シリーズ『くすりになったコーヒー』
焙煎したコーヒー豆にたった1つだけ入っているビタミンはニコチン酸(VB3の1つ;下図の左)。1杯あたりの含有量は、深煎りで最大4~5㎎なので、1日2~3杯で必要量を満たします。VB3が欠乏するとペラグラ(重症の皮膚疾患)が起こります。見た目よりずっと致死的となる理由は、気管支や消化管など体内の粘膜が破壊されて、息ができない、栄養が摂れない、といった状態になるからです。
●VB3欠乏症とその予備軍がどれ程いるか、実態は不明で調査も難しい。
筆者がVB3欠乏症を心配する訳は、毎日食べるものでVB3を多く含むものが少ないからです。言い換えれば欠乏症の予備軍はかなり多い可能性があるのです。豚肉などにはニコチン酸アミド(同じくVB3の1つ;下図の右)が含まれていますが、毎日肉ばかりを食べる生活は良くないとの意見も多いのです。その意味では毎日飲むコーヒーにニコチン酸が入っているのは本当にありがたいことです。
●コーヒーのニコチン酸が実際に役に立ったと思われる歴史上の出来事がある。
江戸幕府は津軽藩に命じて、宗谷岬のロシア軍侵攻に備えました。しかし、厳冬期の食糧不足が原因で、浮腫病(壊血病と似ている)で死亡する兵士が後を絶ちませんでした。幕府は蘭学者の勧めに従って越冬地にコーヒーを支給したのです。その時の記録によれば、コーヒーが配られた冬に浮腫病で死んだ兵士は居なかったのです。
●先祖の苦労とコーヒーへの感謝の気持ちを込めて、弘前市は珈琲の街になった(詳しくは → こちら )。
記録に残された津軽藩兵の食事内容から、欠乏したであろう必須栄養素を予測したデータがあります(薬史学雑誌51(1):5-10;2016)。ほぼないに等しいくらいの欠乏はVA、次にVC、更にVB3と続いています。つまり津軽藩兵の浮腫病とはVA/C/B3の総合欠乏症だったようです。この中で、コーヒーで補給できるのはVB3だけですから、いくらコーヒーを飲んでもAとCは不足のまま・・・それでも浮腫病が防げた理由は一体どういう薬理学なのか、あるいは偶然の出来事だったのでしょうか?
●今年1月8日の朝日新聞にこんな記事が載っていました(原著論文は → こちら )。
新聞記事によれば、ミトコンドリアで働く重要な補酵素NAD(記事の☆)が老化を予防する新メカニズムが見つかったとのことです。新メカニズムとは、「NADの原料となるNMN(記事の□)が専用通路(記事の〇)を通って細胞の中に入る」というもので、専用通路のことを「NMNトランスポーターまたはNMNゲート」と呼ぶことにしたのです。
筆者がこの記事に注目したわけは、つい数か月前のNature誌にもNMNが載っていたからです。NMNとは、ニコチン酸アミド・モノヌクレオチドの略で、その分子の一部がVB3で出来ているのです(図1も参照)。Nature誌の論文は次のようなものでした。
●NADは病気を予防して寿命を延ばすために必須の補酵素で、普通はリサイクル(図1赤色のサルベージ経路)されている(詳しくは → こちら)。
このサルベージ経路にはニコチン酸アミドとNMNがあって、週に何回か肉や魚を食べていれば、普通はそれでよいのです。しかし、何かの理由でストレスが溜まると、リサイクルだけのNADでは必要なエネルギーを作れなくなって、VB3不足になってしまいます(詳しくは → こちら )。
●ストレス時のNAD不足を補うため、必須アミノ酸トリプトファンからの生合成経路(図1のデ・ノボ経路)が動き出す。
このデ・ノボ経路の中間体ACMSは、非ストレス時には必要ないので、脱炭酸酵素が働いて分解消滅しています。しかし一旦ストレスが掛かりますと、NAD生合成に向かってデ・ノボ経路が動き出し、結果として、デ・ノボとサルベージの両経路を合わせて十分量のNADが作られるというわけです。
さらにNature誌によると、ストレス時のNAD産生効率を一段と高めるために、ACMS脱炭酸酵素阻害薬が試されました。昔から知られていた阻害薬ピラジナミド(結核治療薬として使われている)では作用が弱いとの考えで、新薬候補物質を作って試したのです。しかしコーヒーを研究している筆者は、ピラジナミドに興味をそそられました。その理由は、
●ピラジナミドがACMS脱炭酸酵素を阻害するその活性本体は、実は代謝産物のピラジン酸で、コーヒーアロマからできるピラジン酸と同じである(図2を参照)。
結核治療薬のピラジナミドとコーヒーアロマのメチルピラジン(図2では省略)は、どちらも体内で代謝されて、共通の代謝産物ピラジン酸に変わります。そしてこのピラジン酸が、図1に書き込んだように、ACMS脱炭酸酵素を阻害して、NAD生合成を盛んにしてくれるのです。そしてNature誌論文の最後の段落には、「デ・ノボ経路を強力に進める新薬候補は、病気を予防し健康長寿への道につながる」と書いてありました。
●コーヒーは、NADの原料としてニコチン酸を補給するだけでなく、ACMS脱炭酸酵素を阻害して、NADデ・ノボ経路を活性化する(図1を参照)。
ではもう1つ、極めて示唆に富んだデータを紹介します。高脂血症薬として前世紀にヨーロッパで開発されたアシピモックスは、体内で5-メチルピラジンカルボン酸(5-MPCA)になってから作用します(図2を参照)。この活性本体5-MPCAの構造は、コーヒーアロマ(2,5-ジメチルピラジン)からできる化合物と同じです。2015年、オランダ・ドイツ・フィンランドの研究グループが、アシピモックス1回250ミリグラムを服用した患者の体内で、NAD生合成が高まっていることを発見しました(詳しくは → こちら )。
このように、ACMS脱炭酸酵素を阻害してNADを増やす化合物に共通する化学構造がコーヒーアロマに潜んでいるなどとは、だれも考えなかったことです。もしかするとコーヒーのニコチン酸とアロマの成分に、病気と老化を予防するパワーが潜んでいるかも知れません。
このお話は次回に続きます。
(第374話 完)
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