シリーズ『くすりになったコーヒー』
教えてくれたのはNHK大河ドラマ「青天を衝け」でした。19世紀後半、若い澁澤栄一がパリで飲んだコーヒーはどんなものだったのか?日本コーヒー文化学会が古文献から紐解きました。ひたちなか市でサザコーヒー店を営む学会副会長の鈴木誉志男さんは、水戸でも大活躍した澁澤栄一に因んだ「澁澤栄一仏蘭西珈琲物語」という派手な名前のコーヒーを復元して販売しています。
●その頃のパリでは、カフェレストランが美食の街の賑わいを見せていた。
昨年12月、同学会のシンポジウム「徳川使節団・澁澤栄一が体験したコーヒー文化」をZoomで開催しました。鈴木誉志男さんの他に、コーヒーの歴史に詳しい山内秀文さん(All About Coffeeの翻訳者)とコーヒー好きの詩人小山伸二さん(エコール辻東京)が進行係を務めました。その頃すでに家庭用のコーヒー器具が想像以上の進化を遂げていましたが、それ以上に生豆の泥汚れはびっくりするほど酷かったとのことで、焙煎前の水洗いが当たり前のことだったようです。
●文献通りの方法で、水洗して焼いた豆を淹れて飲んでみると・・・
「スッキリした良い味がした」と話すのは鈴木さん。山内さんも頷いていました。ということで、生豆を洗ってから焙煎する方法は現在でも通用するようです。
関連する話をもう1つ。今は故人となったネルの達人森光宗男さんは、お店で綺麗に洗ってから焼いて淹れたモカコーヒーを提供していたそうです。著書「モカに始まり」はコーヒー好きには堪らない一冊(写真)と話してくれたのは、岐阜で待夢珈琲店を経営している今井利夫さんです。
最近になって、生豆を洗って焙煎するコーヒー店が少しずつですが増えつつあります。Facebookに毎日投稿している竹林利朗さんは(詳しくは → こちら)、アームズメソッドと名づけた湯洗焙煎を推奨しながら、主に西日本方面のコーヒー店で個別指導する他に、地域で勉強会を開いて啓蒙しています。
●昔と違って現在の生豆の汚れは許容範囲内なのに、なぜ洗うのか?
「安全は科学の話で、安心は人の心」と言われます。科学がいくら安全と訴えても、それは統計上の話ですから、「安心できない」という人が居ても仕方ありません。コーヒー豆が生産者から消費者に届くまで、汚れが生じる段階は多々あります。収穫後の天日干し、果肉の除去、水洗い、防カビ剤噴霧、貯蔵、運搬・・・1年は続く長くて複雑な工程を経る生の植物の種ですから、汚れが気にならない方が不思議です。しかし、町で購入した生豆はそのまま焙煎するのが普通で、「洗ってから焙煎する」ことの意味を否定する方も大勢います。それでは危ないだろうと自宅で焙煎する消費者は、自己流のやり方で水洗または湯洗するのですが、実はその効果について十分なデータがありません。
●重金属汚染は一応の基準を満たしている(詳しくは → こちら )。
例えば最近、ポーランドの市販焙煎豆のデータが論文発表されました。ハーブやスパイスに比べると、コーヒー豆の重金属汚染は問題にならないようです。厳密にいえば、鉛汚染が基準を逸脱する可能性は否定できないとのことですが、実際に健康被害の事例はないのだそうです。では生豆を洗うと重金属は減るのでしょうか?残念ながらそういうデータは何処にもありません。
●洗った生豆と洗わない生豆を焙煎して、重金属含有量を比べてみた(質量分析機で実験)。
湯洗後焙煎すると重金属が減るとの考えで、医薬経済社が意匠登録している「希太郎ブレンド」は湯洗を実践しています。湯洗の第1の目的は汚染除去ですが、愛知県で焙煎工房999を主宰している木野照代さんによれば、「風味がまろやかになって、苦いコーヒーが苦手な人にも受け入れられる」とのことで、筆者も同感です。実際に販売してみると、リピーターが口を揃えて言うことは「飲みやすくて美味しい」とのことで、冒頭に書いた鈴木さんの感想と似ています。
そこで実際に質量分析機で金属元素を比較測定してみたところ、図のような結果が得られました(東薬大生命科学部に依頼して産総研の技術者が測定したデータ)。
●図に赤字で書いた元素が湯洗後焙煎で減少した。
図で茶色のスポットは湯洗せずに焙煎した豆、緑色が湯洗後焙煎の豆に含まれる金属元素の濃度です。左側には軽金属が多く、水洗しても量が変わらない元素が並んでいますが、右端へ行くとニッケルやコバルトなど赤字で書いた重金属元素が湯洗で減ることが解りました。スポットした元素は正確な定量分析が可能で、正しい測定値が得られたものです。
図右側の追記には、より含有量が少ないために正確な数値が出せなかったものの、明らかに減少が認められた元素名が書いてあります。多くの重金属が赤字で書いてありますが、懸念された毒性の強い水銀は検出できない微量でした。また、検出できた重金属は全て基準値以下で、健康に影響があるとは考えられない量でした。
●湯洗後焙煎した「希太郎ブレンド」の味がまろやかになる最大の利点は、コーヒーを飲める人が増えること。
実に多くの人がコーヒーを飲まずに過ごしています。その人たちの中には、「飲んでみたいのだが苦いのは苦手、飲むと具合が悪くなる」という人が混ざっています。そういう人たちにもコーヒーの健康効果を享受してもらうには、飲みやすく美味しくするのが一番です。湯洗後焙煎はその目的に適った焙煎前のテクニックなのです。ちょっと考えてみれば、買ってきた野菜を食べる前に洗うことと同じです。この方法が普及すればコーヒーを飲む人口が確実に増えて、「世の中に健康で元気な人が増える」ことも期待できます。
●湯洗後焙煎でカビ毒や防腐剤も減っている可能性がある。
これらは実験で検証された訳ではありませんが、今のところは野菜や果物をそういう目的で洗うことと同じだろうと考えています。
●最後のもう一度、澁澤栄一ら一行がパリで飲んだコーヒーは、水か湯で洗って焙煎して淹れたコーヒーで、味は実にまろやかで、それでいて香り高い飲み物だったと想像できます。
(第468話 完)