デンマーク生まれでロチェスター大学教授の神経科学者マイケン・ネダガードは、2012年の論文(詳しくは → こちら)に「脳のゴミ処理装置として働くアルツハイマー病患者の水の流れ経路」を証明して、これを「グリンパシステム(Glympatic System)」と呼びました。「グリ」はグリア細胞、「リンパ」はリンパ管のことで、グリからリンパへの水(間質液)の流れが、間質に散らばっているゴミを洗い流すという意味です。図1右はこの論文に載っている説明図で、矢印が水の流れの方向、丸い紫が脳のゴミを示しています(赤は動脈で青がリンパ管)。



●流れの動力は、アストロサイト足端に並んでいるアクアポリン4(AQP4)である。

 図の4つの細胞はアストロサイトで、突起の先端が赤の動脈と青いリンパ管にへばりついて、そこにAQP4がびっしりと並んでいるのです。AQP4は水の出入り口で、圧力の高い赤から低い青へと流れが生じているのです。Wikiでイメージが見られます(詳しくは → こちら)。


●認知障害の原因物質Aβの放射性同位体を使って流れの有無を観察した。



 脳内の水の流れを観察するために、マウスの脳に標識Aβを注入して実験しました。するとその放射性物質が脳全体に拡散する速度(図2の上)と、脳から排泄される速度(図2の下)は、ともにAQP4をもった野生型のマウスで早かったのです。AQP4を遺伝子操作で除去したノックアウト・マウスでは、拡散も排泄もゆっくりと進むことが確認されました。脳内に拡散した放射性物質の測定には、造影剤増強MRIという手法が使われました。そして正常な脳にはグリンパシステムがあって、そこを流れる間質液がAβの排除に役立っていることが解ったのです。これは画期的な実験で、「グリンパシステム」の知名度を高めるには十分な魅力を持っていました。そこでマイケン博士は、2013年のサイエンス誌に、グリンパシステムを説明する解剖図のイラスト(図3)を載せて、最初の論文よりずっと分かり易い解説論文を発表したのです(詳しくは → こちら)。



 グリンパシステムに水を供給しているのは動脈の外側に沿って流れる脳脊髄液(CSF:図3の左上)です。これまでの脳科学でよく知られていた脳の水の流れと言えば、脳脊髄液のことでした。そして血液と脳脊髄液の間に血液脳関門(BBB)というバリアがあって、ここを通過できる血液成分は限られているのです。マイケン博士の発見によって、BBBを通過してCSFに入った成分でも、AQP4が生み出す水の流れに乗らなければ、脳の中に侵入することは出来ません。このようにして、脳神経とグリア細胞は、二重の関門で血液と隔離されているのです。


●Aβのように脳神経細胞が作っている脳内有害物質は、グリンパシステムがないと排泄されない。

 グリンパシステムの魅力とは、昼間よりも夜の方が活発で、睡眠中は4∼10倍多い水が流れているとのことです。そしてその水の流れが、脳内でできる有害物質を眠っている間に排泄しているのです。そういう有害物質はAβの他にもタウ(τ)タンパク質やパーキンソン病の原因となるシヌクレインも知られているので、研究の成り行きに大きな期待が掛かっているのです。ではこのグリンパシステムにコーヒーはどんな効き目を発揮できるのでしょうか?筆者の興味はまさにその点にあるのです。


●モデルマウスの種類を変えても、AQP4の働きは変わらない(詳しくは → こちら)。

 マイケン博士が使ったマウスとは異なる系統のADモデルマウス(12月齢のAPP/PS1マウスと、そのマウスのAQP4遺伝子をノックアウト(AQP4-/-)したマウス)を使った実験で、AQP4があると脳内Aβの量が減ることが確認されました。また、Aβが凝集して作るアミロイド斑(老人斑)の大きさを顕微鏡で観察し(図4上)、タンパク質分析で脳内Aβの重量を測定して(図4下)、AQP4ノックアウトマウスでAβが増えることが確認されました。



 では、脳内Aβとコーヒーの関係を見てみましょう。


●毎日コーヒーを2杯以上飲んでいると脳内Aβの量が減る(詳しくは → こちら)。



 以前の疫学データでは、コーヒーとアルツハイマー病の確かな関係は分かっていません。リスクを下げると上げるの両方のデータがあったのです。つまり病理学的な証拠が何もなかったのです。この論文は「コーヒーを飲んでいる人の脳内Aβが少ない」ことを、健常成人411名の脳ポジトロン画像、PET画像、MRI画像を解析して、コーヒーの効き目を具体的に示した最初の論文です。図5は、コーヒーの累積1日平均摂取量(左)と現在の1日平均摂取量(右)を比較して、1日2杯以上でAβ蓄積量(陽性率)が下がることを示しています。


