シリーズ『くすりになったコーヒー』


 遺伝子は、時と場合によってタンパク質を合成したり、何もせずに眠り込んだりしています。例えば、精子や卵子のDNAのほとんどが、受精するその瞬間まで静かに眠っているのです。何故なら、精子と卵子は受精して初めて生命活動を始めるので、それまではエネルギーを温存して、その瞬間をじっと待っているのです。こういうことは生殖細胞だけでなく、あらゆる種類の体細胞でも起こっています。今日の話題は、このような変化が間違いなく進むように、遺伝子DNAをメチル化して眠らせるメタニズムのお話です。

遺伝子が発現(タンパク質を合成)しないように、DNAのメチル化(およびヒストンのメチル化とアセチル化)が起こっている。

 実はDNAだけでなく、DNAの鎖が巻き付いているヒストンと呼ばれるタンパク質の塊もメチル化されたり、またはアセチル化されたりしています(図1を参照)。



DNAメチル化のメカニズムとコーヒーの関係

 DNAのメチル化は、遺伝子を構成している4つの核酸塩基(A:アデニン;G:グアニン;C:シトシン;T:チミン)のうち、シトシン(C)に起こります。そのメカニズムが詳しく研究されて、今では図2に示すような「DNAメチル基転移酵素」の働きでメチル化回路が回転することが分かっています。このメチル化回路は、S-アデノシルホモシステイン(SAH)というアミノ酸と、それにメチル基が結合したS-アデノシルメチオニン(SAM)というアミノ酸からできています。そして、酵素の働きで、SAMのメチル基がCに供与されると、SAMはSAHに変わって、メチル基転移反応が終わります。できたSAHは別の酵素の働きで元のSAMに戻って回路が成立するのです。



コーヒーのカフェ酸がDNAのメチル化を阻害する(詳しくは → こちら)。

 図3をご覧ください。コーヒーのクロロゲン酸が体内で変化してできるカフェ酸は、ポリフェノールとして抗酸化作用を発揮します。この作用とは別に、カフェ酸の分子に2つ並んでいる水酸基(OH基)の1つが「カテコールメチル基転移酵素」の作用でメチル化され、フェルラ酸に変ります。この反応で使われるメチル基は、図2と同じSAMのメチル基なので、シトシンとカフェ酸は異なるメチル基転移酵素を使うとはいえ、どちらもSAMのメチル基を取り合う関係にあるのです(図3)。ですから、カフェ酸がなければ比較的速やかに進むシトシンのメチル化が、コーヒーを飲むとカフェ酸で遅くなるのです。



健康な人が健康でいるためには、DNAをメチル化する方が良いのか、それともしない方が良いのか?

 ジョンズ・ホプキンス大学の研究グループによれば、ヒトの遺伝子は2万個を超えています。今は眠っている方が健康に良い遺伝子と、今こそ働いてくれないと健康でいられない遺伝子とがあるはずです。ですから遺伝子全体を無差別にメチル化したりしなかったりするのでは、何が起こるか分かりません。遺伝子のメチル化と健康の関係は、まだ解明が始まったばっかりで、分からないことだらけです。生まれたときのゲノムに対して、成長するにつれて数が増えるメチル化遺伝子のことをエピゲノムと生んで、新しい研究分野になっています。次に紹介する研究は、数少ないコーヒーエピゲノム研究の成功例で、コーヒーが遺伝子の発現と深く係わっていることを初めて示したものです。

ストレスを与えるとDNAのメチル化が促進される(詳しくは → こちら)。

 図2では省略しましたが、メチル化回路にはSAHがSAMに戻らずに、別の代謝を受ける経路があります。その経路を図2に書き加えて図4を描きました。SAHがシスタチオニンを経てグルタチオン(抗酸化性の小さなペプチド)になる経路です。この経路は、SAHにシスタチオニンβ合成酵素(CBS)が働くことで進みます。この研究の新発見は、「ストレスがCBSを阻害する」ということで、グルタチオンはできなくなってしまいます。一方SAHは、メチル化回路を進んでSAMに戻り、SAMのリサイクルが成り立って、そうなればシトシンのメチル化、つまりDNAのメチル化が進むことになるのです。新発見は、「ストレスはDNAのメチル化を促進する」ということです。



コーヒーはメチル化回路を止めることでSAMを減らし(図3)、ストレスに対抗してDNAシトシンのメチル化を抑制する(図4)。

 さて、お分かりでしょうか?昔から「コーヒーはストレスを和らげる」と言われてきました。しかし、どの成分がどのように関与するのか解りませんでした。今回の研究で、そのメカニズムの一部が遺伝子DNAのメチル化にあることが浮き彫りになったのです。しかしそこでまた新しい疑問が生まれました。

ストレスとコーヒーのカフェ酸が関与するメチル化には、一体どの遺伝子のどのシトシンが係わっているのか?

 これは非常に難しい問題ですが、図4下部の絵をご覧ください。長いDNAの鎖は染色体の中でヒストンという毛玉のようなタンパク質に巻き付いて安定化しています。毛玉がほぐれると遺伝子が発現する(タンパク質を合成する)状態になりますが、発現を促すプロモーター部分のシトシンがメチル化されているとできません。これがすなわちストレスがかかった状態だとしましょう。コーヒーのカフェ酸は、ストレスでメチル化が起こる段階を抑制していると考えられます。一旦メチル化されたものを元に戻すことはなさそうです。今想像できることはそこまでです。

分からないことが沢山ありますが、コーヒーの科学は確かに進歩しています。

 コーヒーを飲んでストレスが和らぐことは確かな事実なので、それがどんなメカニズムであろうとも、健康のためには飲んだほうが良いと言えます。何故なら、ストレスが掛かったまま放置すると、ヒトはやがてうつ状態になったり、酸化障害であちこちの臓器がダメージを受けるからです。

 働き盛りの年齢は最もストレスの大きい世代です。健康への影響を可能な限り減らすように、生活習慣の強力な知恵がコーヒーにあると信じることが肝要です。

(第450話 完)