シリーズ『くすりになったコーヒー』


●コーヒー史に見る最大のスペクタクルとは?


 それは17世紀、西欧諸国に起きた「新コーヒー産地争奪戦」。特に酷かったのが、何度となく繰り返されたイギリスvsオランダ海戦でした。海の上で互いに死力を尽くして戦ったその目的は、輸送帆船に積み込まれた、砂糖、胡椒、綿花、そしてコーヒー・・・特にコーヒーを狙った海賊まがいの略奪戦だったのです。


 大航海時代(15世紀中期〜17世紀中期)、イエメン辺りのコーヒー原産地では生豆や苗木の持ち出し禁止。輸出用の生豆はモカ港内の大釜で茹でてから出荷していたのです。そんな中、旅行客を装ったイギリス人やらオランダ人やら、はたまた東インド会社の出張社員やら、ちょろまかした生豆を本国へ持ち帰り、苗木に育てていたのです。


 やがて芽生えた何千本もの苗木は大航海の帆船に積まれ、遥か南の島々へと運ばれました。そして現在のコーヒーベルト地帯の新植民地に新コーヒー畑が作られたのです。英蘭両国が激しく競り合ったのは、セイロン(現在のスリランカ)とジャワ(現在のインドネシア)辺りでしたが、戦場そのものは、戦利品の搬送に超便利な、英蘭国境のドーバー海峡だったのです(海戦画を参照)。



 1650年、コーヒーハウスで大ブレークしたイギリスでしたが、コーヒー豆はエジプトから輸入していました。輸入業者のなかには、他国へ転売して大儲けをしていた商人もいたようです。一方、イギリスより早くコーヒー輸入を手掛けたオランダは、コーヒーベルトの新植民地で自ら栽培した豆を売ろうと企てました。


 オランダはスリランカでの大失敗を教訓に、改めてジャワ島で栽培を始め、1704年になって最初の収穫に成功しました。大量のジャワコーヒーを船倉に詰め込んで、大船団が本国へ帰還したのです。今でもアムステルダム市内のコーヒーショップで割安に買えるコーヒー豆は、日本の等価格の市販品に比べて格段に美味しい気がします。先人の努力がずっと後の世まで活かされています。


 コーヒー栽培の第一ラウンドでオランダに敗れたイギリスは、リベンジを果たすべく、本国から一直線の西インド諸島へ向かいました。ジャマイカ島での栽培に成功し、ブルーマウンテン種を作ったのです。イギリスとオランダは激しく競合しながらも、いわゆる「三角貿易(図を参照)」の足場を構築したのです。そして「冒険」と「略奪」で始まった大航海が、いつしかコーヒー豆を筆頭にした「貿易」の航海に変わったのです(詳しくは → こちら)。




 さて大航海は、大型帆船の船団が武装戦艦に護衛されての航海でした。船団1つが運ぶ物資の量は大変なもので、コーヒーだけでも1艘に100トンは下らなかったと思われます。「そんな豪華な積み荷は放っておけない」と、英蘭両国の護衛艦長は思ったはずです。実際に大航海時代の大陸沿岸部は海賊が出没する危険な海だったのです。列強の艦隊が海路ですれ違う宝船を見逃すはずはありません。


 こうして本国の港に近いドーバー海峡は英蘭の艦隊が入り乱れ、効率よい積荷争奪戦が展開されました。度重なる海戦が終止符を打ったのは17世紀の終わりでした。ただし結着がついたわけではなく、海賊っぽい密かな幕だったようです。それでも新時代の貿易という物資の流れはヨーロッパの富を確実に増やしました。その中心に現地の人々の血と汗と涙が染みついたコーヒー豆があったのです。


●コーヒーが黒い悪魔と呼ばれた理由は、欲しくて止まなくなれば戦争でさえやってのける魔力を秘めているからなのだ。


 アングロやイスラムに比べると、ずっと穏健でシャイな日本人移民ですが、ハワイとブラジルで黙々とコーヒー農園の開拓に成功しました。もっとずっと後の世のことですけどね。


(第258話 完)


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