シリーズ『くすりになったコーヒー』



 日本の医薬品市場から、間もなくニコチン酸が無くなります。ニコチン酸はビタミンB3の1つで、欠乏症はペラグラと呼ばれ、放置すると死亡します。


●毎日のニコチン酸補給には深煎コーヒーが欠かせなくなる。


 深煎コーヒー1杯には最大5㎎ほど入っているので、2,3杯飲めば、1日に必要なビタミンB3をほぼ満足できます。他にニコチン酸が入っている食品は非常に少ないのでコーヒーは貴重品です。それでも高齢者や重症患者にとっては、医薬品としてのニコチン酸は無くてはならない必須栄養素です。これほど大切なものが医薬品市場から消えてしまうのは何故でしょうか?


●代替薬のニコチン酸アミド(ニコチナミド)があるから大丈夫!?


 実はこういう意見が多いのです。昔はこれで済んだのですが、今は通用しません。理由は、想像以上に寿命が延びた高齢化社会の現実です。高齢者の健康維持は時代の要請だというのに、一体全体当局は何をしているのでしょうか?メーカーの「販売中止のご案内文書(下図)」が届いているはずなのです。



 この状態を見るに見かねた日本臨床栄養学会は、昨年11月、厚労省宛に「ニコチン酸販売継続の要望書」を提出しました。その添付資料として、筆者が理事長の依頼に応じて書いた説明文書が提出されました。


要望書

厚生労働省医政局経済課担当者殿


謹啓

 平素よりの医療に関するご指導に感謝申し上げます。このたび臨床栄養学会として本要望書を提出いたします。


 先日、水溶性ビタミン注射製剤「ナイクリン®注射液20mg・50mg」の販売中止の決定がトーアエイヨー株式会社およびアステラス製薬株式会社より告知されました。この中止の経緯につき同製品に最も関連が深い当学会に、両社からの事前説明がなく、急な告知によって臨床現場で活躍する多くの学会員が困惑しており、学会としても大変遺憾に思っております。当学会は疾病患者のみならず国民の栄養問題をも対象とした学会であり、栄養管理に関し意識の高い会員で構成されております。この度当学会会員の意見を受けてこの件を検討し、代替薬のないビタミン製剤の注射剤としての重要性を鑑み、本薬剤の製造供給の中止を再考頂きたいと切望しております。わが国におけるニコチン酸に関する第一人者のおひとりである東京薬科大学名誉教授 岡希太郎博士からの意見書も添付いたします。


 ご多忙中大変恐縮ですが、わが国における各種疾患患者の栄養管理に極めて重要な本剤の供給継続につきまして宜しくご配慮の程お願い申し上げます。なお本要望書は医薬品審査管理課にも提出いたしております。                            

謹白


令和2年11月13日               一般社団法人日本臨床栄養学会理事長

                                     菅野 義彦


 次に以下の文書は、筆者による「Ⅰ.ニコチン酸は不可欠な医薬品であること」と「Ⅱ.ニコチン酸には代替薬が無いこと」の説明です。


I.ニコチン酸注射薬と散薬が静脈/経腸栄養に不可欠であることについて


I-1.ニコチン酸の沿革と適応症の拡大

1937年 ニコチン酸がビタミンB3となる。VB3はNADになって機能する。B3欠乏症はNAD不足によるペラグラ(3徴候:皮膚炎、下痢、認知障害)である。当時の作用メカニズム:ビタミン要求量(10~20㎎)のニコチン酸がNADに変換されて(図1)、全身のミトコンドリアでATP産生に寄与する。


2000年 ATP産生を終えたNADは、Sirt1の基質となって分解される。するとSirt1は活性型となり、加齢疾患を予防し、老化を遅らせ、寿命を延ばす(図2)。これがVB3薬理学の本質である。この発見をきっかけに、新しいNAD前駆体の開発が盛んになった。


2003年 脂肪細胞にニコチン酸受容体(GPR109A)発見。ニコチン酸の大量投与(g単位)で脂質代謝を改善し、HDLを増やすという古くから知られる薬効薬理のメカニズムが解明された。副作用としてナイアシン・フラッシュがあるため、日本では実用化されていない。




I-2.NADは高齢者などで不足している


I-2-1.直近の論文を下記に引用して(文献1~3)、高齢者でNADが不足していることを示します。高齢者にとってニコチン酸製剤は無くてはならない薬剤で、加齢関連疾患の治療にも有用です。


I-2-2.国内で散見されるペラグラについて、ニコチン酸(=ナイアシン)が奏功するとの症例報告があります(文献4)。一般診療では、診断不十分で見逃しも多いこと、ナイアシン血中濃度測定が保険適応でないこと、一般の医師にペラグラ診断の経験が少ないこと、ニコチン酸経口剤が市販されていないことなどが指摘されている。