●アルツハイマー病モデルマウスではクロロゲン酸が効いた(詳しくは → こちら)。

 体重減少にヘルシア缶コーヒーを開発した㈱花王食品の研究です(図6)。正常マウスとADモデルマウスを使って約半年間の飼育実験を行いました。ADモデルマウスには、普通食と普通食にクロロゲン酸の1つである5-カフェオイルキナ酸(5-CQA)を0.8%混ぜた餌を与えて飼育しました。その後、脳サンプルのAβプラークを染色して、プラークの数と画像面積の割合%を比較しました(図上3枚と下の右2枚を参照)。5-CQAで育てた群の脳にはAβプラークの数と面積が減っていることが解りました。



 次に、脳血管壁に発現しているAQP4を染色して比較したところ、ADモデルマウスでは低値だった画像面積が、5-CQAによって回復していることが解りました(図下の左)。以前から、コーヒーのクロロゲン酸が認知症マウスの記憶力を回復させるとの論文が複数ありましたが、今回の花王食品の論文は、過去の観察に薬理学的な根拠を与えたことになります。


●τ(タウ)タンパク質もグリンパシステムで排除される(詳しくは → こちら)。

 τタンパク質とは、Aβと同じく脳のゴミと呼ばれるもので、Aβ説での新薬開発がもたつく中で、代わりに注目されるようになりました。タウこそが神経細胞を直接殺す犯人だとの考えです。このτタンパク質がAβと同じようにグリンパシステムで排除されることを、東大の岩坪教授らのグループがノックアウトマウスを使って確認し、今年発表したのです。予想されていた結果とは言え、実験法の精密さを反映した論文の反響は大きく、新薬開発が加熱する気配が感じられます。図7はプレスリリースで使われたイラストで、図中のAβと、四角内の文章は筆者が書き加えたものです。図3の解剖図イラストと合わせてご覧ください。



 図下左は海馬周辺のタウタンパク質、右は同じく神経細胞の画像です。AQP4ノックアウトマウスでは、τタンパク質が増えて、神経細胞が減っていることがわかります。このように、グリンパシステムがAβに加えてτタンパク質の排泄にも関わることが確認されたことで、脳神経障害がもたらす認知症の予防、上手くすれば治療にもこのシステムが役立つ可能性が生まれたのです。


●グリンパシステムの総説論文が示唆的である(詳しくは → こちら)。

 UCL(ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン)と言えば、世界有数の大学ランキングトップ校。医学部画像診断部でアルツハイマー病研究班を率いるIan F Harrisonは、2020 年の論文で、AQP4とτタンパク質の関係を指摘していました(詳しくは → こちら)。そしてこの総説論文の要旨に「グリンパシステム」の10年の流れが簡潔に書かれています。



 図の吹き出し7行目「細胞内に蓄積し易いタンパク質ほど(グリンパシステムを通って)排除されやすい」に注目して下さい。「だからどうする?」についての考えは書いてありませんが、グリンパシステムの水の流れを絶やさなければ、τもAβも凝集しなくなる、あるいは凝集し難くなるということです。

 古典の方丈記の書き出しに、「ゆく河の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結びて久しくとどまりたるためしなし」とあるのは、京都の町の人々の様子になぞらえたものですが、実は脳の中も似たようなもので、流れがあってこそ常に綺麗に保たれているのです。言われてみればなるほどと納得してしまいます。

 脳の水の流れはAQP4の数と質によるはずですから、それを実現する薬の候補が見つければ、アルツハイマー病の薬ができる・・・ということになるのです。


●グリンパ系を改善する創薬はコーヒーでスタートした。

 脳浮腫という病気があります。この病気になると脳内に水が溜まって圧力が増し、重症では死に至ることもあります。脳に水が溜まる理由の1つとして、AQP4の活性が高まっているとのことで、少なくとも発症の初期段階ではAQP4の抑制が効果的なことがあるとのことです(詳しくは → こちら)。

 逆にアルツハイマー病では、AQP4活性が低下して、いわゆる「脳のゴミ」が溜まると発症すると考えられています。ですからAQP4を活性化する方法が見つかれば、それはアルツハイマー病の予防と治療に役立つ可能性があるのです。


●現在までのところ、AQP4を活性化する食物成分は㈱花王食品の5-CQAのみ、合成品は新潟大学のTGN-073だけである(図9)。

 5-CQAについては上記を参照してください。TGN-073は、新潟大学脳研究所の五十嵐博中教授らのグループが、世界初のAQP4活性化物質として合成したもので、これをアルツハイマー病モデルマウスに投与して、脳に蓄積する老廃物を排出する働きがMRIで観察されました(詳しくは → こちら)。同研究所はTGN-073の臨床試験を企画しているとのことです(詳しくは → こちら)。



●まとめ

 一般の読者にとっては多少難しい内容もあったと思いますが、アルツハイマー病の治療薬開発が新たな局面を迎えていることは理解して頂けたと思います。世界のあちこちで新たな候補が出来ているはずですが、どこも早急な発表は慎んでいる気配があります。確かな新薬が登場するまでは、クロロゲン酸もニコチン酸も「いいとこどり」で含んでいる「希太郎ブレンド」を毎日飲んで過ごすのが、新局面先取りの賢い近道だと思います。


(第473話 完)