込んできたキリスト教徒とは反対側の、遥か東の方から珍しいものを持って来た鄭和一行は、歓迎されたはずなのです。
さらにさらに、イスラムの古典医学書には「コーヒーが胃の薬である」と書かれています。これが薬用植物を重んじる中国に伝われば、「コーヒーは中医薬」に変身しても何の不思議もありません。学識豊かで歴史に詳しい時珍ですから、100年前の鄭和とコーヒーの話を知らないはずはないのです。
●時珍の気持ちは量りかねますが、何故か時珍はコーヒーを薬にしなかった。
こうして本草綱目に収載されなかったコーヒーは、中医薬として日本に伝わることはなかったのです。漢方薬にコーヒーが含まれていない訳は、どうやら「時珍はコーヒーが嫌いだった」によるのです。
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(第263話 完)
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