I-2-3.NAD欠乏は、以下のグループで見られる。これらはニコチン酸の適用になる。


高齢者


トリプトファンの過少摂取

アルコール依存症

摂食障害―例えば、過剰なダイエット、神経性食欲不振症など

その他、非健康的な食生活


I-2-4.フレイル、ロコモ、サルコペニアなど、高齢者の筋肉量低下、筋力低下、無気力などが社会問題化しているが、民族を問わずその原因がNAD欠乏にあること、NA投与で改善することが指摘されている。直近の論文2編の影響で今後の展開が期待できます(文献5,6)。


結論


 ニコチン酸製剤は臨床栄養にとって必須です。適正使用することで、高齢者医療は大きく改善され、健康寿命が延びるはずですし、医療の負担軽減にも寄与すると思われます。


Ⅱ.代替不可能であること


Ⅱ-1.高齢者のサルベージ経路は効率が低い


 教科書によれば、NAD前駆体としてのニコチン酸は、ニコチン酸アミドと同等である(図1)。この同等性は、NAD生合成のサルベージ経路の効率が高い若年者においては正しい。しかし、現代社会では65歳以上の高齢人口が増えて、NAD欠乏によるエネルギー不足と筋肉量低下の障害が目に見えるようになってきた。高齢者ではNAD生合成のサルベージ経路の効率が低下している(文献7)。今回のニコチン酸製剤の製造販売中止は、古典的VB3の概念に基づいての判断と思われる。高齢者や加齢関連疾患でNADが不足することを意識していない。


Ⅱ-2.NAD前駆体の種類


古典的前駆体 トリプトファンTrp、ビタミンB3(ニコチン酸NAとニコチナミドNAM)

新たな前駆体(未承認) ニコチナミドリボシド(NR)、ニコチナミド・モノヌクレオチドNMN


Ⅱ-3.NAD不足の高齢者はサルベージ経路が機能しにくい


  高齢者はNADが不足しているので、NADをサルベージ経路でリサイクルするには、各工程の効率が十分に高くなくてはならない。しかし現実はその逆であって、各工程の酵素活性は低い(文献7)。この損失を補うためにニコチン酸アミドを補給するとの考えがあるが、酵素活性が低下していて機能しない。新たに開発中の前駆体でも条件は変わらない。解決策は、デノボ経路に合流するニコチン酸を補充することである(図1を参照)。


  トリプトファンから始まるデノボ経路の重要性も指摘されていて、古い文献によるとニコチナミドよりもトリプトファン投与の方がNAD変換効率が高い(文献8)。しかし、トリプトファンからは種々の生理活性物質が生じるために、使用方法は難しい。


 ニコチン酸は、デノボ経路に合流してNADに変換されるため(図1)、現在知られている前駆体の中では、最も高いNAD変換率を示している。ミトコンドリア・ミオパチーの場合、NA投与でNADは最大8倍まで増加するとのデータが発表されている(文献5)。


結論


 医療用のニコチン酸に代替医薬品はありません。国内唯一のニコチン酸を含む第3類OTCとして、総合ビタミンB剤のノイビタZE(第一三共)があります。


 ニコチン酸を含む食品として、コーヒーとキノコがあり、深煎りコーヒーなら3杯/日、ヒラタケなら150g/日で必要量をほぼ賄えます。他に有用な食品はありません。


 介護用の強化米などにもニコチン酸は含まれていません。


追記:その他のニコチン酸の可能性


 特記すべきは、ニコチン酸がSARS-CoV-2の主要タンパク質(MPRO)に結合する最も小さな分子として同定されたことである。ニコチン酸はMPROの酵素活性を抑制するが、抗ウイルス作用はまだ証明されていない(文献9)。


文献

1.Melanie R, et al. Age-related NAD+ decline. Exp Gerontol, 134, 110888, 2020.

2.Braidy N, et al. NAD therapy in age-related degenerative disorders: A benefit/risk analysis.  Exp Gerontol, 132 :110831, 2020.

3.Yaku K, et al. NAD metabolism: Implications in aging and longevity. Age Res Rev, 47, 1-17, 2018.

4.稲垣良輔. 現代のナイアシン(ビタミン B3)欠乏症の特徴と診療上の課題―自験 11 例の検討―. ビタミン. 92(7), 343-4, 2018.

5.Pirinen E, et al. Niacin Cures Systemic NAD+ Deficiency and Improves Muscle Performance in Adult-Onset Mitochondrial Myopathy. Cell Metab. 31, 1078-90, 2020.

6.Migliavacca E, et al. Mitochondrial oxidative capacity and NAD+ biosynthesis are reduced in human sarcopenia across ethnicities. Nat Commun. 10, 5808, 2019.

7.Yoshida M, et al. Extracellular Vesicle-Contained eNAMPT Delays Aging and Extends Lifespan in Mice. Cell Metab. 30, 329-42, 2019. (ヒト血中NAMPT濃度の加齢変化のグラフもあります)

8.福渡 努. ナイアシン栄養におけるトリプトファン経路の重要性.日本栄養・食糧学会誌. 63, 135-41, 2010.

9.Gao J, et al. Repurposing Low-Molecular-Weight Drugs against the Main Protease of Severe Acute Respiratory Syndrome Coronavirus 2. J Phys Chem Lett 11, 7267-72, 2020.


(第432話 完)



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